常陸の最後の南北朝の戦い 難台山合戦
難台山城とは
難台山城は、現在の笠間市と石岡市の境界にあります。関城が落城し南朝の巨人畠山親房が常陸を去った後、久しく沈黙していた南朝方勢力が、常陸の北朝方に最後の戦いを挑んだ場所です。
難台山合戦に至る経緯
小山義政の乱
2代目 鎌倉公方 足利氏満に代替わりした直後の天授6年/康暦2年(1380)5月、下野守護 小山義政は、公方氏満からきつく止められていたにもかかわらず、隣の宇都宮基綱を滅ぼしてしまいました。
小山氏も宇都宮氏も下野(しもつけ)の古くからの豪族です。公方氏満は、自分の言うことを無視した義政に対して怒り、自ら出馬します。
その結果、弘和2年/永徳2年(1382)、公方氏満は小山義政を自害に追い込みました。
3代将軍義光による南北朝統一の10年前の出来事です。
常陸最後の南北朝の戦い 難台山で北朝に挑む小山若犬丸
義政の死で、下野名門 小山氏が滅んでしまうかと思われましたが、義政は自刀しましが、義政の嫡男若犬丸(わかいぬまる)は、難を逃れ奥州に逃げ延びることが出来たのでした。
奥州では田村則義を頼り、そこで5年ほど匿われていました。そして元中4年/嘉慶元年(1387)7月、小山若犬丸は満を持して鎌倉公方氏満に戦いを挑みました。
この頃南朝は、後亀山天皇の在位期間です。若犬丸は、後見の奥州田村氏だけでなく、古くから東国南朝の中心勢力だった、小山残党、小田に「南朝忠節」を旗印として協力を募ります。そして、小山若犬丸を中心に、小山・小田・田村がこの旗の下に反鎌倉・南朝再興を目指して結束しました。
拠点は、現在の笠間市と石岡市の境界にあり、常陸国のほぼ中央に位置する難台山でした。
公方氏満の対応
「南朝忠節」を旗印に結束した小山若犬丸の軍勢に対し、公方氏満は、管領上杉朝宗(ともむね・犬懸家)を主将として討伐軍を送りました。
朝宗勢は、難台山城の向山に陣を張りますが、難台山城はなかなか落ちません。この膠着状態を破ったのは、佐竹軍でした。
難台山合戦で活躍する佐竹軍
1387年当時、佐竹の当主は12代佐竹義宣(よしのぶ)となっていました。(戦国時代の佐竹21代義宣とは別人なので注意が必要です。)祖父貞義は生涯足利尊氏に従い、父義篤は、鎌倉府の重鎮です。当然義宣も2代公方氏満の命を受けて難台山合戦に向かうはずが、出陣していません。
なぜでしょうか。実は、小田氏と佐竹義宣は、極近い親戚関係だったのです。義宣の母は、小田一族の小田知貞(ともさだ)の娘でした。また、義宣の姉は小田孝朝(たかとも)の妻でした。
母が小田氏、姉の嫁ぎ先も小田氏だったわけです。このような理由で義宣自身は出陣せず、代わりに譜代の家臣小野崎通郷と江戸通高を出陣させました。
小野崎通郷の活躍
関東管領 主将の上杉朝宗が苦戦する中、勝敗を動かしたのは小野崎通郷でした。小野崎勢が難台山城の補給路を発見し、食料の補給を絶ったことで勝敗が決したのです。
落城前、小田孝朝は降伏が許されましたが、孝朝の子の小田五郎藤綱は父が降伏した後も、上杉朝宗と戦い続けました。しかし、最後は自刀して果てたとされます。
敗れた小山若犬丸は、奥州に落ち延びましたが最終的に自刀したと言われています。
小山若犬丸の死により、名門小山氏は滅亡しました。
小山氏を再興させた 公方氏満
小山氏滅亡後、小山氏旧臣や領民の小山氏滅亡に対する不満や動揺が収まらない状態が続いていました。
一度は小山氏を滅ぼした公方氏満でしたが、この状態を良しとせず、結論として小山氏と同じ同族の結城基光の子、結城泰朝に小山氏を再興させました。
再興は、元中5年/嘉慶2年(1388)のことでした。
鎌倉公方氏満は、滅ぼした小山家をすぐに再興させたことになります。
降伏した小田孝朝はどうなったか
一命は許されましたが、所領のほとんどを失い、この後小田氏は衰退の一途をたどります。
小田氏の旧領は、おおむね関東管領上杉朝宗に与えられました。
勝利に貢献した佐竹譜代 小野崎氏と江戸氏は 何を得たか
この戦の効によって、小野崎・江戸の両氏は、公方氏満によって、常陸守護代に任命されました。家格の上昇です。
那珂通辰の末裔 江戸通景(みちかげ)
難台山合戦で、江戸通高自身は戦死してしまいました。しかし、その効が評価され、その子通景が小野崎通郷とともに「守護代」に任じられました。
さて、難台山合戦で活躍した小野崎氏と江戸氏ですが、この江戸氏とはどのような一族でしょうか。実は、この江戸氏こそ、瓜連城で南朝方として戦い、一族皆殺しとなった那珂通辰の子孫なのです。
瓜連城の戦いで一族34名が自害して果てたとき、たった一人生き残った那珂通辰の子が通泰、難台山合戦で討ち死にした通高が通泰の子、その子が通景です。
通景は、公方氏満から河和田・鯉渕・赤尾関などの地を与えられました。これにより、本拠である那珂郡の江戸郷から那珂川を南に渡り、桜川流域の河和田城に移りました。河和田城は、水戸駅から西にわずか6キロです。
常陸大掾一族馬場氏の水戸城の、目と鼻の先への本拠地移転です。
那珂通辰の死後、通泰は尊氏に従い、那珂郡の江戸郷を得ます。その江戸郷にちなみ那珂氏から江戸氏と名乗りを変えました。
そして、今回の難台山合戦で討死した父通高の戦功により江戸通景の河和田進出が実現しました。
江戸氏の南下は、そのまま佐竹勢力の南下という一面もあります。しかし、それ以上に江戸氏自身の自立の芽を育むことにもなりました。
那珂通辰の無念の死から、4代目の子孫の時代に、やっと佐竹と同格になれる可能性が出てきたわけです。
難台山合戦が北朝と佐竹氏にもたらした意義
難台山合戦は、板東における南北朝最後の戦いでした。南北朝統一は、難台山合戦の数年後の元中9年/明徳3年(1392)10月のことです。それまでダラダラと日和見的な動きを見せていた有力守護大名たちが難台山合戦によって、「これはもう武士の世、北朝で決まりだ」そう思ったのではないでしょうか。
この意味で、常陸の国の「難台山合戦」は武士の世・北朝の世を決定付けた戦いでした。
また、佐竹一族という視点で見れば、有力武士団を常陸守護として動かす力を持つことを京・鎌倉に認知させ、常陸の有力武士団にも、佐竹が一段と勢力を伸ばたことを示したわけです。
これにより、常陸大掾氏や小田一族、再興された小山一族を、圧倒的有利な立場で圧することになりました。
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