藤原鎌足の生誕地について大きく二説がある。一つは、大和国高市郡大原説。もう一つは、常陸国鹿島説。有力説は大和出身説だが、古来より鹿島説も根強い。鹿島は、鉄の産地でもあり、武力に優れるもののふの地でもある。また、物産豊かな地でもあるので、一族を支える経済的基盤を築くのに優位な地でもあった。このようなことから、藤原氏の興隆の発端は鹿島で築かれたと見ても不思議ではない。鹿島は歴史の変革をもたらした場所であり、古代日本の興亡が交錯する地。鎌足の生涯と国家形成への影響が、この土地から見事に語り継がれている。藤原鎌足の名は、日本の歴史に於いて永遠に刻まれる存在。
1.藤原鎌足の紹介
藤原鎌足と言えば、乙巳の変(いっしのへん)。
中大兄皇子(後の天智天皇)とともに蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足(なかとみのかまたり)のこと。
「乙巳の変」とは、私が現役で生徒たちに教えていたときには、大化の改新としていた事件。
藤原鎌足は、乙巳の変(大化の改新)の立役者の一人だった。
2.鎌足が日本史に与えた歴史的意義
この事件後、藤原氏は他の氏族を押さえ込み、「一氏独裁」体制を整えていった。
その体制を進める上で、「日本書紀」や「古事記」が編纂され、歴史は、藤原氏中心に書き換えられていったものと思われる。
中臣は、本来職名。
神と人との中を取り持つ職種の氏族が「中臣」を名乗っていた。よって、中臣を名乗る者がすべて血族的に同一というわけではない。いくつかの血族の集合体だった。
(これは、中臣を従えていた物部も同じだった。)
その中の一血族の中臣鎌足が属する中臣氏が権力を握り、藤原姓を得た。
では、中臣鎌足の属した中臣氏が根を張っていた土地は、どこだったのだろうか。
3.藤原鎌足の誕生と生涯
藤原鎌足は、謎の人だ。
出身地、祖父母は明らかになっていない。
大織冠伝
鎌足の伝記「大織冠伝(たいしょくかんでん)」(760年ごろに編纂)には、大和国高市郡大原(藤原第)が鎌足の生地とある。
また、父の名は御食子(みけこ)、母は大伴夫人となっている。
生まれ年は、豊御炊(とよみけかしき)天皇(推古天皇のこと)の22年。
西暦で言うと614年。
だが、この説に対し根強く残る異説がある。
『大鏡』巻5「藤原氏物語」
『大鏡』の「藤原物語」にあるように、
「鎌足は、常陸国の鹿島で生まれた」という説である。
「藤原物語」には、
・内大臣になった中臣の鎌子連の生まれは常陸国。
・39代天智天皇のとき、鎌足は「藤原」姓に改まった。
・鎌足が生まれた常陸国の鹿嶋という所に、氏の御神を祭り、新に帝・后・大臣が立ったときには、弊使を必ず鹿嶋に送った。
・帝が奈良においでになったとき(710年)、鹿嶋から大和の三笠山に神を分祀した。その社を「春日明神」と名付け、藤原氏の氏神とした。
などが、記されている。
『大鏡』は、11世紀末から12世紀初頭に編纂されたと思われる。
つまり、「大織冠伝」よりずっと後世の作であり、物語性が強く明らかな記載ミス・記録ミスも目立つ書物ではある。
よって、学者の中には「『大鏡』の記述を信じない」とする人もいるのは確か。
それでも中臣鎌足が鹿島の出身だったという説は、一考に値する説だ。
鎌足、鹿島生誕説
残念ながら鹿島関連の書物に中臣鎌足の名は、未だに見つかっていない。
ただし、「中臣鎌子」という名は見られる。
また、鹿島大社から神を分祀し、春日大社を創建したことは史実。
そして、春日大社を藤原の氏神とした。
これはつまり、鹿島の地こそ藤原氏の故郷だということではないだろうか。
4.藤原氏と鹿島の関係
常陸に進出してきた大和系の人々の中心は物部氏だった。
物部氏は武闘集団であり、中臣氏同様「職名集団」であった。
血族的には一つではなく、いくつかの集団の集合体だった。
その集団に、中臣系「多」を名乗る一派がいた。
その代表が「那珂国造」の祖となった中臣多借間命(建借間命)。
建借間命は物部系の多氏族。
ナカトミノオオカシマの命は、「中臣」と「多」と「鹿島」を名にもつヤマトの征服者だったのだろう。
これは全くの私論だが、『建借間命はもともとは物部氏の部民であり、物部氏に仕える一武将だった。だが、物部氏の滅亡の後に、常陸の国の那珂や鹿嶋の征服者の主役として歴史が書き換えられた』のではないかと推察している。
5.日本史における藤原鎌足の業績
中学校歴史教科書には、藤原鎌足(中臣鎌足)の業績はどのように記述されているのだろうか。
私が教師をしていたころの平成20年代の教科書を調べてみた。
調べた教科書等は、東京書籍・帝国書院・日本文教出版・吉野教育図書の歴史基本用語である。
『大化の改新』
こうした中で中大兄皇子は,645年,中臣鎌足(のちの藤原鎌足) などとともに蘇我蝦夷•入鹿の親子をたおし,鎌足や帰国した留学生などの協力を得ながら,新しい政治のしくみをつくる改革を 始めました。都が難波(大阪府)に移され(難波宮),それまで豪族が支配していた土地と人々とを,公地•公民として国家が直接支配する方針が示されました。また,朝廷の組織が整えられ,権力の集中がめざされました。このとき,日本ではじめて「大化」という年号が使われたといわれているので, この改革を大化の改新と呼びます。〈東京書籍〉
東京書籍では、『大化の改新』という項目をたて、中大兄皇子(天智天皇)や『鎌足』らによって、公地•公民制度が整えられ『天皇中心の世の中』が実現することを教えようとしている。
東京書籍では、「大化の改新」の項目中に、「朝廷」という言葉を用いるが、「ヤマト王権」という用語は用いず、対比構造を取っていない。
『それまでの連合政権であった「ヤマト王権」から、天皇中心の「朝廷」としての組織がととのえられていった』という構図は読み取れるのだが、教師の説明が無ければこの文章だけで「ヤマト王権」から「天皇中心の世」への変化を読み取るのは難しかっただろう。
『大化の改新と白村江の敗戦』
海外情勢の変化により,倭国は国家のしくみを整える必要がありましたが聖徳太子の死後,蘇我氏がいっそう力を強め,権力を独占していました。中大兄皇子(のちの天智天皇)は,中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らとはかり,645年,蘇我氏をたおして政治改革に着手しました(大化の改新)。しかしその実現には,こののち50年ほどかかりました。
朝鮮半島では,唐が新羅と結んで百済を攻めたので,倭国は百済を支援するため大軍を送り,唐•新羅の連合軍と戦いました。しかし663年,倭国の軍は白村江で大敗し(白村江の戦い),朝鮮半島から退きました。その後,朝鮮半島は新羅によって統一されました。倭国は,唐•新羅が攻めてくるのに備えて守りをかためるとともに,日本にのがれた百済の人々の知識や技術を取り入れて,唐にならった国づくりをめざしました。そして初めて全国の戸籍をつくるなど,本格的な国内の改革に取りかかりました。〈帝国書院〉
帝国書院の方は、『大化の改新と白村江の敗戦』という項目をたて、『鎌足』らが、『唐に習った国づくり』をめざしたことが強調されている。
帝国書院は、この項目の中に「ヤマト王権」、「朝廷」どちらの用語も用いていない。
説明は詳しいのだが、「唐に習った国づくり」が一体何を指すのか逆に分かりづらいのではないだろうか。
『大化の改新』
ヤマト王権は,隋に代わった唐に対して,新たに遣唐使を送って国交を結びました。さらに,隋の時代から留学していた人々を帰国させ, 唐の制度や知識をとり入れた国づくりをめざしました。
唐にならって,天皇家が主導権をもつ国家をつくるため,中大兄皇子と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は,645年,蘇我氏をたおして政権をにぎり,難波宮(大阪府)に都を移しました。その翌年,全国の土地と人民を国のものとして(公地公民),天皇がそれらを支配するという方針を打ち出しました。この一連の政治改革を,大化の改新とよんでいます。
『京都の都』
8世紀後半になると,皇族と中臣鎌足の子孫である藤原氏との勢力争いがくり返されるようになりました。また,寺院の僧侶が政治に口出 しをすることも多くなりました。そこで桓武天皇は寺院を奈良に残したまま,都を山城(京都府)の長岡京に移し,さらに794年には京都に移して平安京と名づけ,その名の通りに平和で安定した社会をめざして政治の改革に乗り出しました。これ以後, 鎌倉幕府ができるまでを平安時代といいます。
朝廷は,ゆるみはじめた律令政治を立て直すため,地方の政治を担当する国司の不正をきびしく取りしまったり,税や労役10を軽くしたりして,班田収授の実行に力を入れました。
また,このころ朝廷は,奈良時代にはおおむね関東地方までだった国の支配を,さらに東北地方にまで広げようとしていました。律令国家の支配を受けることに強く反対する蝦夷たちに対して,平安時代に入るころ朝廷は,坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して大軍を送り,ようやくこれをしずめました。〈日本文教出版〉
日本文教出版も、『大化の改新』という項目を設けている。そこで『唐に習った国づくり』つまり、『天皇家が主導権をもつ国づくり』をめざしたことが明確に示されている。
また、別に『京都の都』という項目をたて、『中臣鎌足の子孫が藤原氏』となり、やがて皇族と勢力争いをしたことが触れられている。
『鎌足』が登場する『大化の改新』と『京都の都』の項目で、『ヤマト王権』と『朝廷』をそれぞれ用いることで、こちらも連合政権としての「ヤマト政権」から天皇中心の「朝廷」が整っていったことが読み取れる。
一方、帝国書院は、教科書のはるか前の方の稲荷山の鉄剣を扱う『鉄から見えるヤマト王権』という中項目で、「ヤマト王権」について、以下のように解説している。
中国から倭王の称号を与えられた,のちの大王を中心とする豪族たちのゆるやかな連合勢力。整った組織はまだなかったので, 「朝廷」ではなく「王権」と表記しています。また,国号の「倭」やのちの地域名の「大和」と区別するため,「ヤマト」と表記しています。(帝国書院)
ただし、この解説は本文中ではなく脚注として掲載されている。
ちなみに、東京書籍も、日本文教出版にも「ヤマト王権」とは何なのかについての解説は本文中にも脚注にも無い。
「ヤマト王権」と「朝廷」の違いについては、教師の説明で補助しない限り生徒の理解は難しいかっただろう。
日本史における『鎌足』の業績を一言で言えば
以上の教科書の記述からみると、「中臣鎌足(後の藤原鎌足)」の業績を一言で言えば、
『蘇我氏(連合王権維持勢力)を打倒し、天皇中心の世の中の基礎をつくった人物』
と言える。
また、その裏では「藤原氏の『一氏独裁体制』」の基礎をつくった人物でもある。
6.鹿島流中臣氏が、中央の中臣氏に取って代われたのはなぜか
このように「中臣鎌足」は、日本歴史上の最重要人物の一人である。
その「鎌足」の出生地として考えられる鹿島は、物産豊かな土地であった。
権力を握る者たちにとっては、無視できない土地だっただろう。
この土地には、ヤマト王権の有力視族として物部氏系の氏族が訪れ支配たことは既に触れた。
そして、中臣は物部の手下だった。
だが、ある大事件が勃発したことで歴史が大きく動いた。
『丁未の乱(ていびのらん)』である。
「鎌足」が中央進出を果たすきっかけとなった『丁未の乱』
『丁未の乱』とは、「乙巳の変(いっしのへん)・(私の頃は、『大化の改新』)」の約60年前(587年)に起こった日本史を揺るがす大事件。
蘇我氏が物部氏を滅ぼした事件だ。
この「丁未の乱(ていびのらん)」により、中央の物部氏は滅んでしまった。
おそらくこのとき、物部氏に従う中央の中臣氏も滅んだだろう。
その結果、都の祭祀職を担う氏族が必要になった。
その穴を埋めるために進出を果たした中臣一族があった。
それが「鎌足」ら、後に藤原姓を名乗ることになる「鹿島流中臣氏族」だった、と。
7.鹿島使の歴史的事実から見た、鎌足の故郷
鹿島大社は、神格が高い。
『鹿島神宮』と「神宮」を名乗ることが許される神社だ。
鹿島大社の神(タケミカヅチ)は、国家神であり藤原氏の氏神である。
鎌足の孫に当たる藤原宇合(うまかい)が編纂したと言われる『常陸国風土記』の中にも、香島神郡の記述があり、そこは「神仙境」とある。
また、鹿島大社の分社として春日大社は創建された藤原氏の氏神を祭る神社。
そして、鹿島社と香取社の祭の際などに朝廷から派遣されるお使い(奉幣使)は、藤原氏の子弟が務めることになっていた。
これを、鹿島使・香取使という。
このように、朝廷も、藤原氏も遠く離れた鹿島に経緯を払っているのだ。
鹿島使とは、何か
鹿島使について、もう少し詳しく説明をしておく。
萩原竜夫氏は、鹿島使を以下のように定義している。
茨城県鹿島神宮に使わされた奉幣使。鹿島神宮は皇室の崇敬もあつく、藤原氏も氏神として仰いだので、平安時代初期春日祭の準備に伴い、祭使(奉幣使)が遣わされる例が始まり、これを鹿島使とよんだ。春日祭の当日たる二月上申日に藤原氏の氏の長者が勧学院の学生(六位以上の者)を選定し、これに祭使の宣旨を下し内印官符を賜(たま)い、内蔵寮史生一人を相添え、常陸に発遣する例であった(『類聚符宣抄』『北山抄』『朝野群載』など)。王朝の衰退とともに、朝廷に代わって常陸国司代常陸大掾家より一族の者に命じて毎年七月中旬鹿島使として参向させる例となり、応永年間(1394年~1428年)まで続き、その後は断続的に行われて文亀三年(1503年)に至った。
萩原竜夫氏説明より
藤原氏の者が30日~40日くらいをかけて、都と鹿島・香取の間を往復していた。
藤原氏の祖地は、鹿島だった?
「朝廷が鹿島使を発遣していた」という事実、春日大社をわざわざ鹿島大社から神を分祀して祭った事実などから、『藤原氏の祖、鎌足の故郷は鹿島だった』と考える方が自然なのではないだろうか。
8.おわりに
日本史上の最重要人物の一人である藤原鎌足(中臣鎌足)の生地は、大和国高市郡大原(藤原第)が有力説である。
だが、常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)説も昔から言われてきた説。
中央の政変で物部氏とそれに属していた中央の中臣一族が、蘇我氏によって滅ぼされてしまう。(丁未の乱)
滅んでしまった中央中臣氏に代わって、都の祭祀を担ったのが鹿島流中臣氏。
そして、その鹿島流中臣氏の中心人物が中臣鎌足だった。
鎌足は、中大兄皇子と組んで、中臣の本流を滅ぼした蘇我氏を滅ぼすことに成功する。
これにより、政治の中心に躍り出る。
こうして、鹿島流中臣氏が世に出た。
鹿島神宮や香取神宮に対し、朝廷が長い間藤原氏の中の六位以上の者を鹿島使(奉幣使)として派遣し続けたという歴史的事実、遠い鹿島神宮からわざわざ神を分祀して、都に春日大社をつくったという歴史的事実が、『藤原氏』の祖、中臣鎌足の故郷が鹿島だったことを裏付けていると言えないだろうか。
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