水戸学の三大特筆としてあげられる歴史上の難問は、「神功皇后に関する評価問題」、「大友皇子に関する評価問題」、そして、「南北朝正閏論(南朝と北朝どちらを正統とするか)」という三つの難問です。水戸学は、「南北朝正閏論」で「南朝を正統」としているという特筆があります。茨城には、京から遠く離れているにもかかわらず、楠木正成公を祀る「楠木神社」があります。このブログでは、南朝正統論と茨城の楠木神社の関わりについて、述べます。
ブログのまとめ
このブログの参考資料
現在 西尾幹二先生の「GHQ焚書図書開封11 維新の源流としての水戸学」(徳間書店)を読み進めています。本日はそのナンバー3です。
本ブログの要点(まとめ)
・水戸学には、「三大特筆」と呼ばれる課題がある。
・「三大特筆」の一つに、「南北朝正閏論」があり、水戸学では「南朝を正統」とする。
・南朝を正統とする根拠は、「三種の神器」を「持っているのはどちらか」による。
・水戸学の「南朝正統」は、水戸光圀の鶴の一声で決まった。
・楠木正成公の墓を発見したのは、「水戸黄門漫遊記」の助さんのモデル、佐々十竹助三郎だった。
・茨城の旭村(現・鉾田市)に、楠木神社がある。
・創立は、明治12年。つまり、明治になって水戸学の精神に則って建立された神社
水戸学の三大特筆とは
水戸学には、三大特筆といわれる歴史解釈上の三つの難問がありました。
「神功皇后に関する評価」、「大友皇子に関する評価」、「南朝正統論」の三つです。
南朝正統論
「北朝が正統なのか、南朝が正統なのか」
この南北朝正閏論にかかわる南門に、水戸学(徳川光圀)は正面切って取り組みました。
光圀がとりわけ重んじたのは、楠木正成についてでした。
しかし、南北朝統一後、北朝の世が現在まで続いているわけですから、この問題を考察するための史料を集めるのは、大変な苦労を擁しました。
光圀が考察のポイントとなると考えた楠木正成の墓さえ、当時は見つかっていなかったのです。
義公が一番重きを置いたのは吉野朝(説明・後醍醐天皇の南朝)についての史料だった。この方面のものは、足利氏の執政時代につとめて足利方に不利な記事は消滅するようにしたため(説明・足利尊氏は後醍醐天皇に対立して北朝を盛り立てましたから、自分を悪く書いている南朝の史料は抹殺してしまったわけです)、勢いそれ(説明・南朝の史料)を集めるには、非常な不便を伴った。
(日本近代転換期の偉人より)
今日、大忠臣と云われる楠木正成さえも、江戸幕府が出来るまでは、一部の者から逆賊のように云われ、その碑の所在さえ明らかでなく、学者のうちにも楠公(説明・楠木正成)に注意する者が極めて少なかったのである。
各所を旅して、楠木正成に関する資料集めを行った人物がいます。そしてついに楠木正成の顕彰碑を見つけました。
その人物は、佐々十竹助三郎(さっさじっちくすけさぶろう・介三郎とも書く)です。つまり水戸黄門漫遊記に出てくる助さんです。
顕彰碑には、「贈正三位左近衛中将」とありました。
現在、湊川神社は有名な神社となっています。
しかし、光圀のころは、正成の墓がどこにあるのかさえ知らない者が極めて多く、楠木正成は忘れられた存在だったのです。
楠木正成の顕彰碑を建てた光圀
光圀は、正成の顕彰碑を建てることに力を注ぎました。
そして、光圀の建てた顕彰碑には朱舜水の賛文(誉めたたえた文章)が彫られています。
水戸学における南北朝どちらが正統か の解釈
水戸学の歴史解釈の大前提、解釈の視点は「大義名分」です。
大義名分の上から正しく解釈すると、南朝が正統であるという結論に達しました。
この解釈に行き着いたのは、光圀の決断に依ります。
このことからも、光圀は「決断の人」だ、という印象を受けます。
史官の一半(説明・二分した片方)は京都朝正位説(説明・京都朝というのは北朝の流れです)を固く主張して、
(日本近代転換期の偉人より)
「当今の天皇様(説明・現在の天皇)は、京都朝(説明・北朝)の御血統であらせられるから、迂闊なことは言えません。皇室の御事について私ども臣下がかれこれ申し上げることは恐れ多いことです。現に将軍家の官位も、京都朝の御血統たる当今(説明・現在)の天子様から賜ったのですから、失礼に流れぬよう深く謹みたいと存じます。」
大日本史を編纂していた史官の半分がそう主張したとあります。
つまり、北朝正統は当然、論議するのも恐れ多いということでしょう。
当然の感覚ではないでしょうか。
しかし光圀は、こう述べました。
「諸君の言うところは人情の上では同感したい。(説明・現在の天皇家が北朝だから北朝に加担したいという人情はわかる)。が、史上の問題はすべて大義名分によって、公平に処断する以上、場合に人情のみによるわけにゆかぬ。ことに三種の神器(説明・八尺瓊の勾玉、八咫の鏡、草薙の剣)は皇位のみしるしとして天照大神からうけたまわるもの、この存在を無視することは出来ない(説明・南朝の後醍醐天皇が足利尊氏に渡した三種の神器は「ニセモノ」といわれていました。)この点から自分は吉野朝(説明・南朝)を正位と認め奉るにつき、どこまでも責任を負うから、諸君はこの一時について、なにとぞ自分に任せて欲しい。」
(日本近代転換期の偉人より)
光圀は、このように言い切りました。
つまり、「北朝のもっていた三種の神器は、ニセモノだから北朝は正統では無い」と言い切りました。
これによって、水戸学は南朝正統論の立場をとることになったのです。
茨城に残る楠木神社
私の初任地は、当時の旭村立旭西小学校(現・鉾田市立旭西小学校)でした。
授業のネタになりそうなものはないかと、ブラブラと村内の歴史史跡探索をしたことがあります。
すると、同村の旭北小学区内で、「楠木神社」という神社を見つけました。
見付けた当初は、なぜこの場所に楠木正成の神社があるのか不思議でした。せっかくの史跡を授業にかけることもなく忘れてしまっていました。
しかし、ずいぶん後になって 茨城新聞に次のような記事が載っているのを見付けました。
産経新聞の記事より
記事のタイトルは「現代に生き続ける『楠公(なんこう・楠木正成)さん」
となっています。
記事の概要
- 吉田松陰ら明治維新の志士たちの精神的支柱は水戸学であった。
- 徳川光圀の尊敬の念が、水戸藩内に尊公ゆかりの地を数多く残した。
- その一つが鉾田市の楠木神社
- 創立は明治12年
- 無縁の茨城になぜ楠木神社が建立されたのか。
- いわれについて、大日本史最後の編集者「津田信存(しんそん)」が『楠木神社記』にまとめている。
- 楠公の功績を祀ることで、水戸藩に忠義や正義といった心意気を養うため
- 神社に参拝する人たちは、楠公だけでなく後醍醐天皇以下の南朝方の天皇とその忠臣たちも遙拝(ようはい)している。
というようなものです。
光圀が亡くなったはるか後にも光圀の志を継ぎ 楠木正成や南朝、さらにその臣下を祀ったのがこの神社でした。
終わりに
前期水戸学を支えた光圀の思いは、このように現在でもここ茨城に残っています。
水戸学は、「南朝正統論」の立場をとります。大義名分を判断の根拠とする、水戸学らしい歴史判断だと感じます。
実は、楠木正成公自身は板東の地を訪れていません。ですが、親族は板東で南朝のために戦っています。
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