はじめに
社会科教師OBの尚爺と申します。
「水戸学ってどんな学問」をハテナとして、
水戸学について考えてきました。今回は第六回目となります。本日のポイント!
- 水戸学にとって、藤田幽谷はどのような存在だったのか。
- 藤田幽谷と立原翠軒の争いは、水戸学にどのような影響を与えたのか。
です。
- 方法としては、『西尾幹二先生の「GHQ焚書図書開封11 維新の源流としての水戸学」(徳間書店)』を読み進めることに依っています。
- 作者:西尾 幹二
- 徳間書店
水戸学にとって、藤田幽谷はどのような存在だったのか。
藤田幽谷は、1774年から1826年に生きた人です。
一言で言うと、他人と衝突しやすく苛烈な人、と言えます。
しかし、単なる激情型というわけではありません。
深い思想に裏打ちされた藤田理論から出る情でした。
幽谷は、老中松平定信や、時には水戸藩士、さらには自分の師である立原翠軒にさえ、上から目線ととられかねない勢いで忌憚なく意見を述べました。
数々の国の課題、藩の課題、水戸学の徒としての課題に対し、「なんとかしなくてはいけない」、「なんとか出来るのは自分だ」という強い信念と義憤によって行動する人でした。
50代半ばで亡くなる直前まで、青年のような若々しい感性を持ち続けた人だったのだと思います。
水戸学中興の祖
幽谷は、水戸学の中興の祖といわれます。
前回示したとおり、1740年代から1800年の少し前ごろまで水戸学は衰退期に入っていました。再び水戸学に火をともし全国に名を知らしめたのが藤田幽谷でした。
しかし、その過程は決して穏やかではありませんでした。特に、自分の師である立原翠軒との思想的な衝突は苛烈でした。藤田幽谷と その師 立原翠軒との対立
藤田幽谷は、享和2年(1802年)に第6代藩主 治保公の召命に応じて大日本史編纂に携わることになりました。
そして、文化4年(1807年)に彰考館総裁の椅子に就いたのです。
「彰考館の総裁の椅子に就いた」とは、つまり、幽谷は自分の師である立原翠軒を総裁の座から追い落としたということです。
弟子が、その師の座を奪ったのですから、翠軒は幽谷に対する悪口をたくさん残しています。
いったい幽谷と翠軒の間に何があったのでしょうか。二人の対立について見ていきます。
1 大日本史の題号問題
第一の対立は、「大日本史」という本の題についてでした。
幽谷は、4つの理由から、「大日本史」という題はおかしいと主張しました。「題号問題」 幽谷の4つ主張点
① 我が国は日本であって、大日本ではないから
② 勅撰の歴史書ではなく、水戸藩の私的な歴史書だから
③ 万世一系が続いているので、歴史書に国号を付ける必要がないから
④ 光圀公が「大日本史」と命名したわけではないから
このような理由で、幽谷は「大日本史」ではなく歴史の「史」に原稿の「稿」で『史稿』とすべきだと主張したのです。
立原翠軒は、当然「若造が何を言っているのだ」とカチンときたようです。
確かに「大日本史」と「史稿」どっちが格好いいと言われたら、私も「大日本史」と答えると思います。
しかし、幽谷が言うことがもっともだと頷ける点もあります。現在でも、学校教育の場で「日本史」というような呼び方をします。
ですが、これは幽谷が言うように正しいか、正しくないかと言われたら、正しくないと答えざるを得ません。
なぜかと言いますと、幽谷が理由にあげた③によります。
日本は、中国などと違って、万世一系の天皇がシラス国です。しかも現在も続いています。本来「○○国史」は中国のように、国が滅び別の国がおこったときに、滅びた国の歴史を書きました。
日本は、ずっと日本です。日本が滅んでいないのに、「日本国史」を編纂するというのは大義名分的にはおかしいわけです。
同じ理屈で本来は「日本史」ではなく「国史」とすべきです。
話を元に戻します。
幽谷の「史稿」変更論に対して、立原翠軒は「何を馬鹿なことを」とまともに相手にしませんでした。
幽谷は、苛烈な人です。
自分の論が正しいと信じたら、例え自分の師であっても主張を緩めません。
食い下がる幽谷に、立原翠軒はイライラしたことでしょう。
しかし、この件については、翠軒引退後に結論が出ました。
光格天皇が、「大日本史」にしなさいといったことで、さすがの幽谷も持論を取り下げ「大日本史」に題号を戻しました。
幽谷も、天皇にだけは逆らえないということでしょう。
2 立原翠軒の北朝正統論を巡る対立
立原翠軒らは、水戸本来の南朝正統論を捨て、林家(説明・幕府のお抱え学者、林羅山以降の林家)の王代一覧(林羅山の子がつくった歴史書)による北朝を正統とする主張を否定しない姿勢をとりました。
翠軒は、徹底した「事なかれ主義」でした。幕府とことを構えるべきではない。今の朝廷は北朝なのだから朝廷とことを構えるべきではない、そう考えるのはよく分かります。
しかしこれは、まずいです。
水戸学は、「皇統の正閏」が根本思想です。「南朝正統論」を捨ててしまっては光圀の志に背いてしまいます。 そこで、幽谷は自分の師である翠軒と決定的に対立します。
幽谷は自分の考え、光圀の意思、水戸学の根本思想を『修史始末』としてまとめ、これを彰考館総裁である翠軒に提示しました。
幽谷の意見書を、翠軒がどのように扱ったのかについて引用します。
翠軒はこれを「一見机上に束ね」ただけでみようとはしなかった。(説明・チラッと見ただけで読もうとしなかった)
幽谷の理論は堂々たるもので、翠軒もこれを弁駁(説明・論破)する余地はなかったが(説明・反論できなかったわけです)、何しろ翠軒と幽谷とではその立場が甚だしく異なっており~(維新の源流としての水戸学より)
つまり、翠軒は、「幽谷、おえはまだ青二才で、こんなことを言っても世の中は通らないんだ」という、いわゆる大人の理論で、弟子の幽谷を抑えようとしたわけです。
しかし、幽谷は光圀の意志を守るという大義名分からしても翠軒の「事なかれ主義」に、例え自分の師であっても迎合するわけにはいかなかったでしょう。
師である立原翠軒に自分の意見が伝わらないとみると、幽谷は次の行動に出ました。
『封事』(説明・主君への意見書)を書いて、上書(説明・身分の高い人に亭主すること)したのです。
このころ幽谷は、下士(説明・身分の低い武士)程度でしたから、当然方々から怒りを買いました。
主君も幽谷に腹を立て、「非礼の罪」ということで彰考館務めの任をとかれ水戸へ帰されてしまいました。幽谷24歳の出来事でした。
この事件で、翠軒は幽谷を破門しました。
この後、約三年間謹慎生活に入りました。
3 彰考館閉鎖論を巡る対立
三年後、兄弟子小宮山楓軒の骨折りによって一時幽谷と翠軒は和解しました。
しかし、すぐに次の対立が生じました。
翠軒が「彰考館閉鎖説」を打ち出したのです。
「大日本史」は光圀のころにすでに「本紀」と「列伝」を完成させています。次の「志」と「表」の編纂に取りかかるはずでしたが、50年の停滞期を挟み、遅遅として作業が進みませんでした。
遅れの原因は、資料集めに膨大な時間と費用を要したからでした。
水戸藩は、慢性的な財政難でしたので翠軒は、それを忖度して「彰考館閉鎖説」を打ち出したのだと思われます。
ここでも翠軒はいわゆる大人の対応で臨もうとしたわけです。
これに対して、幽谷は大反対をします。光圀公の意志に反しますので幽谷にすれば反対は当然です。
こ こで決定的に、翠軒の佐幕派と幽谷の勤王派に分かれた対立が生じます。そして師弟は、再度の絶交をしました。
藩主の治保は、今回は幽谷の説を用いました。これによって翠軒は居場所がなくなり、彰考館総裁を辞することになったのでした。
4 彰考館総裁辞職後の翠軒の動向による対立
翠軒は辞職後どうなったかと言いますと、家康の事跡編纂を行いました。これがまた対立を激化させます。
7代藩主治紀が、家康の事跡編纂を命じたことで翠軒派が勢い付きます。
翠軒は、彰考館の幽谷の向こうを張るように、自分の弟子たちを集め、徳川家康の事跡編纂を始めました。
その事業では、今までのような水戸学根本思想に縛られる必要がありません。水戸学では絶対にあり得ない「家康を神君と称」して事跡編纂を進めたのでした。
翠軒は佐幕寄りの視点で「垂統大紀」を著しました。
水戸学の路線からはずれた編纂姿勢に、光圀以来の尊皇で臨む幽谷は「これはだめだ」と思ったことでしょう。
この二人の二派の対立が、維新まで影響し、やがて天狗党の乱へと発展します。
水戸にとって大変に残念な、同郷人による血で血を洗う抗争へとつながるわけです。
『ところで、先生は天狗派ですか、諸生派ですか』
という30年も前のあのおばあさまの声がまたよみがえります。
「日本とは何か」を考えた水戸学
藤田幽谷は、水戸学中興の祖と言われます。
一時期中断していた水戸学、このまま中止の危機に追い込まれそうになった水戸学を再度興したのは紛れもなく藤田幽谷でした。
そして、「大日本史」は後期の事業に進んでいきます。
人物の道徳的な大義名分で評価する歴史から
幽谷らは、
「日本の組織は、(中国とは違う日本らしい組織として)どのようなものであったか」
つまりは「日本とは何か」を対象にして思考する学問に転換しました。
「日本はどうあるべきか」(国防・国体を含めて)を対象として、水戸学はさらに後期に進んでいきます。本日のポイント!
- 藤田幽谷と立原翠軒の対立が、天狗党の乱の遠因となった
- 藤田幽谷は水戸学中興の祖
- 水戸学は、対立を経て「日本とは何か」「日本はどうあるべきか」を考える学問ヘ
本日もありがとうございました。
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