藤田幽谷と中期水戸学
はじめに
社会科教師OBの尚爺と申します。
「水戸学ってどんな学問」をハテナとして、
西尾幹二先生の「GHQ焚書図書開封11 維新の源流としての水戸学」(徳間書店)によって、「水戸学」について学び直しています。本日はそのナンバー5です。
今回は藤田幽谷と中期水戸学を中心に考えていきます。
- 作者:西尾 幹二
- 徳間書店
水戸学要義は、水戸学を3つに分けている
水戸学要義では、水戸学を三つの時期に分けています。
この三つの時代(時期)です。
創業時代は、前期水戸学にあたり、実践時代は、後期水戸学に当たります。この第三期の「後期水戸学を除いて水戸学はない」と言われます。
間に挟まれた第二期の復古時代を、中期水戸学と分類している学者もいます。
この時代に古学及び陽明学が起こりました。
古学というのは、儒学者の伊藤仁斎の学問です。
後期水戸学は国家の機能や組織の歴史中心
後期水戸学は、「志」と「表」を中心にまとめられました。
「志」とは、氏族に関する歴史、職官の歴史、国郡、兵法、刑法などの制度史をまとめたものです。
「表」とは、臣連や検非違使など、国の要職を務めた人々の一覧をまとめたものです。
前期の「人」中心から、後期の「国家機能」中心に水戸学が変貌したわけです。では、どうしてこのような変化が起こったのでしょうか。
中期水戸学に何か原因があったのでしょうか。
後期水戸学への変化を知るために、中期についてまず知る必要があるようです。
中期水戸学(復古時代)に何があったのか
水戸光圀が『大日本史」編纂授業を始めたのは、寛文12年(1672年)の事でした。光圀の時代には、「本紀(天皇の歴史)」と「列伝(天皇の后や皇子たちの伝記)」がまとめられました。
光圀自身は、元禄13年(1701年)に亡くなっていますが、正徳5年(1715年)に本紀73巻、列伝170巻を幕府に献上しひとまずの完成を見ました。
その後、1740年ごごから約50年間、『大日本史』の編纂は停滞期に入ります。
1740年~1790年ごろまでの停滞期を挟んで、前を前期水戸学、後を後期水戸学と一般的には呼びます。
荻生徂徠と本居宣長の出現
古文辞学の荻生徂徠
荻生徂徠は、1666年生まれの儒学者です。亡くなったのは1728年ですので、前期水戸学のころの人です。
徂徠は、江戸の学問に地殻変動を引き起こした人と言われます。
徂徠は、朱子学批判をしています。古えの言葉に着目し儒学(とりわけ朱子学)の思想に染められた江戸前期の思想からの離脱を説きました。
徂徠の基本的な考え方(古代の言語中心)の上にシナではなく日本、わが国に焦点を当て「国学」を起こしたのは本居宣長です。
本居宣長の国学
本居宣長は、1730年生まれ、1801年死亡ですので、ほぼ水戸学中期の時期に生きていた人と言えます。
宣長は徂徠が主張した「道徳や忠義」といったものを学問の対象とするのではなく、「わが国」の組織や制度を中心に、わが国の独自性について、緻密に考えていこうという姿勢でした。
シナから、我が国へという姿勢によって、荻生徂徠(古学)と本居宣長(国学)は江戸前期までの学問の流れを転換させた学者です。
深作氏が復古期と呼ぶ水戸学中期には、このような学問対象の転換があったわけです
藤田幽谷と中期水戸学
藤田幽谷は、1774年(1772年との説もある)生まれ、没年は1826年。
幽谷は、18歳で「正名論(せいめいろん)」を書いています。
水戸学中期の学者、あるいは中期水戸学を後期水戸学に導いた人物と言えるかもしれません。
幽谷は、水戸の奈良屋町(楢谷町)、三の丸小学校のすぐ前の町の古着屋の子でした。
子供のころから秀才で、当時の水戸学のトップの学者立原翠軒の門弟となり、六代藩主徳川治保(はるもり)の抜擢で、十五歳の時に彰考館の正式なメンバーとなりました。大秀才だったわけです。
さらに、十八歳の時、寛政の改革で有名な老中松平定信から、「何か書いたものを見せよ」といわれ定信に見せたのが「正名論」です。
正名論とは
正名論には下記のようなことが記されています。 正名論のポイント!『尊皇の重要性』
・大義は正しい「名」にある。
・君臣の上下の名分を正した書名分とは「立場・身分」に応じて守らなければならない身の程
・幕府が天皇を尊べば、大名も幕府を尊ぶ。大名が幕府を尊べば、藩士も大名を敬う。よって分限を守れば、上下秩序
が保たれる。
若干、18歳で老中松平定信(現代でいうなれば総理大臣)に、自分の書いたものを見せた幽谷でした。
この後、その才能が認められ、出世していくのかと思いきや結果は逆になりました。
賤覇(せんぱ)の意(説明・覇道をおとしめること)を示した点があるので、松平定信もこれが(説明・幽谷のこと)採用を見合わせたという。
(水戸学講義より)
つまり、正名論を読んだ松平定信は、幽谷の幕府のスタッフとしての登用にダメだしを下したということです。
理由は、「賤覇(せんぱ)の意」が読み取れるから、ということでした。
「賤覇(せんぱ)の意」とは
一言で言うと、「幕府は賤しい」と書いたということです。
水戸学の根本思想です
- 皇統を受け継ぐ朝廷は、王道で尊い
- 幕府は武力で政権の座についているから、覇道で賤しい
徳をもって収めるのが「王道」
武をもって収めるのが「覇道」
幕府は、「覇道」だから賤しい。
以下に、正名論の意訳を示します。
~日本、古より君子礼儀の邦と称す。礼は分より大なるはなく(説明・「礼」のなかでは「分」をわきまえることが第一、分は名より大なるはなし(説明・「分」の中でいちばん大事なのは「名」を正すことだ)。慎まざる可からざるなり(説明・慎まなければならない)。(水戸学講義より・正名論意訳)
ところで誰が、誰に向かって「慎まなければならない」と言っているのでしょう。
18歳の幽谷が、幕府の老中松平定信に向かって、「あんたたち幕府は、朝廷と違って賤しいんだから、慎まないとダメですよ」と言っています。
光圀が言うのであれば、「しかたがないか」と見逃されたかも知れませんが、「古着屋の18歳程度の小倅が何を生意気な」と感じられたことでしょう。
当然、幽谷は幕府不採用となりました。
しかし、幽谷にすれば、「尊皇賤覇」思想は水戸学の根本思想です。
幽谷が正名論を書いたのは1800年前後でしょうから、明治維新の70年前後前です。開国に向けたうねりが押し寄せるわずかに前の出来事でした。
幽谷の「正名論」により、水戸学は中期から、後期水戸学へと移っていきます。
そして、あたかも時代は、本居宣長によって、シナ絶対主義から国学へ、個の道徳から、組織論へ移る時代にあったわけです。
松平定信にとっては、忌々しい若造だったかも知れませんが、幽谷の「正名論」によって前期水戸学の「尊皇」「賤覇」思想が呼び覚まされたことは、間違いありません。
後期水戸学「道徳」の歴史から「制度」の歴史へ
前期水戸学は、「本紀」と「列伝」からなりました。この二つは、「道徳上の評価」という視点から編纂されていました。
天皇の正当性を問題としたのも、この観点からです。そして、「道徳的にただしいかどうか」を判断する視点としたのは「儒学(大義名分)」でした。
それに対し後期水戸学は、「志・表」、つまり制度史が編纂視点となりました。
制度史を対象とする場合、「日本とシナは制度が違う」「文化も違う」と言う点が課題となります。
そこで、「日本には日本独自のモノがある」に視点が向くことで、シナ文明からの離脱が進みました。後期水戸学も、この流れから外れていません。
後期水戸学は、「日本とは何か」というハテナに向き合うことになりました。本日のポイント!
- 後期水戸学は、学問の近代化を背景として生まれた。
- 「道徳・人物(儒学)中心」から、「国家機能」中心」へ
- 藤田幽谷の正名論(尊皇賤覇)によって、後期水戸学への移行が促された
藤田幽谷には、後期水戸学への移行を象徴する出来事があります。
「その師・立原翠軒との相克」です。
この点については、次回記します。
本日もありがとうございました。
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