【このブログは、この本を参考に書いています。】
光圀は、何をねらいとして『大日本史』を編纂したのか
光圀の大日本史編纂のねらいについて、前回触れた日本近代転換期の偉人には次のように書かれています。
「(~伯夷と叔斉は)何という立派な人々であろう。その孝悌の道に厚いところという、大義名分のために潔く身を処したところといい実に見上げたものだ。それに引きかえ、自分にはまだ悌の道においていたらぬところがあり、忠孝の上でも、まだまだ及ばぬところが多い。それ故、自分は伯夷の心を心とし、叔斉の潔白を旨としなければならぬ。それに、かく立派な事跡が世に伝わって、いつまでも人々を感奮せしめることのできるのは、司馬遷の史筆(説明・司馬遷が書き残した史記)があったからだ。それを思うと、歴史を修撰することの必要がひしひし感じられる。自分も微力ながら日本の新しい史記を作ってみたい。これこそ平和時代の文化事業として、相当役に立つであろう。
(日本近代転換期の偉人より)
義公(説明・光圀)は、十八歳の時、伯夷と叔斉兄弟の伝記を読んで深く感奮したとあります。
また、
叔父(伯父)敬公が既に『類聚日本紀』によって義公に手本を示し、また歴史趣味を深く鼓吹したことにもよるわけで、唯「伯夷伝」だけによってすぐ「日本史」のことを思いたったのではない。(日本近代転換期の偉人より)
(日本近代転換期の偉人より)
とあります。
以上の記述から、光圀が大日本史編纂を志したのは、概ね二つの理由からだと云うことが分かります。
一点目は、「伯夷伝」を読んだ感銘にあります。
編纂のねらいとしては、伯夷と叔斉の孝悌の思想を世に知らせたい。さらに儒教で示される大義名分に従って生きることの素晴らしさを知らせたい。そのためには、歴史書として残さなければダメだということ。また、尾張藩主で光圀の伯父にあたる「敬公の影響」もありました。。
敬公は、その著書「類聚日本紀」で尊皇の大切さを示していました。これにはちょっと驚きです。水戸藩ならず、尾張藩も江戸時代のごく初期のころに尊皇思想を持っていたのです。伯父敬公によって、日本人にとって尊皇こそ大切な考え方であり、大義名分に沿うと確信したのでしょう。
そこで二点目のねらいとして、「尊皇」の思想を人々に知らすのは自分の務め、そう思ったのだと思います。
このようにして、光圀は大日本史編纂に踏み出しました。
水戸家は「尊皇」の伝統をなぜ受け継ぐことができたのか
とはいっても、江戸時代です、将軍が頂点に立つ時代に水戸家はどうして代々「尊皇」を守り通すことができたのでしょう。西尾氏は、『水戸家が御三家だったから』と述べています。
『権力のそばにある者は、大胆に反権力を語ることができる』そのような言葉があります。まさに幕府における水戸藩がこれに当たるでしょう。
「幕藩体制の中の、反体制の内在」
いくら御三家とはいえ、このようなことが許されたのが日本的です。このような幕藩体制の不思議な構造から、初代家康が遠い将来もし朝廷と幕府が争うようなことがある場合を想定して、『水戸家に「尊皇」の役目を振った。』という説が生まれました。
水戸学は、
「尊皇という大義名分を踏まえた 日の本(日本)の歴史解釈・思想学及び行動原理」
という視点が根底にあります。
後期水戸学は、幕府に対して厳しい
前期水戸学に対し、後期水戸学は苛烈に感じます。
ペリーが来航したころ(1853年)当時の水戸藩主・斉昭は非常に大胆かつ苛烈な幕府批判をしています。それから最後には水戸浪士が桜田門外の変で大老・井伊直弼を惨殺するところまでいく(1860年)わけですから、非常に強い態度で幕政を批判した。それは「忠君愛国」に基づく批判でした。(西尾氏の記述より)
後期水戸学は、「尊皇」 この一点です。歴史解釈全般というより、「尊皇」「忠君愛国」という一点に焦点が定められています。あたかも、虫眼鏡で光を集め一点に集約された光で紙が燃え出す、そのようなイメージを抱きます。
西尾氏は、幕末における後期水戸学をこのようにも評価しています。
眠っている幕府に対して後期水戸学が厳しい立場をとることができたのも、光圀以来の尊皇の伝統があったからです。それがあったために、幕末の日本は辛うじて目覚めることに間に合ったともいえます。(西尾氏の記述より)
確かに日本は、伝統的に事なかれ主義です。とりあえず、「くさいものに蓋をし、見ないようにする」災悪が訪れ、どうしようもなくなったときにやっと目覚める。
日本の国はもとより、日本人全般にそういう傾向があります。江戸末期の幕府の「惰眠」に対し、厳しく対処したのが後期水戸学でした。
ここから日本は、他国ではまねのできないような対処をしていきます。後述しますが、前期水戸学は個人の業績に支援が当たっています。それに対し、後期水戸学は組織論・制度論に視点が変化します。
また、中期水戸学の時期を経て、中国偏重から日本の在り方重視に移っていきます。
さらに前期と後期では、エネルギーというか、破壊力というか力を集約するパワーが違っています。
日本はみずからの権力体制そのものを批判しながら、権力そのものを刷新することができた。(西尾氏の記述より)
破壊的なエネルギーを水戸学等で集約させた日本人は、それでも明治維新を維新として成し遂げます。革命ではないのです。一度すべてがクリアされてリセットされるテレビゲームのような終わり方、始まり方ではありません。
自分自身の構造を変化させ、新たに歩み始める日本。(西尾氏の記述より)
これに対し、同じように列強の侵略にさらされていた韓国はどのように対処し、その結果どうなったでしょう。
~韓国の歴史は古い権力をさらに強化することで対外危機を乗り切ろうとしましたから、かえって固陋に陥り、自分で自分を縛り、自らを破滅してしまった。
(西尾氏の記述より)
上記は、もし、もう一度授業づくりをするなら、授業で児童生徒に伝えるべき肝の一つなると思います。
子どもに提示したいハテナ
光圀の仏教批判
光圀の前期水戸学(歴史学の総称)で、いくつか気になることがあります。その一つは、光圀による仏教批判です。
~光圀が尊皇の道を重んずるあまり、仏教を否定します。儒教を尊重するあまりに仏教を否定~(西尾氏の記述より)
光圀は、儒教を大義名分のよりどころとしていました。その大義名分を視点として合理的に判断するため、それに合わない仏教を否定的に見たようです。
義公(説明・光圀)が第二回目に水府(説明・水戸の異称)に帰ったときには、いよいよその思うところに従って改革を断行したが、その矛先をまず宗教方面に向け、どこまでも神仏(説明・神と仏)の本旨を徹底してゆくために俗僧その他を淘汰するに決した。それは寛文五年から六年にかけて行われ~
(日本近代転換期の偉人より)
寛文5年は西暦1665年です。光圀は1628年生まれですので40歳ちょっと前。血気盛んな青年というわけではなく分別のある年齢だったはずです。
その時分、水戸藩内には淫祠(説明・いかがわしい神を祀ったニセの宗教)の類がむやみにはびこり、また小さな俗寺がいたるところに出来た。この小寺に巣くうた僧侶は大抵無学で、邪知に長け(説明・悪巧みがうまく)市民から金を搾り取ることにつとめ、風俗を害するような振る舞いも多かった。それに神社の中に仏を祀って、この二つを混同したり、神道の本旨を忘れて、仏教の前に頭を下げたりするものさえあった。そこでどうしてもこれを改革せねばならぬ情勢となっていた。
(日本近代転換期の偉人より)
金儲けに走る坊さんや寺があったということです。何やら現代の「統一何やら」という宗教集団(?)の問題に通じる気がします。
光圀は、この問題に苛烈に対処しました。
現代人にとっては、寺は寺、神社は神社、二つは別物という感覚は普通です。
しかし、日本の歴史の中では、「本地垂迹」つまり、「仏が神という姿で表れたのであって、神も仏も元は一緒」という考え方の方が長いはずです。
当然、光圀の時代は本地垂迹思想で、光圀がそれを知らないはずはありません。それなのに、「仏に頭を下げるのはおかしい」といいました。よほど、庶民から金をむさぼりとる宗教に危機感を持っていたのだと思われます。
言っては不敬でしょうが、40に近い年齢の人にしてはまっすぐすぎる印象です。別の言い方をすると本当に純粋な方だったのだと思います。
具体的にどのような経緯で、仏教批判が行われたのでしょうか。光圀は、以下のようなことを述べたと云います。
「こんな事では、宗教の意義が全く没却されてしまう。自分は神道は神道らしく、仏教は仏教らしくあることを望みたい。それには、その純粋性を保ってゆくのが一番緊要じゃ(説明・差し迫って必要だ)。現在の如く、その純粋性が破られて、混乱状態に陥ることは、土民(説明・武士や一般庶民)のためによくないことだ。ことにあらゆる迷信の類は、どうしても一掃してしまわねばならぬ。」義公(説明・光圀)はこう考えたので、いよいよ革命に手を付けるべく平生信任した山縣源七・北原甚五左衛門の二人を寺社奉行に任命した。それから二人を呼び出して、旨を伝え、「宗教のことは、土民生活の上に重要な関係を持っている。ところが御身たちも知るが如く現在は全く混乱を極めて、害はあれど益がない有様じゃ。
それ故、ここに思い切った改革を断行いたしたい。ついては詳しく現状を視察し、報告してもらいたい。」
この諮問に対し、奉行二人は次のように回答しました。
「仰せにより、いろいろ取り調べをいたしましたが、宗教方面の有様は、思った以上に腐敗して全くその純粋性を失っております。」
この報告を受けて、光圀は次のようにおっしゃり、改革は実行されました。
その義なら(説明・そんな調子であるなら)容赦なく淘汰を行う。義公はこう言って、山縣らにその方針を授けた。そこで寺社奉行らの猛烈な活動が始まり、風教(説明・徳を以て教え導くこと)上有害だと見た淫祠三千八十八社を廃し、俗悪を以て通った小寺九百九十か寺を取り潰し、堕落僧三百四十四人に還俗(説明・僧侶が一般社会人に還ること)を命じたのである。それは疾風迅雷的に行われたので、俗僧らは縮み上がってしまった。「何というひどい事をされるのだ。自分らはそんな悪いことをした覚えは更にない。」こう呟いて悪僧らはしきりに義公(説明・光圀)を怨んだ。が、心ある者はいづれも義公の宗教改革に共鳴して、「実に心持ちが良い。これでさっぱりした。今後、風教は一新されて、迷信の悪弊はあとを絶つに違いない。(以上 日本近代転換期の偉人より)
記録に残る光圀の仏教批判による改革は、やや度を超していたかも知れません。もしかすると山縣や北原ら、あるいはその配下たちが光圀に忖度する余りにやり過ぎた一面があるのかも知れません。
実は、この宗教批判は、水戸藩だけではありませんでした。水戸藩を見習っていくつかの藩でも同じような措置がとられたようです。
寺や僧たちの腐敗が深刻な状況にあったということは事実だったのでしょう。そしてこの光圀の仏教批判が、明治期の廃仏毀釈につながります。
その結果、現代日本人は、神社と寺は別ものということが常識になっています。この常識をつくった遠因が 光圀の水戸学にあったわけです。
もう一つの 光圀水戸学に対する違和感 神話の否定
前期水戸学、光圀の水戸学は神話を否定しています。
先ほどの仏教批判もそうですが、否定の根本は「大義名分」だと思います。原則に対して外れていることは徹底して批判する態度をとります。
光圀の大義名分は儒教に依っています。そして儒教は「合理主義」です。この合理主義という大義名分からすると、合理的でない「神話」は否定の対象となったのでしょう。
だから、尊皇のはずの光圀の『大日本史』は、神代から始まらず、人である神武天皇から始まります。個人的には、尊皇であるなら「神話」が大切であることを理解して欲しかったと思うのですが、
「水戸学は、合理性という大義名分に沿って歴史を解釈する観点から 神話を認めない学問」
と理解するしかありません。
大義名分から歴史を捉える水戸学は、いくつかの歴史上の争点で 水戸学なりの解釈をしていくことになります。
以下次号で触れていきます。
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