はじめに
社会科教師OBの尚爺と申します。
「水戸学ってどんな学問」をハテナとして、
水戸学について考えてきました。今回は第10回目、最終回となります。
水戸学とはどんな学問かを端的に示す「弘道館記」の解説書「弘道館記述義」に、どのようなことが書かれているかを読み進めます。
本日も、『西尾幹二先生の「GHQ焚書図書開封11 維新の源流としての水戸学」(徳間書店)』を読み進めます。
- 作者:西尾 幹二
- 徳間書店
弘道館記述義について
弘道館記は、491文字の簡素な文章でしたので、斉昭は、「これを詳しく解説せよ」と藤田東湖に命じました。東湖は、再三辞退しましたが最終的に承諾し、十年の年月をかけ「弘道館記述義」を完成させます。
「弘道館記述義」は、岩波書店の「日本思想体系」から翻訳が出ています。西尾氏はそれを参考にしています。
その中から、ポイントと西尾氏が判断した部分を本書に載せています。
弘道館記述義は、「弘道館記」の一節を漢文で掲げ、それに東湖が解説を加えるというスタイルです。
弘道館記述義より
しかも聖子神孫、なほあえて自らたれりとせず、人にとりてもって善をなすことを楽しみたまう
この部分について、東湖は、以下のように解説しています。
彪(たけき・東湖の名前)謹んで案ずるに(「弘道館記」は主君の文章と言うことになっているので、「謹んで案ずる」わけです)、神代は尚し。神武帝以還、十有四世、九百有余年、その間、未だ書契(書いたもの)あらず。そのこれあるは、すなはち実に応神帝に始まるという。
さらに次のように続きます。
謹んで解し奉るに、神代は悠久であった。そのうえ神武天皇以来、十四代、九百年以上をへたが、その間まだ文字はなかった。文字の存在が知られたのは、実に応神天皇のときが初めと言われる。(応神)天皇の御代、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)は蛮族国として朝貢していたが、阿直岐(あちき)が百済から渡来してくると、菟道皇子(うじのおうじ)はこれを師として経典を学びたもうた。さらに(応神)天皇はとくに使節を派遣して百済から学者を召されたが、王仁(わに)と辰孫王(しんそんおう)が使節に随行して渡来したのはこのときである。天皇はお喜びになってこれを皇子の師に任じたもうた。(「続日本紀」に書いてあります)。それ以前に百済が縫衣女(きぬぬいおんな)を献じたことがあるが、王仁らが渡来したとき、さらに冶工(かぬち・鍛治のこと)の卓素(たくそ)、呉服(くれはとり・機織のこと)の西素(さいそ)、醸酒(さけつくり)の仁番(にほ)らもやってきた。
この当時、天下は太平、国内は平穏、人はみなそれぞれの生活に満足していたのだから、常識から言えば、それ以上にどうして海外に求めるという必要があろう。ただ聖天子(ここでは応神天皇を指す)のお考えはそうではなかった。衣食住は既に豊かであり、武器もすでに充実しているのに、しかもなお機織・裁縫・醸造・鍛冶の技術者を海外から召し寄せたもうた。
つまり、「応神天皇は、我が国はすでに生活が豊かであったが、いっそう豊かにするために、海外から学者や書籍を求めた。それは世界を一家と見なす思想に立っていたからだ。かくしてその後の天皇も相次いで儒教を尊敬したが、それはみな応神天皇の美徳に習ったものだ」、という話に続きます。
東湖は、天皇の善政が応神天皇から始まるとみていたようです。個人的にこの点は興味をもちました。「仁徳天皇の民のかまど」以上に、「応神天皇の優れた技術・知識の導入」に重きを置いたのでしょう。
なぜでしょうか。これも水戸学の視点なのでしょうか。
後期水戸学は、個人の業績の評価より、組織の在り方・やり方に重きを置きます。東湖の目からは、仁徳天皇個人の仁政より、応神天皇の組織機構改革により高い評価を与えたということでしょうか。
さらに次の一節に続きます。
むかし、孟子は舜の徳について「人に取りて以て善をなす。耕稼陶漁(こうかとうぎょ)より以て帝となるに至るまで、人に取るに非ざるものなし」と宣べている。
舜は、古代中国の理想的な皇帝とされています。
しかし、舜のもともとは身分卑しい生まれでした。畑を耕したり、狩猟をしたり、陶器を作ったり、漁業をしたりしながら暮らしていたのです。
そうした低い身分から、当時の皇帝の堯に見いだされました。
最初は、家来として堯に仕えましたが、舜はつねに他人のよいところを取り入れて業績を上げました。
応神天皇が中国のよいところとして、機織・裁縫・醸造・鍛冶などを取り入れたのは、それとおなじです、ということです。
日本と漢土とは海をへだて、地域をことにしており、応神天皇と舜とは世もへだたり、時代も違っている。しかもその人に取りて善をなしたまうという美徳は、符節を合したように同じである。これこそいわゆる「先聖後聖(せんせいこうせい)、その揆一なり」というものであろう。応神天皇を祀る八幡神宮は国内にひろく見られるが、世間ではただその武徳を賛美するだけで、文教にも大功績がましましたことを知らない。そのため武家はみな(応神天皇を)崇敬するが、公家の人々は尊敬を欠くことがある。けっして正しいことではない。
国力が豊かになっても、外国に範を求め、外国から文化を取り入れる。そうした善政を引いたのが歴代天皇であった、と斉昭は東湖を通じて宣べている。
中国の長所を取り入れるのはいいが、「禅譲」「放伐」はだめ
すなはち西土唐虞三代の治教のごときは、資りて以て皇猷を賛け(たすけ)たまへり
皇猷とは、おおいなる政治のわざ。
西土唐虞三代とは、堯と舜といった優れた皇帝や、夏・殷・周といった三代続いた優れた国のこと。
これに続く部分で、弘道館記述義は次のように解説しています。
それなら唐虞三代の道はすべてこれを日本に用いてよいであろうかと言えば答えは否である。政治と文教のとるべきものはすでにほぼ前に述べた。ただけっしてもちうべからざるものが二つある。禅譲(ぜんじょう)と放伐(ほうばつ)とがそれである。
「禅譲」というのは、徳が高い者がいたなら、その身分や地位が例え低かろうと皇帝にすることです。
つまり、堯が舜に皇帝の位を譲ったと同じ行為です。
「放伐」というのは、革命というか武力によって前の王朝を倒して、自分が新しい王朝をおこすことです。
舜は禹に禅譲し、殷は夏を、周は殷を放伐してこれにかわったが、秦・漢以降、父なき幼帝、夫なき皇后を欺いて帝位を奪ったものたちはかならず殷の湯王、周の武王の先例によりどころを求めた。歴代の正史ははすでに二十一史を数えるが、ただ上下の立場が変わるだけでなく、華狄・内外の区別が失われることもあった。
にもかかわらず漢土の人々は平身低頭せんばかり、さらにこれに(皇帝や王となった夷狄たちに)屈服してその美徳を賛美し、ややもすれば堯・舜に比べようとさえする。まことに哀れむべきありさまである。
輝かしい我が日本は、天照大神が天孫に命じたもうて以来、皇統連綿として皇位を無窮に伝えており、皇位の尊厳はあたかも日月の侵すべからざるのと同じである。従って万世にわたって、たとえ徳が舜や禹に匹敵し、知が湯王や武王にひとしいものがあらわれようとも、ただひたすら上(時の天皇)に奉じてその天業を翼賛するばかりである。万一、禅譲の説を唱えるものがあれば、いやしくも大日本の臣民たるもの、堂々とこれを攻撃してよろしい。
ました、禅譲・放伐を口実に皇位をねらうものたちは、決して日本に生かしておいてはならない。ましていわんや下等の異民族に我が国土の周辺をねらわせるようなことがあってはならない。
ゆえに、「資りて以て皇猷を賛く(たすく)」と述べたもうたのである。もしあちらの長所を採用しながら、その短所までも一緒に取り入れてしまい、ちうには我が国の万国に冠絶する所以(ゆえん)のものを失うようなことがあれば、大業を賛助するという意味はどこにもないことになるのである。
水戸学と国学の「共通点」と「相違点」
水戸学は神道と儒教をあわせたような考え方です。神道に儒教のよいところを取り入れます。しかし、「禅譲」「放伐」は認めません。
それに対し、国学は、儒教を一切認めません。「儒教は、日本の国体に合わない。よって一切認めない」という立場です。
国学者の人々は、
儒者が孔孟の空言に欺かれ、支那の堯、舜、禹、湯、文、武、周公の類を聖人視するのは醜態であると指摘した。孔孟の教訓たる儒教は、放伐禅譲を称揚し、徳を以て本となすところの、民主主義的功利観念から出発する道徳論で、易姓革命にこじつけるへりくつである。
と言います。
このように「国学者」は、日本と中国は国体が違うので儒学そのものを認めない、という立場を取りました。
吉備真備や阿倍仲麻呂を「俗儒」として否定する東湖
東湖は、歴史上の偉人とされる吉備真備や阿倍仲麻呂を否定的に評価します。彼らをなぜ否定的に評価するのでしょうか。
俗儒曲学、これを捨てて、彼に従う
と読みます。
「ニセモノの学者は、我が国を忘れて中国にこびへつらってしまう」の意味です。
この言葉に対する東湖の解説です。
謹んで解し奉るに、神々が国の基礎を建てたもうた際、仁愛と勇武の徳はもともとすでに世界に冠絶していたが、その文物の隆盛はかなりの程度、唐に学んだ結果であった。そこで遣唐使・留学生のことが史書に絶えずあらわれており、博識の学者、詩文の才のあるものも代々少なくなかった。しかし利益の反面には弊害もまた伴っており、俗儒や曲学者が人の嗜好に取り入り、日本を忘れて漢土(支那)に従属したため、人の善を取り入れて己も善を行うという先聖の美徳は失われてしまった。むかしの世を論ずる人は、博学の点ではかならず吉備真備の名をあげ、文章の方では必ず阿倍仲麻呂(東湖は安倍と記述)の名をあげる。しかし自分の見解では、俗儒曲学で日本を忘れ、漢土に追随したものの先駆者となったのがこの二人である。その才学が豊かだったとしても何の役にも立たないのである。
これはすごい酷評です。
吉備真備については、「まあそう言われても仕方がないか」と思う点もありますが、阿倍仲麻呂に関しては「ちょっとかわいそうだろう」というのが「弘道館記述義」のこの部分に関する私の率直な感想です。
吉備真備は、奈良時代の学者で遣唐使でした。帰国後は、藤原氏が相次いで病死したことで宮廷内で要職を務めた人物です。
東湖に酷評される二つの出来事がありました。
一つは、僧玄昉のことです。
玄昉は、真備と一緒に遣唐使として唐に渡った人でした。
帰国後、玄昉は皇后の後宮に入り何かと醜聞が流れました。このとき、真備は、中宮の亮という職にあり、後宮を直接担当する役にあったのです。それにもかかわらず真備は玄昉事件に対して何もせず沈黙していたというのです。
もう一つは、有名な道鏡の事件についてです。この事件でも同じようなことがあったとされます。孝謙女帝に取り入り、寵愛を受けた道鏡が自ら天皇になろうとした事件です。国史上類を見ない大事件です
真備は孝謙女帝が皇太子のときに教育係を務めています。つまり女帝にある程度ものが言える立場にあったはずです。
さらに道鏡には、真備が百官を率いて拝賀の礼を行っています。こうなると道鏡事件を見て見ぬふりをしたレベルではありません。「自らが官を率いて拝賀した」なら道鏡がやがて天皇になることを認めてしまったことになります
ということで、東湖は、吉備真備を俗儒曲学の者と酷評したことも頷けるわけです。
これが本当なら大儒学者であっても「酷評やむなし」と、私も思います。
阿倍仲麻呂については、自ら望んで唐に残ったわけでもないのに、日本に帰ってこなかったから俗儒だというのはちょっと行き過ぎな気がします。 本日のポイント!
- 『弘道館記述義』で、水戸学は心学に儒教を合わせた思想
- ただし、無批判に儒教を取り入れたのではなく、よいものと悪いものを判別した
- 国体に合わないもの、例えば「禅譲・放伐」については排除
- 実態に合わない評価を正す(吉備真備・阿倍仲麻呂は俗儒曲学の者など)
終わりに
10回に渡り、西尾幹二先生の「維新の源流としての水戸学」を読んできました。
水戸学というと「尊皇攘夷」という言葉に集約される印象ですが、水戸学は無批判の「攘夷」ではなく、本来なら「よい点はよい点として取り入れる」が「尊皇」であるという一点はゆずらない、という立場のはずです。
歴史は見事にそのように推移し明治維新を迎えました。
また、神道と、中国ではすでに跡形もなくなってしまった儒学を統合した水戸学は、令和以降のこの国の進むべき方向をも指し示していることを確信しました。本書のポイント!
- 水戸学とは「『尊皇』という国体をまもることに視点を置いた、神道と儒教を統合した教え」
- ◆前期は、個人を評価する観点。
- ◆後期は、国の在り方や、組織運営の観点から。
ありがとうございました。
10回に渡って、西尾氏の「維新の源流としての水戸学」から学んできました。
幽谷と、立原翠軒の対立がその後の天狗党の乱につながります。あと4、5年時代違っていたら、天狗党の人々やその家族は生き残れたでしょう。また天狗党の人々の巻き返しによる諸生派の人々の死も無かったでしょう。
この出来事によって、構成に続く「恨み」が残りました。
90歳のおばあさまから話を聞いたときから、さらに30数年が経った現在、天狗、諸生双方の恨みは感じられません。確かに、明治は「維新」であって「革命」ではないと言えるでしょう。
しかし、単純に割り切れるものでもありません。言葉はどうあれ、多くの血は確かに流れました。しかも、天下国家のためというには、余りに小さな範囲内で流れた血です。このことは、心に留めたいと思います。
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