「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」 『剣談』の作者 松浦静山
松浦静山は、江戸時代中・後期の大名。本名は『清(きよし)』
肥前国平戸藩の第9代藩主。
幼名は英三郎。号が静山。この号を合わせ、一般には「松浦静山(まつらせいざん)」の呼び名が通っている。
大名ながら江戸時代後期を代表する随筆家、さらに心形刀流剣術の達人であった。
『財政法鑑』や『国用法典』を著わして、財政再建と藩政改革の方針と心構えを定め、経費節減や行政組織の簡素化や効率化、農具・牛馬の貸与制度、身分にとらわれない有能な人材の登用を進めるなど、藩主としても、優れた才能を見せた。
静山の言葉として、現代にも広く知られているのが、剣術書『剣談』の中に載る「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉だろう。
清山は文学者としても秀でる。文政4年(1821年)11月の甲子の夜に執筆を開始したということで有名な、江戸時代を代表する随筆集『甲子夜話』を初め、多くの重要な著作を残した。
松浦静山が生きたころの世の中『諸外国の侵略の危機の高まり』
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
静山が生きた時代は、諸外国の脅威が迫りつつある時代であった。
諸外国に負けないための備えが必要となる。
諸外国による危機、『フェートン号事件』を例として
1800年代に入ると、室蘭、長崎、利尻島、浦賀、常陸(茨城県)の大津浜などに、ロシア船、イギリス船、アメリカ船などが強引に入ってきた。
なかでも、1808年(文化5年)10月4日のイギリスのフェートン号の事件は、当時の列強の危険さ・卑怯さをよく物語る。
イギリス艦船フェートン号(艦長名はペリュー)が、なんと国籍を偽り、オランダ国旗を掲げて長崎に入港してきた。
このとき、出島の商館員ホウゼンルマンとシキンムルという者2名が、歓迎のためフェートン号に向かう。
すると、イギリス人たちは二人のオランダ人を拉致してしまったのだ。
その後、人質を楯に「ユニオン・ジャック」を掲げた武装ボートで長崎湾内を威嚇して回りだす。
長崎奉行は、『オランダ商館員を解放せよ』と書状で要求すると、フェートン号のイギリス人たちからは、『水と食料をよこせ』と言ってきた。
長崎奉行の松平康英は 切腹
長崎奉行は松平康英(まつだいら やすひで)。康英は、陸奥国棚倉藩の第4代藩主、後武蔵国川越藩主。
康英は、自分の下で長崎湾の警備を担当していた鍋島藩(藩主・鍋島斉直)と福岡藩(藩主・黒田斉清)に、フェートン号の抑留と焼き討ちにするよう命じた。
しかし、このとき鍋島藩は平和ボケしていた。守備兵を無断で規定の10分の1の人数に減らしていたのだ。
康英は、すかさず九州諸藩に出兵を求めたが、フェートン号艦長ペリューは、『水や食料を提供しなければ、湾内の和船を焼き払う』と脅迫してきた。
人質を捉えた上に、十分な兵力が無い状況下。長崎奉行康英は、やむなく要求を受け入れる。
斯くして10月17日未明、フェートン号は長崎港外に去った。
結果、長崎奉行松平康英は、『国威を辱めたとして切腹』
鍋島藩主、鍋島斉直には、100日の閉門蟄居
かってに兵力を減らした鍋島藩家老などは、切腹
これにより、事件は収束した。
しかし、フェートン号事件の後は、『イギリスとは、侵略性をもった危険な国である』という認識ができあがる。
各国の国旗について、詳しく調べた松浦静山
松浦静山は、このような列強の脅威が迫る鎖国下、情報量が限られたなかで、ロシア国旗や海軍旗、商船旗、さらにはオランダの軍艦旗などについて詳細にしらべ、随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』にまとめた。
『甲子夜話』は、日本初の外国国旗について解説した書
静山は前述したように肥前の国(佐賀県と長崎県の一部)平戸藩の第9代藩主。藩校「維新館」などをつくり学問を奨励した大名としても知られる。
1806年(文化3年)、46歳の時に家督を子に譲り、江戸に出て書いたのが「甲子夜話」であった。
「甲子夜話」には、「寛政の改革」や「シーボルト事件」さらには「大塩平八郎の乱」など、教科書にも載る有名な事件に関するエピソードなども載せられている。
しかし、ここで特筆すべきは、各国の国旗や、海軍旗などについての記述。ある程度まとまった形で外国の旗を紹介する書籍としては、我が国に現存する最も古い記述である。
敵を知ること。『旗を見て、どの国のどのような種類の船なのかを知ること』は、基本戦略・戦術を立てる上で欠くことができない。
松浦静山は、その先鞭をつけた日本の誇りの一人である。
勝ちに不思議の勝ち有り 負けに不思議の負け無し
この言葉は、松浦静山の言葉だが、野球の野村監督が好んで使った。このことから、野村監督の言葉と思われている方も多い。
しかし、原点は剣豪としても一流の松浦静山の『剣談』の中に載る言葉である。
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