享徳の乱を簡単に説明すると
いつ ・1454年から1482年 約28年間断続的に続いた <前期> 1454〜1458 <中期> 1458〜1476 <後期> 1476〜1483 | |
どこで ・関東地方一円 | |
誰が ・再興された鎌倉府の公方成氏の一派 対 関東管領上杉家の一派 <前期> 鎌倉公方成氏 対 関東管領上杉憲忠・房顕(山内上杉家・兄弟) <中期> 古河公方成氏 対 将軍義政と堀越公方政知 <後期> 関東管領顕定(房顕養子) 対 管領家家臣 長尾景春 ◯古河公方成氏 と ◯堀越公方顕定 | |
何を 公方の座(関東の派遣)をめぐって | |
どうした <前期><中期>にかけて公方成氏と管領・将軍勢力が争った。 <後期>の長尾景春の謀反により、 古河公方成氏と管領上杉氏和睦 、古河公方成氏と幕府・堀越公方和睦 ※ その結果、関東に二人の公方が併存する不安定な状態となった。 ※ 応仁の乱(1467年〜1477年)の一因となった。 |
享徳の乱とは、1454年から1482年の28年間、断続的に続いた鎌倉公方(古河公方)成氏一派と、幕府と傀儡の堀越公方、並びに関東管領家一派の戦い。
最終的に、両者の和睦が成立したが、古河公方と堀越公方の両者が併立する不安定な状態が続くこととなった乱。
また、応仁の乱の一因ともなった。
享徳の乱前夜
鎌倉府内の対立勃発
享徳の乱は、鎌倉公方(古河公方)と関東管領の争いです。
公方は室町幕府の組織上、東国支配のトップに位置していました。そして、関東管領はそのナンバー2の位置づけです。どちらも京都の幕府に任命されています。鎌倉幕府内の組織であるということです。
室町幕府と聞くと、江戸幕府のような体制をイメージしますが実はそうではありません。有力な守護大名が将軍を支える連合政権だったのです。別の言葉で言えば、政権が不安定だったと言うことです。畿内以外は、各国の有力者が守護大名などとなって独自の勢力を持っていました。
関東でも同じです。例えば武蔵や上野の山内上杉家、相模では扇谷上杉家、上総や下総の千葉家、下総の小山家、そして、常陸の佐竹家などです。
関東は、武家発祥の地でもあり、守護家と同程度の力をもつ有力武家、有力国人領主が多数存在する群雄割拠の地でした。
そんな東国を治めるために設置されたのが鎌倉府という出先機関でした。
鎌倉府の構造
鎌倉府のトップは、鎌倉公方です。その補佐役が関東管領(上杉家)でした。関東管領は、初代鎌倉公方足利基氏が就任時に幼少だったために置かれ、以後公方が代わってもこのポストがなくなることはありませんでした。
関東管領は、初代より足利尊氏の母方の実家である上杉家の者が就任しました。
鎌倉府は、東のもう一つの幕府
鎌倉府は、機能的には東国に置かれたもう一つの幕府と言えます。なぜなら、鎌倉公方は、京都の室町将軍に相談することなく、鎌倉公方が独自に従う武家に恩賞を与える権利をもっていたからです。(恩賞充行権・おんしょうあておこないけん)
武家にとってだれから恩賞がもらえるのかは重要です。東国の武家が鎌倉公方から直接恩賞をもらえると言うことは、公方と主従関係を結んでいたと同義になります。
鎌倉幕府が力をもった理由
鎌倉府が力を持っていたのは、室町幕府の意向とは関係なく武家に恩賞を与えることができたこと、また血筋的に初代尊氏の血筋であったことによります。
さらに、今まで守護が置かれていなかった東北の地、陸奥国と出羽国を鎌倉府が管理することになった点も大きな理由となりました。
陸奥・出羽には、奥州探題と出羽探題が置かれていましたが、明徳3年(1392)に両探題が廃止され、鎌倉府の管理下に置かれたのです。
これにより、鎌倉府の権力はますます増大し、京都の幕府の脅威となっていったわけです。
室町幕府との調整役、管領家との不和
鎌倉府ナンバー2の関東管領家は、京都と鎌倉の干渉役でもあったのです。東北をも手中に収めた鎌倉府は、京都の幕府と同等あるいはそれ以上に力を付け、両者の関係が微妙になりました。そうなると当然の如く、幕府との干渉役の管領家とも関係がますます悪化していきます。
管領上杉家内の対立
上杉家とはどのような家系か
上杉家は、もともとは藤原氏です。つまり京都の貴族でした。鎌倉時代、源氏3代が滅び頼朝直系の血筋が途絶えます。
そのとき、幕府は京都から藤原家の子息を将軍として迎えることにしました。いわゆる摂家将軍です。
その摂家将軍が2代続きます。そして、その後に天皇の子どもである宗尊親王を将軍に迎えることになります。皇族将軍です。
この宗尊親王が鎌倉に下向するときお供の一人としてついてきたのが、藤原重房でした。重房はやがて上杉姓をなのるようになり、上杉の初代となりました。
さらに重房の孫上杉清子こそ、足利尊氏の実母です。つまり重房は尊氏のひい爺さまです。このような血筋なので、上杉家は室町幕府でも重用されることになりました。
上杉家の分家
関東管領となった上杉家は、武蔵・上野・伊豆・相模・越後の守護にも任命され、主に関東に地盤を築き、やがて多くの分家が派生していきました。
このうち特に大きな勢力を持ったのが、関東管領を輩出する上杉の本流山内上杉家、さらに分家の犬懸上杉家と扇谷上杉家の三家でした。
鎌倉公方と関東管領の対立は、享徳の乱の75年も前から始まっていた
鎌倉公方と関東管領の対立の始まり
初代鎌倉公方の足利基氏は、鎌倉幕府の2代将軍足利義詮の弟です。この兄弟が京・鎌倉に君臨していた間は、京と鎌倉の関係は良好でした。
しかし、基氏と義詮の兄弟が正平22年/貞治6年(1367)に相次いで亡くなり、公方は2代目の氏満に、将軍は3代義満となると、両者の関係は徐々に緊張を帯びていきます。
天授5年/康暦元年(1379)に、京都の管領細川頼之が失脚する政変が起こりました。
このとき、2代公方の氏満は、反頼之派として京都へ向け出陣しています。このときは、時の管領上杉憲春が自らの命を犠牲にして諫言し、公方氏満と幕府の争いを止めました。
憲春の死後、上杉を継いだ上杉憲方も京都の義満よりだったため、公方氏満は管領上杉家と対立するようになっていきます。
公方と管領家の確執は、享徳の乱の75年も前からくすぶっていたわけです。
享徳の乱勃発
鎌倉府と管領家の対立である享徳の乱の遠因としてある事件が起こります。
宝徳2年(1450)の4月、扇谷上杉の上杉顕房と、その家老太田資清、さらには、山内上杉の家老長尾景仲らが、鎌倉府の足利成氏を襲ったのです。
上杉勢に襲われた公方成氏は、江ノ島まで敗走しました。
この時、成氏側についていたのは、里見、結城、宇都宮、そして(義光から数え)佐竹氏15代佐竹義俊などの北関東勢でした。
公方成氏の反撃
上杉の動きに対し、成氏は享徳3年(1454)12月、関東管領上杉憲忠を鎌倉で暗殺しました。憲忠は、自分の父持氏を殺した憲実の息子です。成氏は、父持氏の仇をここで討ったことになります。
この出来事から成氏一派と上杉一派の全面戦争に入っていきます。これが28年にも及ぶ享徳の乱の幕開けでした。
分倍河原の戦い
康正元年(1455)正月、武蔵府中の分倍河原(ぶばいがわら)の戦いで、上杉方は負け続けます。同年7月、幕府から成氏討伐軍が出て、鎌倉を焼き払いました。しかし、この時成氏は、下総古河(現茨城県古河市)に出陣中だったので難は逃れましたが、鎌倉に帰れなくなったので、この後、古河を居城とすることになります。
古河公方の始まりです。
将軍義政は、古河公方に対しどう動いたか
長禄元年(1457)7月、将軍義政は、古河公方となった成氏を抑えるため、自分の弟である政知(まさとも)を新しく関東公方に任命しました。
政知は、関東へ下向し鎌倉を目指しましたが、戦乱のために鎌倉には入れません。そこで、伊豆の堀越(現静岡県田方郡韮山町)に政所を置きました。いわゆる堀越公方の誕生です。
関東の北の古河と南の堀越に二人の公方が誕生したわけです。頭が二つあるのですから争いは収まりません。関東の有力者たちは、それぞれどちらかの公方に着いて争い続けました。
幕府が総力を挙げて足利成氏討伐を進める
岩松持国の裏切り
堀越公方の足利政知が伊豆に入ると、管領上杉方は勢いを増し、古河公方成氏方の有力武将の引き抜き工作に着手しました。
上杉家がねらいを付けたのは、上野の国人・岩松持国(もちくに)です。持国は、成氏軍の主力として上野で戦ってきた武将でした。この古河公方の主力武将を、管領方に寝返りさせることに成功しました。
成氏にとって持国は信頼しきっていた主力中の主力の武将だったので、裏切りは軍事的にも精神的にも大打撃となりました。
ここで堀越公方政知や幕府将軍は、関東や東北の武将に呼びかけ、古河公方討伐の出兵を命じたり、三管領の一つ斯波家に出兵を命じたりしました。
幕府の動員命令に応じない関東や東北の武将たち
長禄2年(1458)堀越公方軍並びに上杉軍は、利根川を越えて古河に攻め入ります。しかし、この戦いは堀越公方軍・上杉軍が敗れたようです。(資料不足で詳細不明)
堀越公方軍・上杉軍の敗北は、将軍の動員命令に応じない武将が多くいたためだと思われます。将軍の威公は関東には届いていないということです。
さらに、管領斯波家も領内でもめ事が起こっていて実際には出陣しなかったのです。これでは士気が上がるはずがありません。負けるのが当然の状態だったと言えます。
このような状態で、岩松持国は再度の寝返りを検討していたようですが、それが発覚し殺されてしまいました。
享徳の乱の終焉
犬懸上杉教朝の自害
寛正2(1461)10月、犬懸上杉教朝(のりとも)が自害するという出来事が起きます。教朝は、堀越公方となった政知が関東下向の時に同行した重臣の一人です。
関東に地縁の無かった政知と上杉家の人々をつなぐ役を教朝がしました。その教朝がなぜ自害したのでしょう。
この頃、古河公方討伐で共闘していた堀越公方と上杉家(山内・犬懸両家)の関係が悪化していました。政知が、相模の扇谷上杉と伊豆の山内上杉の領地から兵糧調達を行ったからです。政知のこの行為に対し、山内・扇谷の両上杉家が反発したわけです。
堀越公方と両上杉家との板挟みとなったは、教朝は重圧に耐えかねて自害しました。教朝の自害は堀越公方と扇谷上杉家との確執を表面化させます。
この確執を収めるため8代将軍足利義政が乗り出します。その結果、堀越公方側が扇谷上杉家の既得権益を認めることで両陣営は和解しました。
しかし領土問題はそう簡単には解決しません。根本的なところでしっかりとなって残りました。
山内上杉家の当主争い
寛正4年(1463)山内上杉家の家宰(家長に代わり家を取り仕切る人)長尾景仲が死去しました。
さらに、文正元年(1466)山内家の当主・上杉房顕(ふさあき)が陣没します。房顕は31歳で、後継を決めないままの死でした。
後継者が決まらない山内上杉家に対し、幕府が介入し越後の上杉一族から養子を迎えることになります。上杉顕定(あきさだ)です。
応仁の乱と享徳の乱の関係は
文正元年(1466)、下野の足利荘をめぐり、上杉軍と古河公方の足利成氏が争っていました。足利はもともと古河公方成氏の領地でしたが、堀越公方の政知が、山内上杉家臣、長尾景人に与えてしまったことで争いが起こったのでした。
応仁の乱勃発
そんな中、応仁元年(1467)1月、応仁の乱が勃発します。事の起こりは畠山家の内紛です。畠山政長と畠山義就(よしなり)の家督相続争いです。
そこに管領細川勝元が政長につき、山名宗全が義就について京都の大乱となっていきました。関東と畿内の二カ所で大きな戦乱が起こっていたわけです。
細川勝元は、政知支援。
山名宗全は、成氏支援。
応仁の乱の初期に、将軍と天皇を押さえたのは細川勝元でした。
応仁の乱が勃発すると、それまで堀越公方や管領上杉家に肩入れしてきた将軍や細川勝元は自分の戦いに忙殺され、関東に援軍を送ることが出来なくなりました。
足利荘をめぐる上杉と古河公方の戦い
応仁2年(1488)10月、足利荘をめぐり、上杉軍と古河公方軍が激突しました。戦いは上杉軍の勝利でした。
破れは古河公方成氏は、一時退きましたが、12月になると再び攻撃を始めますが、今回も成氏は足利荘を奪還することは出来ませんでした。
古河公方成氏、伊豆の堀越公方政知を攻める
文明3年(1471)3月、成氏方の小山持政と結城氏広が堀越公方の足利政知の拠点伊豆に攻め入りました。
幕府からの援軍が途絶えていた政知は、駿河の今川に援軍を頼みます。さらに扇谷上杉の家臣と山内上杉の軍隊が加勢し、小山軍・結城軍は敗退しました。
勝ちに乗じ、下野へ進軍する上杉軍
伊豆の勝利に勢いづいた上杉方は、下野へ進軍します。勝ち負けを幾度か繰り返しますが、徐々に上杉軍が成氏の城を攻め落としていきます。
成氏の主力 小山家の裏切り
成氏劣勢の情勢で、館林城を守りに行っていた成氏主力、小山持政が上杉に寝返るという事件が起きました。
成氏が古河に拠点を移したのも、頼りにしている小山の勢力範囲に近かったからです。その小山に裏切られたわけです。これにより成氏軍の劣勢が顕著になりました。
古河公方成氏 古河から逃げ出す
文明3年(1471)5月、上杉軍は成氏の拠点古河に攻め寄せました。伊豆の戦いで結城軍の戦力の多くを失い、さらに小山の裏切りにあった氏政は、上杉軍の猛攻に耐えられませんでした。
6月24日、成氏はついに古河城を脱出し下総の千葉氏を頼って落ちていきました。しかし、成氏が逃げた後も古河城は抵抗を続け、上杉軍は攻略をあきらめ撤退していきました。
成氏反撃
文明4年(1472)千葉家に逃げていた成氏は反撃を開始します。結城氏広・那須資持・茂木持知らの協力を得て、古河城へ帰還を果たしました。
古河城に帰還を果たしたころ、上杉に下っていた小山持政が再度寝返って成氏方に戻ってきました。
5月、成氏と上杉が対峙します。
成氏は、小山・結城・那須・宇都宮・佐野・佐貫などの緒家から編成した8千の軍勢。対する上杉軍は7千。
両軍は戦い、上杉軍の勝利で終わります。
成氏軍は敗北し古河へ撤退しました。
山内上杉の家宰 長尾景信の死
文明3年(1473)3月、京都で山名宗全が死去しました。また5月には細川勝元が死去します。
二人の死で、応仁の乱は沈静化していきます。しかし、関東の戦乱は終わる気配が見えません。
6月、関東にも大きな出来事が起こります。山内上杉家の火災・長尾景信が死去します。一時は成氏を古河から追い出した上杉の重鎮です。景信の死は、関東の情勢を変えることになります。
景信の跡継ぎ争いと、それを見逃さない成氏
景信の死後、弟の長尾忠景が山内上杉家の家宰を継ぎましたが、景信の子景春が不満を示し両者は対立します。
この叔父と甥の対立を見て、成氏は文明5年(1473)11月、上杉の城を攻めます。上杉軍は何とか成氏軍を押し戻しますが、この戦いで扇谷上杉家の当主・上杉政真(まさざね)が討ち死にしてしまいました。
長尾景春の裏切り
長尾景信の跡継ぎ争いで、弟の忠景が正式に山内上杉家の家宰になると、扇谷上杉家の家宰、江戸城を創ったことで有名な太田道灌(おおたどうかん)は、景信の子景春から謀叛の気配を感じ取ります。
太田道灌と長尾景春は義理の叔父甥の関係にあり、最初は景春の気持ちを抑えるために、景春を武蔵守護代に任命するように山内上杉家の当主上杉顕定(あきさだ)に意見具申しましたが、道灌の意見は聞き入れられませんでした。
太田道灌が関東を留守にする
文明8年(1476)2月、応仁の乱で駿河の今川義忠が戦死し、今川家内で後継問題が起こります。扇谷上杉家にも支援を求めてきたので、太田道灌が駿河に派遣されることになりました。3月に、道灌は江戸城を出発し、6月に箱根を越えて駿河に進みました。
道灌が関東を離れたのを見計らって動き出したのは長尾景春です。鉢形城に入場することで反逆の狼煙を上げました。
北条早雲登場
今川の次期当主として太田道灌た推す小鹿範満(おしかのりみつ)に対し、敵対する今川氏親を押す一派は、伊勢盛時(宗瑞・そうずい)に支援を求め、宗瑞は京から下向して太田道灌らと交渉を行いました。
その結果、宗瑞の案で両派の手打ちが行われ、道灌は文明8年(1476)10月に帰国を果たすことが出来ました。
この伊勢宗瑞こそ、後の北条早雲です。
長尾景春の乱
道灌が関東に帰りついた後の、文明9年(1477)正月18日、春景がついに鉢形城から山内上杉軍の拠点五十子城(いかつこじょう)へ討って出、攻め落とすことに成功します。
景春の反乱に対し、太田道灌は両者の仲介のために動き出していました。しかし、仲介工作はうまくいかず、上杉軍は二派に分かれ争い続けます。
上杉家内の対立に喜ぶ 古河公方足利成氏
長尾景春の乱で喜んだのは、古河公方成氏です。成氏にとって管領家内の同族争いは、まさに天の助けに思えたでしょう。そんな中、長尾景春から成氏に書状が届きます。「手を組みましょう」という内容でした。
成氏は景春の誘いに乗り、二人は手を結ぶことになります。こうして享徳の乱は、今までの公方対管領家の様相とは、違った展開になっていきます。
大田道灌の活躍
何とか景春と上杉家との仲を取り持とうとしてきた道灌でしたが、景春の反意が限度を超えたことを確認すると、春景討伐に動き出します。
道灌は、豊島家の石神井城(川越と江戸の中間点)を堕とします。(文明9年/1477・4月18日)
古河公方と上杉家の和睦
文明9年(1477)5月に、長尾春景と上杉軍は上杉の拠点五十子(いかつこ)城近くの針谷原(はりがやはら)などで激戦を繰り広げました。
傷ついた景春軍は鉢形城に入ります。そこを道灌率いる上杉軍が襲い、鉢形城を囲みました。春景は進退窮まったかに見えました。しかし、そこへ、古河公方成氏が援軍として現れたのです。率いた兵は8千と言われています。
成氏の軍に驚いた上杉方は、上野白井城へ兵を引きました。
12月23日、成氏が動きます。白井城を目指した出陣し、広馬場というところで両軍は合戦しました。しかし文明10年(1478)正月元旦、上杉方から成氏に停戦の提案が成されます。大雪が降ってきたためということでした。成氏は内心喜びます。上杉方から和睦を切り出したこと、幕府との和睦は成氏の悲願であり管領家との和睦は悲願へ一歩近づくこと、当然成氏はこの提案を受け入れ、両者の和国は実現します。
余談ですが、上杉と成氏の和睦がなる2か月前の文明9年(1477)11月、京の応仁の乱も、西軍大内政弘が自国に引き上げたことで終わっていました。
それでも続く 春景と上杉家との戦い
両上杉と古河公方成氏の和睦はなりましたが、上杉両家と長尾景春の戦いはまだ終わっていません。一度は、太田道灌に攻められ降伏していた豊島家が、再び寝返り景春軍として兵を挙げたのです。そこで、太田道灌は再び豊島家征伐のため出陣しました。成氏との和睦から幾日も経たない文明10年(1478)正月25日のことです。
今回も、豊島軍は道灌によって敗北を期します。
豊島軍は小机城に逃げました。小机城は景春方の拠点の城で、深い堀と高い土塁に守られています。流石の道灌もこの城をなかなか落とすことが出来ません。
追い詰められる景春軍
景春は、小机城の豊島軍を助けようと援軍を送ろうとしていました。しかし、文明10年(1478)3月10日、扇谷上杉軍が進軍してきて、景春軍とぶつかったため援軍を送れません。上杉軍の勢いは強く、景春は軍を引かざるを得なくなります。
景春が軍を引いたことにり完全孤立した小机城は、4月10日ついに陥落し名門豊島家は滅びました。豊島家の領地は扇谷上杉のものとなり、そのうちの多くが太田道灌に与えられました。
景春を見限った成氏
小机城を堕とした道灌軍は景春軍を追撃します。文明10年(1478)6月14日、道灌軍と景春軍がぶつかり道灌は景春軍を撃退します。その後にらみ合いの状態に入ると、対陣の役目を扇谷上杉の定正に預け、道灌自身は甲斐に兵を進めました。そこで戦果を治め、さらに相模を制圧します。
7月に道灌は甲斐・相模で戦果をあげ、景春討伐に戻ってきました。
これを見て、上杉との和睦は成立していたものの古河に帰らずにいた成氏は、完全に景春を見限り、道灌に助けを求めてきました。
「公方成氏を助ける」という大義名分を手に入れた道灌は、景春がいる成田を攻めてこれを破ります。さらに鉢形城も攻めて落城させました。敗れた景春は秩父へ落ち延びます。
道灌の勝利により、成氏は古河に戻ることが出来ました。
長尾景春の乱の幕切れ
景春が逃げた後、景春方の中心は下総の千葉家でした。文明10年(1478)10月、太田道灌は千葉氏の討伐のため出陣しました。戦いは道灌の率いる上杉軍の優勢で推移しますが印旛沼に面した臼井城にこもった千葉氏を攻めますが、城が堅固で半年経っても堕とすことが出来ませんでした。
1年以上下総に留まっていましたが、道灌は一端河越に戻ることにします。
ここで戦況が動きます。軍を引く道灌軍を見て、千葉軍が襲いかかってきたのです。境根原で両軍はぶつかり、激戦となりましたが、辛うじて道灌軍は千葉軍を押し返し、そのまま臼井城を落城させました。
城主の千葉孝胤は城を捨て千葉へ後退しますが、道灌軍も追撃する余力は残っておらず、河越に帰って行きました。
景春追い詰められる
文明11年(1479)9月、秩父に逃れていた長尾景春が再び動きます。それに対し上杉軍は、また太田道灌を出陣させます。
上杉方は景春を圧倒し、有利に戦を進めていたところ、「成氏が上杉との和睦を破棄して、再び景春と手を結んだ」という情報が入ります。
なぜ成氏が、再び景春と手を組んだのかというと、上杉は「成氏と室町幕府が和睦できるように仲介する」と約束していながら、その約束を果たさずにいたからでした。
景春は、成氏に「上杉は口ばかりで約束を守らない。私が代わって和睦を仲介する」と申し入れたのです。1年以上約束を果たす動きを示さない上杉に不信感をもった成氏は、再び景春と手を組むことに同意したのでした。
景春と成氏の同盟は結果的に裏目に出ます。危機感をもった上杉軍は文明12年(1480)6月24日、景春の拠点の日野城を攻め落城させてしまいます。
景春は、成氏を頼って逃げますが、景春は力を失い約4年に及ぶ長尾景春の乱は終わりました。
享徳の乱の終結
成氏は幕府との和睦を願っていました。成氏の願いは文明10年(1478)正月の成氏と上杉方の和睦で、上杉方が幕府へ仲介する約束になっていましたが、長尾景春の乱のさなかで山内・扇谷両上杉家は幕府に仲介が出来ませんでした。
そこに、長尾景春が「私が仲介する」と成氏に持ちかけてきた言葉を信じましたが、景春はもともと幕府にコネがあるわけでは無く、仲介役とはなり得ませんでした。
そこで成氏は、文明12年(1480)に越後上杉家に仲介を頼みます。越後上杉家の当主・上杉房定(ふささだ)は、山内上杉の顕定(あきさだ)の実父です。房定は、越後上杉家を継ぐまでは、京都で過ごしていました。さらに、成氏が鎌倉公方に就任することにも尽力した人物です。京の将軍にも成氏にもパイプをもった人物です。
房定は、将軍と公方の和睦のために動きましたが、ネックとなったのは、将軍が鎌倉公方(堀越公方)として任命した、足利政知の存在でした。
交渉は難航しましたが、文明14年(1482)11月、ついに決着します。鎌倉公方は成氏に戻すこと。足利政知には伊豆国を譲り渡すこと。
この条件で 、将軍義政と公方成氏の間の和睦が成立しました。この和睦を「都鄙合体(とひがったい)」と言います。
都鄙合体により、享徳3年(1455)年から約28年間続いた長い長い戦いが終結しました。
鎌倉府のその後
享徳の乱の後、成氏は鎌倉公方に返り咲きましたが、鎌倉府は全く機能しなくなります。鎌倉府の機能が失われたことで、領土問題が生じたら自力解決を余儀なくなりました。大義名分などお構いなしの戦国乱世の時代の到来です。
力の時代の到来により、居館は城郭化し、軍団が整備されていきます。そして室町幕府の体制も崩壊していくことになります。守護を上回る力をもった国人層が主家を乗っ取る戦国の世が、板東ではいち早く始まりました。
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