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朝ドラ『ブギウギ』の意味:笠置シズ子から、笠置シヅ子へ

戦後復興期から昭和の高度成長期にかけ、日本社会のトレンドとなったブギウギに興味を持っていますか。今、NHK朝ドラ「ブギウギ」が話題になっています。朝ドラの主人公花田鈴子のモデル笠置シズ子は、ブギの女王と呼ばれ、「東京ブギウギ」など一連のブギを歌った歌手です。この記事では、日本においてブギウギが流行した意義と、ヴギの歴史について、さらにはなぜ「笠置シズ子」は「笠置シヅ子」になったのかを紹介します。

・ブギウギはピアノによるブルースの演奏法の一つ。
・ブギウギは、アフリカの言葉で「太鼓を叩く」「踊り狂う」「離陸する」などの意味がある。
・ブギウギはアメリカの鉄道機関車のリズムを取り入れた音楽
・ブギウギは、1940年代に笠置シズ子と服部良一のコンビなどで流行った、復興期日本にふさわしい音楽。
・ブギの女王笠置シズ子は、歌手を廃業し女優宣言したときに「笠置シヅ子」となった。
・笠置シズ子(シヅ子)にとってブギウギとは「つらい時代」から「新しい時代」への『離陸』を象徴していた。

目次

1.ブギウギの紹介と日本におけるブギ流行の意義

そもそも、ブギウギとは何でしょう。辞書には、次のように説明されています。

ブギウギ【boogie woogie】
主としてピアノでブルースを演奏するときに用いられるパターンの一つ。低音部(ピアノの左手)は1小節に八つのビートを規則的に刻み,高音部は装飾的な音型を即興で弾くのが基本。20世紀初頭にアメリカ南部で発生し,1940年代にダンス音楽として流行した。日本では第2次世界大戦直後に《東京ブギウギ》《ヘイヘイブギ》(ともに服部良一作曲)などの流行歌が作られ笠置シ子(1914‐85)が歌って話題をまいた。【中村 とうよう】

株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

ということで、本来は、ピアノの演奏パターンを指します。
説明にもあるように、ダンス音楽として演奏されることが多かった軽快な音楽です。

私は昭和の30年代に生まれたのですが、笠置シズ子さんが歌う姿を生で見た覚えがありません。
記憶に残っているのは、歌手笠置シズ子ではなく、役者笠置シヅ子さんです。

正直言って、「ブギウギ」という言葉でイメージするのは、宇崎竜童の「ダウンタウンブギバンド」など、昭和後期の歌手の方です。
「港のヨウコ・ヨコハマ・ヨコスカ」、「スモーキングブギ」、「買物ブギ」は彼らのリバイバル版で覚えています。

もう一つ、東京ブギウギをつかった「クリアアサヒ」のコマーシャルソング、このように仮構されたものが昭和世代の我々にとっての東京ブギウギです。

ブギウギは大半が大人になってから聞いたわけです。原曲を歌っていたのが役者の笠置シヅ子で、彼女が昭和初期に歌手として歌っていたのだと後から繋がりました。

2.ウギウギの起源とその文化的影響

「ブギウギ」は何語、どういう意味??

そもそも「ブギウギ」とは、何語なのでしょうか。
どうやら、アフリカの言葉のようです。アフリカで次のような言葉が遣われていました。

例えば、ナイジェリアあたりで使われている言語に「ハウサ語」という言葉があるそうです。その「ハウサ語」で、「BOOG」という言葉があり、「太鼓を叩く」という意味だそうです。

またアフリカ西部で遣われている「マンデー語」では、「BOOGA」という言葉で、同じく「太鼓を叩く」という意味です。

さらに、西アフリカ周辺の言葉では、「(BOGI)」という言葉が遣われています。ここでの「BOGI」は、「踊る」ことを意味します。

そしてアフリカ中部及び南部で多く遣われる「バンツー語」には、「MBUKI MVUKI」という言葉があり、「離陸」、「踊り狂う」という意味です。
「M」を発音せず、「MBUKI MVUKI」「ブギウギ」と聞こえるのでしょう。

ということで、「ブギウギ」はアフリカの言葉で、「太鼓を叩く」「踊り狂う」(行っちゃってる【離陸してしまっている】)という意味があるようです。

音楽的に、ブギウギはいつ頃生まれたのか

音楽史的に、「boogie(ブギ)」という言葉が遣われた最古の楽譜は、1880年のThe Boogie Manです。

1901年には、「Hoogie Boogie」という言葉が遣われた楽譜があります。

「Boogie」という言葉がレコードのタイトルとして遣われたのは、1913年のAmerican Quartetによる「The Syncopated Boogie Boo」だと言われています。

ただし、どういうわけだか「The Boogie Man」にも「The Syncopated Boogie Boo」にも、「ブギ」のリズムとしての『低音部(ピアノの左手)は1小節に八つのビートを規則的に刻み,高音部は装飾的な音型を即興で弾く』がありません。
どういうことだか、よくわかりません。

ブギウギの特徴が見られた楽曲は、1915年のArtie Matthewsによる楽譜「Weary Blues」や1919年のLouisiana Fiveによる「Weary Blues」からでした。

ただしブギウギがお店などで演奏されだしたのは、1870年代の初めだと言います。テキサスでブギウギのリズムでピアノ演奏がされていた、という記録があります。
主に黒人ピアニストたちが、ブギのリズムで演奏していたようです。

ブギといっても地域によって曲調が違い、曲を聴くと「あなたはどこどこの出身ですね」と分かったと言います。
このエピソードからもわかるように、アメリカでは幅広く多様にブギが定着していました。

笠置シズ子の「東京ブギウギ」のは発表が1948年(昭和23年)ですから、約80年遅れて日本にもブギウギの流行がやって来たことになります。

3.ブギウギの特徴

ブギウギは機関車のリズムとともに発展

ブギウギは、鉄道機関車のリヅムと共に発展しました。
ブギウギがメジャーになってきた1870年代は、テキサスまで機関車が開通した頃です。鉄道が通ると、鉄道網の広域化と共に、ブギの音楽も田舎から都会へと伝わっていきました。

多くの黒人ピアニストが、鉄道で移動する中で耳にした機関車のリズムや汽笛の音を自らの音楽に取り入れてプレイするようになりました。

1920年代になると、Thomas Brothersによる「The Fives」という曲が発表されます。

上のアルバムもそうですが、この曲は多くのピアニストによって、様々なアドリブを加えて演奏されています。そして、そのバリエーションの豊かさも含めて、現在のブギウギのスタイルとなりました。

現在、ブギウギ生誕の地として、テキサス州のMarshallが正しいとされています。

4.日本におけるブギウギの流行

15年戦争の時代

昭和初期、日本は15年にわたる戦争の時代を経験しています。
1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)の日中戦争、そして1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)にかけての大東亜戦争(俗に言う第二次世界大戦)です。

ブギの女王と言われる笠置シズ子さんの生まれは、1914年(大正3年)です。
音楽界へのデビューは、日本歌劇学校の前身ある松竹の「松竹楽劇部生徒養成所」で初舞台を踏みましたが、日本コロンビアからのデビューは、1933年(昭和8年)のことで、15年戦争の初期の頃でした。

戦時中の日本音楽会

1938年(昭和13年)、つまり日中戦争勃発の1年後、帝国劇場で「松竹歌劇団」が旗揚げされました。
笠置シズ子は、ここで運命の師匠、服部良一と出会っています。
ですが、日中戦争から大東亜戦争へと向かう時期です。世の中は、「贅沢は敵だ」また「笠置シズ子が歌うジャズは、適正音楽だ」というような論調が主流でした。
アメリカナイズされたシズ子のファッションやステージが許されるはずがありません。
シズ子は、警察からにらまれ劇場への出演を禁じられてしまいました。
また、松竹歌劇団も戦争が始まった1941年(昭和16年)に解散させられてしまいます。

この時期、シズ子を含め日本の歌謡界は、兵隊さんたちの慰問活動で歌える歌で成り立っていました。
シズ子も「笠置シズ子とその楽団」を結成し、各地を慰問する日々を送っていました。
また、この時期「弥次喜多大陸道中」という映画に主演として出演しています。

この映画を見た服部良一は、コロンビアの専属歌手として笠置シズ子を抜擢しました。
シズ子はコロンビアの専属となりますが、まだ戦時中です。
3㎝もある長いまつげを揺らし、ステージ上を所狭しと踊りながら歌うシズ子のスタイルは、まだまだ受け入れられませんでした。

またまた当局から目を付けられたシズ子は、『マイクから約90㎝(3尺)の範囲で歌え』と、強要されてしまいます。
これでは、「笠置シズ子のステージ」では無くなってしまいます。
戦前・戦中の日本の歌謡界は、このような状態でした。

戦後のブギの流行

1945年(昭和20年)、8月15日に終戦。その年の11月に早くも日本劇場は再開されます。
そしてシズ子は、日本劇場再開の最初のステージから、そこに立っていました。

1947年(昭和22年)「踊る漫画祭り・浦島再び龍宮へ行く」というステージで、「東京ブギウギ」が歌われました。
歌うのはもちろん笠置シズ子、作曲は服部良一。黄金の師弟コンビです。

この後、「大阪ブギウギ」「買物ブギ」など一連のブギものがヒットし、笠置シズ子は「ブギの女王」と呼ばれるようになります。
その後、美空ひばりが登場するまで、歌謡界のブギの女王として「笠置シズ子」の黄金時代が続きました。

ブギの女王・笠置シズ子

5.ファッションと美容業界におけるブギウギ

笠置シズ子は、未婚の母です。
最愛の男性の死を乗り越え、シズ子一人で乳飲を育てるする姿が、当時「夜の女」「パンパン」と呼ばれ、生活苦のためにやむを得ず売春をする女性たちに深い感銘を与えました。
シズ子の後援会には、多くの「パンパン」と呼ばれる女の人が入っていたと言われます。

シズ子のファッションは、「パンパン」と呼ばれる女性たちに大きな影響を与えました。

ブギのリズムに秘められた鉄道機関車のようなバイタリティー、明るさ、前向きさが当時の女性のファッションにも取り入れられたのです。

いわゆるパンパン系ファッションを一言で言えば、『赤い口紅などの厚化粧・明るい色・ネッカチーフ(スカーフ)・ナイロンのショルダーバッグ・フレアーのロングスカート。』でしょうか。

終戦後、占領初期の1948(S23)年頃は、濃い真っ赤な口紅・描き眉・マニキュアなどの厚化粧。
カールやパーマなどの装飾的な髪型。
パッドで張った肩・短いスカート・明るい色・ネッカチーフ(スカーフ)・ナイロンのショルダーバッグ。ローヒールの靴。

1949(S24)年頃以降ディオールなどに代表されたニュールックとなります。
広がったフレアーのロングスカート。なで肩と細腰。
ハイヒールでストッキング。
女性らしさ、ロマンティック感を漂わすスタイルが大流行しました。
これを最初に積極的に取り入れたのもパンパンでした。
また、この流行を牽引した女性は、いわゆるパンパン系女子だけでは無く、芸能関係者や意識高い系女子とか富裕層女子も加わっていました。

1940年代のファッション

6.エンターテインメントとメディアにおけるブギウギ

戦後の何も無い世相に必要だったのは、機関車のようなバイタリティー溢れる前向きさです。
この時代の歌謡曲として、必然としてブギウギが流行しました。

それまで、直立不動で歌っていた、また歌われていた歌謡曲が、ステージ上をエネルギッシュに踊り回る歌手の再登場です。

笠置シズ子は、浪速のおばちゃんです。
笑いの要素も兼ね備える時代の申し子となりました。

シズ子は、歌の他にも1948年(昭和23年)には、黒澤明の「酔いどれ天使」で、キャバレーの歌手役で登場し強烈な印象を観客に与えました。

さらに1949年(昭和24年)には、往年の大スター高峰秀子とともに、「銀座カンカン娘」に主演として登場しています。さらに1950年(昭和25年)には、「買物ブギー」が大ヒットするなど芸能界に多いな功績を残しました。

高峰秀子

7.ブギウギの陰り:笠置シズ子から『笠置シヅ子』へ

1950年代に美空ひばり江利チエミが現れると、笠置シズ子の人気は若手に奪われる様相を見せ始めます。
ブギの流行が衰え始めた1957年(昭和32年)に、シズ子は歌手の廃業を宣言しました。
理由は、『太ってしまって、全盛期のような踊りが出来なくなったから』という事でした。

歌手時代、彼女の芸名は「笠置シズ子」でした。しかし、歌手引退を機に芸名を「笠置シヅ子」にしています。

最愛の人の死

笠置シズ子には、一人娘エイ子さんがいます。吉本の御曹司、吉本穎右(えいすけ)との子です。

吉本穎右さんは、吉本興業の創始者、吉本せいさんの次男でした。

穎右とシズ子とは相思相愛でした。しかし二人の前には大きな壁が立ちはだかります。
まず戦争。穎右は戦争にかり出されます。
次に、二人の結婚に対する穎右の親(吉本せい)の大反対。ただし、シズ子の妊娠が発覚してからは、吉本家も二人の結婚を認める動きが見られたようです。
ですが、二人の結婚の前に穎右は25歳の若さで病死してしまいます。肺結核だったと言われます。

穎右の死の知らせは、出産を間近にひかえ産婦人科に入院していたシズ子に届きました。シズ子は、その場で泣き崩れしばらく動けなかったといいます。

穎右の死から10日後、シズ子は乳飲み子を抱えた未婚の母となりました。
シズ子は1947年(昭和22年)6月1日生まれの愛娘を「エイ子」と名を付けました。
穎右(えいすけ)の「エイ」です。

悲運のどん底にいたシズ子でしたが、翌年昭和23年に「東京ブギウギ」のレコードが発売されます。
自らの逆境を見事に跳ね返し、戦後の混沌とした社会に明るさと前向きさを与えたのでした。
シズ子にとってのブギウギは、「逆境」からの「離陸」だったのではないでしょうか。そして、シズ子の歌を聴く当時の人々も「戦後の何も無い時代、暗い時代」から離陸して新しい時代への離陸の歌だったように思います。

歌手引退後、一切歌を歌わなかった笠置シヅ子

笠置シズ子が歌手を引退し、女優笠置シヅ子になってから「一切人前で歌わず、鼻歌さえ人に聞かせなかった」と言います。

「最高のパフォーマンスしか人前では披露してはいけない」という、プロ歌手としての美学だったのでしょう。
シズ子からシヅ子への改名は、その決意の表れ、美学の表れだったのだと思います。

笠置シヅ子さんと愛娘(亀井エイ子さん)

9.まとめ:ブギウギとは何か

ブギウギとは、辞書的には、「低音部(ピアノの左手)は1小節に八つのビートを規則的に刻み,高音部は装飾的な音型を即興で弾くブルースの演奏法」です。

歴史的には、鉄道機関車の力強さ、戦後の復興期を象徴する音楽を指します。
日本におけるブギウギ歌手の第一人者は、笠置シズ子さん。
この笠置シズ子さん、戦前・戦中は、浪速生まれの天真爛漫少女・困難も笑い飛ばす浪速のおばちゃん歌手として、機関車のように暗く困難に満ちた時代を乗り切ります。
そして、ブギのリズムに乗って、時代は「混沌の時代」から、高度成長の時代「新しい活力に満ちた時代」へと『離陸』していきます。
つまり、ブギウギとは、新しい時代への『離陸』の象徴と捉えることができないでしょうか。

昭和30年代に、ブギの流行が下火になるとともに、笠置シズ子さんは歌手としての第一戦を退きました。その後は、女優「笠置シヅ子」と改名してお茶の間に笑いを届けてくれました。
彼女は、女優業転職後、鼻歌さえも人前では歌わなかったと言います。浪速のおばちゃんの心意気でした。

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