会津の「什の掟」
政治家など人の上に立つ者が、私利私欲だけで動いたら国は成り立たない。エリートがエリートであるためには、人格的にも高潔で優れている必要がある。
江戸期、武士は当時の人口の約7%程度だった。そして多くの武士は人間として洗練されていた。それは当時の教育に負うところが大きい。
会津の「什の掟」も当時の高潔な人間を育てる貴重な掟、そして教えだった。
「什の掟」は会津武士の子どもたちの集団「什(じゅう)」で守られていた掟(おきて)だ。
「什の掟」は、藩校日新館の教えが基礎となっているが、あくまでも子ども同士の約束事。この子ども同士の掟が、後々藩校での学びの基礎を成し、会津武士の精神構造を創っていった。
鹿児島の郷中教育もそうだが、子供のころ、子ども同士の人間関係の中で生まれたルールは、人格形成に大きな影響を与える。
「什の掟」は、水戸学のような膨大な学問大系ではない。たった7箇条からなるルールだ。
1 年長者の言うことにそむいてはなりませぬ
『会津藩什の掟 日新館が教えた7カ条 中元寺智信著』より
2 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
3 嘘を言うことはなりませぬ
4 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
5 弱いものをいじめてはなりませぬ
6 戸外でものを食べてはなりませぬ
7 戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ
「ならぬことは ならぬものです」
現代には、そのまま通じない部分も確かにあるが、当時の武士の子どもたちは、このルールを守ることを互いに課し、日々を伴にしながら会津武士として育っていった。
会津の『什』とは何か
~6歳から9歳までの藩士の子弟は、住んでいる地区ごとに10人ほどの組に分けて統括されました。この組のことを「什」といいます。10歳になると「什」に所属する藩士子弟は全員が日新館へと通わなければならなかったため、「什」は学校生活の準備をするための組織~
『会津藩什の掟 日新館が教えた7カ条 p14 中元寺智信著』より
『什』とは、今で言う小学校1年生から4年生ぐらいまでの子どもたちの集団だった。最年長の子が「什長」となり、その子を中心として縦社会の集団で日々を過ごす。
会津藩では、「10歳まではきちんと遊ばせる」のが基本方針だった。遊びを通して社会性を培っていくことがねらい。遊びの中にこそ、人として育つために真に必要な教育要素があるのだ。
「什」は子供たちが自主的に活動していくためのもので、決して親やほかの大人たちが仕切るものではありません。遠くで見守ることはあっても、「什」内部のことに口を出すのは許されませんでした。
『会津藩什の掟 日新館が教えた7カ条 p16 中元寺智信著』より
「什」は子どもたち自身による主体的な遊びの集団で、親であってもその在り方においそれと口出しできなかった。
このような子ども任せの集団であったにもかかわらず、子どもたちは会津藩の武士の子どもとして、ふさわしい行動ができたという。
それが出来たのは、「什の掟」があったからだ。
子どもたちは、毎日全員で「什の掟」を確認し合い、違反したものには罰を与えた。自律的な集団の中で互いが会津武士の子として恥ずかしくない行動が出来るように研鑽し合っていた。
~「什」の子供たちは、午前中は各自の家や寺子屋で「孝経」などを学び、午後を遊びの時間としていました。午後になると、順番で決められた家に集まり、遊ぶ前に「什の掟」を確認し合い~
『会津藩什の掟 日新館が教えた7カ条 p17 中元寺智信著』より
~順番で決められた家はどんな理由があっても断ることができなかった~
遊ぶ前に、どこかの家にまずは集まり、「什の掟」を確認することから遊びが始まる。自律的な組織運営を自分たちで創り上げていたのだ。
7カ条の中には現代では通じない点も確かにある、だが当時の時代背景なら武士の子の品格教育として理解できる。
そして最後に「ならぬことはならぬものです」と言う。
では、この掟に違反するものが出たときはどうしていたか。
「什の掟」に違反した場合の制裁
一方で、什長は違反についての申し開きを聞き、制裁についても相談して決定するという合議制を取り入れています
『会津藩什の掟 日新館が教えた7カ条 p20 中元寺智信著』より
リーダーの独断、独裁ではなかった。必ず申し開きを聞き、その上で合議をしてみんなで結論を出している。
実は、この部分が大切だ。学校現場で学則を決めるとき、生徒自らがルールを決め、破った生徒に対する罰則も自分たちで合議して決める。
最先端を行く生徒会活動の実践でも同じような活動が見られる。
「什の掟」に違反した場合、合議制で社会的な制裁を決めたわけだが、違反の度合いによって制裁の種類は決められていた。
「無念」「しっぺ」「手あぶり」「雪埋め」「派切り」などだという。
「無念」は、軽い違反に対する罰で「無念でありました」といって全員にお詫びする。
「しっぺ」は無念よりやや重く、全員で手のひらや甲をしっぺする。
「手あぶり」と「雪埋め」は冬に行われ、火鉢で手をあぶる刑と、雪の中に埋めてしまう刑
「派切り」は、最も重い罪に対する罰で、親と一緒に「什」の全員に謝罪して回る罰。
子どもである自分の過ちといっても、社会的制裁として家族まで責任が及ぶのだという社会的ルールを学ばせていた。
遊びの什から学びの什へ
10歳になると子どもたちは、日新館に通う。「遊びの什」がそのまま「学びの什」となった。
「遊びの什」では午後から日没までの時問を「什」の仲間とともに過ごしていたのが、「学びの什」では、日中はほぼ一緒にいることになります。会津藩が幕末において獅子奮迅の活躍を見せたのは、その結束力によるものとされています。
『会津藩什の掟 日新館が教えた7カ条 p23 中元寺智信著』より
人格を育てるルールの下で、遊びや、学びを伴に過ごした集団の結束力は想像できる。幕末の会津武士の想像を超える忍耐力そして高潔さは、このようにして育った。
日新館が追究した人物像とは
六科(りっか)
日新館で目指した目標は「六科」とよばれる。
1 「武芸、芸事など、いろいろなことをわきまえ、国を治める方法や政治
の道を知り周囲の人物の優れている所を見つけ出す事ができる人物」
2 「人を心から愛し、物を大切にし、人々を良い方向に教え導き、城下の
者の気持ちを安らかにする人物」
3 「日本民族固有の伝統となっている宗教的な行為の実践に心がけ、縁起
の良いことや悪いこと、また武家社会の
古い規定や習慣をよく知っている人物」
4 「私利、私欲がなく慎み深い人物」
5 「古の、人格や徳行にすぐれ、理想的な人物として尊敬されていた人
の、良いところを知り、時と場所をわきまえて物事を実行する人物」
6 「例え戦争が起こっても困らないように、その供えを十分にするために
日頃から鍛錬を怠らず、落ち着いていて勇気があり、思い切りの良い
人物」
このような人物の育成を目指していた。
水戸学は「尊皇」、会津は「尊幕」
会津の教育を担った日新館
「会津藩の興隆は人材の育成にあり」として、1803 年に家老の田中玄宰(はるなか)が日新館を開設した。また藩主・松平容頌(かたのぶ)も日新館の道徳の副読本「童子訓」を編纂したりして自ら人材育成に乗り出した。
水戸の弘道館は1841年の創設なので、日新館の方が約40年早く創設されている。
水戸学と日新館の根本思想の違い
会津の教育の根本原理
会津の根本原理は「尊幕」だった。
~会津藩の藩祖・保科正之は徳川2代将軍秀忠の子であり、3代将軍・家光の弟にあたります。このことから、会津藩は藩誕生の当初から徳川将軍家を守ることを家訓として決めていたのです。
そのため、周りがどのような状況になろうとも、いつでも徳川家のために身を投げ出せるように武芸を磨き、家訓を忠実に守ることができるように精神を鍛えておく必要があったのです。これが会津士魂と言われるもので、幕末にはその本領が発揮されるのですが、同時に白虎隊の悲劇を生む~
『会津藩什の掟 日新館が教えた7カ条 p27 中元寺智信著』より
会津魂とは、幕府に忠誠を誓い幕府を守ることだった。
では、水戸学はどうか。
水戸学とは何か (水戸学の根本原理とは)
水戸学を端的に表現すれば「尊皇」。
「水戸学とは」と聞かれて、その心髄だけを答えるとすれば「尊皇」ということになる。水戸学とは、『尊皇の学問』『尊皇の思想』『尊皇の行動学』だ。
今風に言えば
『万世一系の自国の歴史を理解し、自国に対する愛情を育てる学問』が水戸学
現代の教育基本法、社会科の教科目標に通じる。
ただ、会津の「尊幕」に対し、水戸学は「尊皇」だ。もし、幕府と朝廷が対立することがあれば、水戸学では最終的には朝廷側に立つ。ここに大局的な差がある。
この対局の思想・行動原理が、幕末の会津の悲劇、そして将軍慶喜の苦悩を生んだ。
しかし、どちらの側に立つとしても「ならぬことはならぬものです」という高潔さについては共通していた。
人の上に立つ為政者は、このような高潔さを持っていただきたい。
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