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意外と知らない日本の神社の謎と、太古の神々

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アマテラスはなぜ、大和ではなく伊勢に祀られたのか

古代の日本の中心は大和(やまと)、つまり奈良県あたり。
当初は、斑鳩いかるが)、現在の奈良県生駒郡斑鳩町あたりに都があった。

       

その後、飛鳥、奈良県高市郡明日香村や、藤原京(奈良県橿原市から明日香村あたり)や、平城京(奈良市)などに移つる。

ところで、アマテラスはなぜ大和に祀らずれずに、伊勢の地に祀られることになったのか。

アマテラスが伊勢の地に祀られることになった経緯

経緯について「日本書紀」の崇神天皇紀に次のように書かれている。

・アマテラスは、ヤマトノオオクニタマ(倭大国魂神)と一緒に始め宮中に祀られていた。
・ヤマトノオオクニタマは、大和神社(おおやまとじんじゃ)の祭神。
   (ヤマトノオオクニミタマは、おそらく倭(やまと)の国にもともといた土地神的な神か)
・アマテラスとオオクニタマを一緒に祀っていたら、疫病がはやり、民が反乱を起こしたりして国が乱れた。
・二柱の神を同じ所に祀っているのが、禍の原因ではないか、と考えられるようになった。
・そこで、二柱の神を宮中から出すことになった。

宮中から、出されたアマテラスはどうなったのか。

まず、
トヨスキイリビメノミコト(豊鍬入姫命)に預けられ、倭の笠縫邑に祀られた。

笠縫村が現在のどのあたりなのかについて、候補地がいくつか上げられている。
最有力なのは、奈良県桜井市周辺と考えられ、当時の宮中からあまり離れていない場所だったとする説が有力。

一方のヤマトノオオクニミタマは別の姫に預けられたのだが、なんと預けられた姫の髪はだんだんと抜け落ち、体も見る間に痩せ衰えてしまった。

この姫は、役目を果たすことが出来なくなり他の姫に役目を変わらざるを得なくなってしまう。

話をアマテラスに戻す。
第11代の天皇である垂仁天皇のとき、アマテラスはヤマトヒメノミコト(倭姫命)に預けられた。

なぜトヨスキイリビメからヤマトヒメに祀り手が変わったのかについては、書かれていない。
おそらく、トヨスキイリビメが祀ってもうまくいかず、禍がさらに続いてしまったのだろうと思われる。

そこで、新たに引き継いだヤマトヒメは、アマテラスを祀る土地を探すために、倭を出て近江国(滋賀県あたり)、さらに美濃国(岐阜県あたり)、そして伊勢国(三重県の東部あたり)へ、あっちへ行ったりこっちへ来たりと渡り歩いた。

ヤマトヒメが伊勢国に着くと、アマテラスが言ったという。

(こ)の神風の〈吹く〉伊勢の国は、常世の浪の重浪(しきなみ)帰する(よする)国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是(こ)の国に居(お)らむと欲(おも)ふ」

傍国」とは、「とてもよい国」の意。
可怜し国」とは、「豊かな国」の意。

ここは良いところだから、ここにいる

と、アマテラス自身が言ったという。

このようにして、大和から夜通し歩いてやっと行き着ける距離にある伊勢の地に、アマテラスは祀られることになる。
けっして宮中から近い距離ではない。

しかも、明治2年(1869年)に明治天皇が参拝するまで、代々の天皇は、伊勢神宮を参拝していない。
ただし、一人だけ例外的に伊勢神宮に訪れた古代の天皇がいる。持統天皇だった。

持統天皇を除く歴代天皇は、なぜ伊勢神宮を参詣し参拝しなかったのか。

持統天皇

天皇が参詣しなかった理由

なぜ、持統以外の天皇は伊勢神宮を参詣(さんし)しなかったのか。

天皇家は、賢所(かしこどころ)に皇祖神のアマテラスを祀り、礼拝している。
「賢所で参拝しているので、伊勢神宮には参詣しなくてもよい」と考えたのだろうか。

しかし、日々の参拝は、賢所で行ったとしても、「1800年間歴代天皇が、一度も伊勢神宮を参詣していない」と、いう事実は、どういうことだろうか。

アマテラスは、古代は荒ぶる神だったのか

考えられるのは、『アマテラスが古代は「荒ぶる神」の一面もあり、天皇が近づくことは危険だった。』
それだけ、祀ることが難しい神だった、ということだろうか。

では、「明治天皇は、なぜそれまでのしきたりを破って、自身で伊勢神宮に参詣したのか。」
これは、明治維新に関係するだろう。

天皇中心の国家形成を目指す明治政府が、数え年若干18歳だった明治天皇に伊勢神宮参詣計画を立案し、実行していただいた。

お若い明治天皇は、おそらく明治新政府の意向に沿って動かれたのだと思われる。

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