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徳川秀忠とその母の影響:江戸幕府の礎を築いた二代将軍の二人の母

徳川秀忠は、江戸幕府二代将軍です。
秀忠は、大御所家康の影に隠れた人物とされ、必ずしも評価の高い人物ではありませんでした。

ですが、近年、評価が見直され「安定した江戸幕府の礎をつくった人物」と評価されるようになってきました。

その徳川秀忠の生みの親は、側室お愛の方(西郷局)です。そして、もう一人、秀忠の乳母である大姥局も育ての親として忘れることが出来ません。

目次

秀忠の母:西郷局(お愛)

秀忠の母はお愛の方・西郷局(さいごうのつぼね)で、彼を生んだ女性です。彼女は家康の側室であり、秀忠の誕生後も家康との間に子どもをもうけています。

この点から、家康は彼女を寵愛していたことが分かります。

家康の正妻は今川義元の重臣、関口義広の娘である築山殿でした。
彼女は長男の信康と長女の亀姫を生んでいます。

元亀元年(1570年)、家康は浜松に本拠を移しましたが、築山殿は三河岡崎城に留まっていました
家康と正妻の築山殿が別々に暮らし始めると、家康は次々と側室に子どもを産ませます。

お万の方からは秀康が、そして西郷局からは三男の秀忠が生まれました。

秀忠の幼名は初めては長丸でしたが、長男信康が自刃した後、松平家の長男に与えられる竹千代を名乗るようになりました。

同じ側室でありながら、お万の方とお愛の方との扱いが違っていたようです。

西郷局の出自

西郷局は近江国・西郷(現在の静岡県掛川市の中央部)出身で、地元の土豪・戸塚五郎忠春の子です。

戸塚忠春今川家の家来であり、どに戦かは不明ですが戦死しています。
その後、西郷局の母は家康の家来、服部平太郎と再婚しました。

お愛は養父の服部家で成長したのです。
やがて、家康の家来である西郷右京進義勝に嫁ぎ、一男一女をもうけています。

残念なことに、義勝が武田との戦いで討ち死にすると、お愛は服部家に戻されました。

実父を戦で失い、今度また夫も戦で失ってしまった西郷の局は、失意の中にあったでしょう。

そんな西郷局がどうやって家康と出会ったのかは、実は不明です。
彼女が側室として召し出されたのは、天正6年(1578年)3月とされています。

召し出された後、お愛さまは西郷局と呼ばれるようになりました。
そう呼ばれるようになった理由については、彼女の西郷姓から来ているのか、西郷という出身地に由来するのかは不明です。

お愛は、どんな人だった

お愛は、温和で誠実な性格だったと伝えられています。
特徴として、かなり視力が弱かったようです。

そのためか、特に目の不自由な人達に、お愛はとても優しかったと言われます。
食べ物を与え、目が見えないことで困らないように、細やかに庇護していたと伝えられています。

 育児スタイル

秀忠の育児は乳母である大姥局(おおばのつぼね)によって行われました。

戦国時代の大名家では、子どもが生まれると生母が直接育てることは少なく、通常は乳母が付けられるのが一般的でした。

とは言っても、実はお万の方が生んだ、後の結城秀康には乳母が付けられていません。
このあたりでも、次男の秀康と三男の秀忠の扱いが、幼年期から違っていたことがわかります。

ともあれ、このように秀忠には、生みの母であるお愛と、育ての親である大姥局二人の母がいたわけです。

育ての母:大姥局

大姥局は秀忠の育児に深く関わり、名付けや成長に影響を与えたとされています。

彼女は性格がまっすぐで、思いやりがありました。

大姥局は今川義元の家来、河村善右衛門重忠の妻として知られ、家康の人質時代からの知り合いでした。

夫・重忠が亡くなった後、彼女が浜松に戻っていたときに、家康から乳母の声がかかりました。

大姥局は秀忠をどのように養育したのかについて、実は記録に残っていません。

しかし、いくつかの逸話は残っています。

本多正信を戒めた逸話

晩年、彼女は中間や小者を集めてもてなすことを楽しみにしていました。
小者たちをもてなすため、自らしゃもじでご飯をよそっていました。

ある日、家康の懐刀と言われる本多正信がその場に居合わせ、

「侍女がいるのだから、自分でよそらなくてもよいのでは?」

と声をかけました。
すると大姥局は毅然と反論したといいます。

 あなたの今の言葉を聞くと、あなた様は、いつの間にかおごり高ぶった心になってしまったようですね。この婆は昔、三河にいたとき、とても困難な生活をしていたことを、今こうして富貴の身になっても、忘れたことはありません。だからこうして、自らしゃもじを取るのです。 
 あなたは、偉くなってしまって昔、ご自分が鷹匠だったときのことをお忘れになってしまったのですか。 
 そんな心がけで、お殿様のお近くで政務を補佐をするなど、本当に心配なことです。

彼女は、相手が幕府の要人であったとしても、毅然と「過去の苦労を忘れないよう」諭しました。

この言葉には、さしもの本多正信も返す言葉を失い、その場をすごすごと去ったと言われます。

秀忠に残した最後の言葉:人の上に立つ者は公私混同してはいけない

大姥局が死の床にあったとき、秀忠が大姥局を見舞いに来たときの話です。

秀忠は、今にも命の火の消えそうな大姥局に、

「何か願い事があるか。何でもかなえてやろう。」

と言います。

すると、大姥局は、

「秀忠様が、賢くお育ちくださり、今や何も思い残すことはございません。」

と語り、その後は口を閉ざしてしまったのだそうです。

しばらくその場に留まった秀忠でしたが、そっと枕元を離れようとしました。

すると、

「殿、殿」

と大姥局がかすれる声をかけてきました。

『何が願い事を思い出したのだろう』

と秀忠は思い、もう一度大姥局の枕元に引き返しました。

すると、大姥局は、しっかりと秀忠の目を見てこう言いました。

私の子が今、流罪になっております。
私を哀れと思って、その罪を許してはなりません。

と言ったのです。

人の上に立つ者は、公私を混同してはならない

これが、大姥局の秀忠に残した最後の教えになりました。

このような育ての親に育てられた秀忠が、江戸幕府260年の礎をつくったのです。

お愛の死

天正17年(1589年)5月19日に亡くなりましたが、享年については28歳説と38歳説の二つが存在します。

28歳説だと、彼女が家康に見いだされたときの年齢が17歳となってしまいます。
そうなると、この説には疑問が残ります。

西郷局は家康の側室の中では若死にであり、秀忠が11歳のときに駿府城で亡くなりました。

幼い秀忠の心に、深い影を落としたことでしょう。

目の不自由な人達が、お愛の死を悲しむ

愛郷の局が駿府城で亡くなったとき、東海道周辺の目の不自由な人達が、こぞって駿府城下に集まってきたと言います。

そして、自分たちを優しく庇護してくれたお愛の死を悼んだ、という話が伝わっています。

大姥局の死

大姥局は慶長18年(1613年)正月26日に亡くなりました。

この記録は「台徳院殿御実紀」巻21に記載されており、彼女の死が多くの人々に惜しまれたことが示されています。

特に、「この局、性正しく才器ありて、よく人を哀れみければ、みな人惜しむこと限りなし」との記述があり、彼女の人となりや、周囲からの評価が非常に高かったことが分かります。

また、大姥局の晩年に関するエピソードとして、秀忠が彼女の病床を訪、「何か願いごとがあるか」と尋ねた際、彼女は「殿様に御乳をふくめ進らせし」と言ったという話も伝わっています。

このことから、彼女が秀忠に対して深い愛情を持っていたことがうかがえます。

大姥局に関する史料は限られていますが、彼女が秀忠の乳母として大切な役割を果たし、その育成と教育において重要な存在であったことがうかがえます。

彼女の死も、秀忠にとっても大きな喪失であったことでしょう。

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於愛

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