流れを変える
「家康、江戸を建てる」は、門井慶喜氏の作品である(祥伝社)。この中には、全部で五つの話が収められている。
第一話は、「流れを変える」という題で、伊奈忠次・忠治(忠次次男)・そして忠克(忠治嫡男)の伊那家3代、さらに忠次の若くして死んだ長男、忠政の4人の男たちの物語。
秀吉から家康が関東移封を命じられたとき、居城をどこに建てるかという話になる。秀吉は、城を建てる場所について「小田原か、鎌倉か」と家康に問う。その問いに対し、家康は思いもかけない場所を答えた。
「江戸」
「は?」秀吉は、一瞬呆けたような言葉を発した。この頃の江戸は未開の地。確かに太田道灌が築いた城があったが、ただの田舎陣屋に過ぎない状態。それよりも、城の周りは低湿地。まともに歩けないような有様。
秀吉は、「まあ、それが徳川殿のご意思なら」と狐につままれたような顔をした。
「家康、江戸を建てる」より
ど田舎の湿地帯。家康は、この江戸をどうやって日本の都にしたのか。
家康は、江戸づくりを誰に任せたか
~「ここ(江戸)を儂は大阪にしたい。」
「家康、江戸を建てる」より
と家康は途方もないことを言った。
家臣たちは泣き笑いのような顔になった。
無限の富が集まり、数十万の市民が集まり、その当然の結果としてあらゆる最新技術や、文物が集まった豊臣政権の事実上の首都、世界に冠たる国際都市、そんな大阪を目指すなど、
「ジャコが鯨を目指すよりも、有り得ない。」
そんなふうに思ったのだろう。
が、ここでも本田忠勝が口火を切って、
「その殿様の夢、ぜひ拙者にお指図を」~
江戸建設について、本田忠勝をはじめ名だたる武将が「自分に任せろ」と名乗りを上げる。しかし、家康が指名したのは、思いもよらない人物伊奈忠次だった。
忠次は、家康の重臣たちから『臆病者』の小物と見られていた。当然、不信感を明らさまに家康に人選の不満を言いつのる。それでも、家康は意見を曲げず、伊奈忠次に江戸づくりを任せた。
臆病は時に、勇気よりも勇である。
「家康、江戸を建てる」より
家康は、そう言う。
臆病さを見込んで、忠次に任せるというのだ。
当時忠次41歳。忠次は、重臣たちに江戸をどう創るかを説明する。
「川の流れを変える」
当時利根川は江戸湾に流れ込み、周りを湿地にしていた。その川の流れそのものを変え、人の住める土地に変える計画を示したのだった。
忠次 の歩みは遅いが着実
忠次は、2年かけて関東平野をくまなく歩き、忍城管下の忍領を流れる「藍の川」から実際の仕事に入る。
決して急がず、確実を期す。時には回り道も辞さぬ。
「家康、江戸を建てる」より
これが伊奈流の仕事術だった。
「藍の川」の次は、利根川を東に曲げ渡良瀬川と合流させる工事に取りかかる。これにより、江戸の可住面積が大きく広がる。
しかし、この工事の完成は1622年。工事に携わってから約20年の年月が過ぎていた。
忠次は間にあわずに死ぬ。
後を継いだのは伊奈忠治。
忠治は、忠次の次男。長男忠政が若くして死んだための後継だった。
忠治は、工事の完成を亡父に報告するため息子と共に墓参りをする。
「これが御先代のお墓ですか。」
「家康、江戸を建てる」より
無邪気に呟きつつ、口を半開きにして石塔を見上げている。総髪の鬢のあたりに人差し指をくるくる巻き付けているのは、
「こいつも、伊奈の子か」
忠治は、どこか安堵するところがあった。
石塔は二本。左のそれは人の背丈よりも高いが、右のそれは少し低い。~
~「御先代はさぞ無念だったろうなあ。」
忠治は肩の雪を払って、半左衛門に語りかけた。
「~完成を見ること無く、あの世に旅立たれたのだからな。もっとも、享年61。十分生きられたことは間違いない。」~
~「そうして父上が引き継がれた。もしも父上の代で終わらなければ、私がさらに受け継ぎます。」
半左衛門はきっぱりと宣言した。この年で責任感が芽生えている。~
~「どうかな。」
「なぜです。」
「この事業は長男が引き継ぐとは限らんぞ。現に私も長男では無い。御先代の次男だ。」
「お兄い様は?」
~「私は、お会いしたことがないのです。どこにお住まいなのですか。」
「そこだよ。」
忠治は、右側の石塔を指さした。
亡くなった忠次と忠治の20年の歳月は、利根川の流れを変えるための初めの一歩に過ぎない。その一歩を進める間の20年で、忠次の長男「忠政」は家康の信用を失い、失意のうちに34歳の短い生涯を閉じていた。また、忠次も亡くなり、次男の忠治に代替わりしている。
先は長い。
忠治と半左衛門忠克の考え方の違い
当初の計画ではなく、現時点の成果を良しとして工事の終了を考える忠治。
終了報告するため、亡父伊奈忠次の墓を洗おうとする父の忠治に対し、子の半左衛門忠克は、『川が江戸湊ではなく鹿島灘に注ぐのでなければ工事は完成したとは言えない』、と父に反抗する。
忠治は、息子に対し、今のままで江戸の民を煩わせないので問題はすべて解決した。これ以上やると金と手間がかかりすぎるのだと諭そうとする。
このとき6歳の半左衛門忠克は、父の考えに納得できない。
世の中の変化
忠治の考えは、時代に即した合理的な判断だった。家康の関東入府から30年の時が経ち、日本社会は大きく変貌している。米を穫ることよりも、米を運ぶことの方が重要な世の中になっていたのだ。
『生産よりも流通』、社会の発展が一つ先に進んだ。よって、世の中が欲するのは、流通を支える水路の整備だった。そのことを忠治はよく知っていた。
工事は、中断された。
3代将軍家光の代 伊奈家親子の思い
忠治が50歳を迎えたころ、利根川を鹿島灘に注ぐ工事を完成させることを再び決意する。常陸と下総の境を流れる常陸川に赤堀川をぶつけて、鹿島灘に流し込む計画だ。利根川をそのまま常陸川とし、太平洋に注ぎ込ませる。
忠治は、29歳になった半左衛門忠克を自邸に呼ぶ。1645年8月、家康が秀吉に関東移封を命じられてから、実に55年後のことであった。
そのときからさらに9年。1654年、38歳の半左衛門忠克は工事を完成させた。
実に長い時が流れた。
振り返れば、半左衛門は複雑な感慨にとらわれた。
これは伊奈家三代、四人の男たちの総決算と言うべき事業だった。
祖父忠次が初めて関東平野の治水に手を付け、その長男である熊蔵は、志半ばで大阪で家康の信を失った。熊蔵の弟である父忠治は、ほとんど一官僚として世を送ったし、その後を継いでこの日を迎えた半左衛門は、彼自身の感覚では、父よりもむしろ、あの失敗者である父の兄、熊蔵の方に人間の質が近い気がする。天はどう裁きを下されるか。半左衛門はどこかに逃げ出したい衝動に駆られた。伊奈の血に自信が持てなかった。
「伊奈様」
「なんだ」
「伊奈様、御下知を」
~「よし、疎通しろ」~~「わー」と、歓声がこだました。
「家康、江戸を建てる」より
人足たちが肩をたたき合っている。
泣いている奴もいる。
~「やりました!」~
~「それより富田よ、後で鹿島へ行ってくれんか。」
「鹿島へ、何用で?」
「水を汲むのだ。河口でな。」
半左衛門は常陸川の遙かな河口を眺めやりながら、
「その水は、藍の川、渡良瀬川、利根川、常陸川、すべての水の入り交じったものじゃ。すべての工事の証のものじゃ。先祖の墓を洗いたい。」~
工事の完成を見ること無く、伊奈忠治は1年前に世を去っていた。半左衛門忠克は、今は3本になった伊奈家の墓の石塔をその水で洗いたかった。
「臆病でよいのです。」
伊奈家は堅実、かつ地味な仕事ぶりのためか今日、知名度が高くないが埼玉県や茨城県にその名が地名として残っている。
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