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大奥を整備した家光
慶長12年(1607)、江戸城本丸に大奥の建物が建った。
家光が将軍になった元和9年(1623)に、家光はお福を大奥女中の取り締まりの役に就けた。
職名は、「御年寄(おとしより)」
同時に、「大奥法度」を制定した。
これにより、表の絶対者「家光」と大奥の絶対者「春日の局(お福)」という構図が確立した。
なお、「春日の局」という称号は、寛永六年(1629)の後水尾天皇との謁見の際に与えられた。
日光東照宮を造る
家光は、秀忠の死後に大規模な日光東照宮造営に取り組んだ。
この工事は、寛永11年(1634)11月に始められ、寛永13年(1636)5月に完成している。
家光が没したのは、慶安4年(1651)4月20日に没した。寛永寺に葬られ、後に東照宮に葬られた。
まとめ 家光の通信簿
家光の時には、既に幕藩体制は出来上がってきた。
確かに「生まれながらの将軍」であったが、まったくストレスフリーで将軍の座に就いたわけではない。
特に、弟の国松(徳川忠長)に家督を奪われる危険もあった。
この危機を救ってくれたのは、祖父家康だった。
これにより、祖父家康を崇拝する家光は、日光東照宮の造営に着手することになる。
家光も、大名の改易を断行している。
さらに、大奥の制度化も家光の業績としてあげなければならない。
大奥のおかげで、歴代将軍の世継ぎが確保されていく。
徳川将軍家世襲にとって、大きな成果を上げることになる。
家光の評価
決断力 ー4
統率力 ー4
教 養 ー3
経済感覚ー3
構想力 ー3
小和田哲男氏の評価。
納得出来る評価だ。
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