家光は、二代将軍秀忠の次男。だが、長男は夭折しているので実質嫡男。だから、幼名は、松平・徳川家の跡取りに付けられる「竹千代」を名乗った。二歳下に国松の方が健康で聡明だったことから「一時は三代将軍を国松に」という動きがあった。焦る春日局は家康に直訴し、竹千代が三代目となることが確認された。元和9年(1623)の家光20歳の年に、二代秀忠から将軍職を譲られた。「生まれながらの将軍」家光の誕生であった。幕藩体制の基礎を築いた将軍として知られる。この3代将軍家光を評価し、通信簿を付けるとするとどうなるだろうか。
徳川家光ってどんな人【三代将軍、家光の通信簿】
竹千代と国松
徳川家光は、慶長9年(1604)7月17日、秀忠の次男として誕生した。
家光の上に、長丸(慶長6年・1601年生まれ)がいたが、家光が生まれる前に夭折してしまっていた。
だから、家光は実質上の長男として扱われた。
家光の母は、秀忠の正室のお江。
お江は、北近江の戦国大名浅井長政の娘。母は、信長の妹のお市。
つまり家光は体の中に、浅井家と織田家、そしてもちろん徳川家の血が流れるサラブレッド中のサラブレッドと言える。
代々、松平家・徳川家の嫡男として生まれた子には、竹千代という名が与えられる。
では、夭折してしまった長男には、なぜ竹千代ではなく、長丸という名が与えられたのか。
長丸という名は、側室の子など母親の身分が1ランク落ちる子に付けられる名だった。ということで、夭折した長丸の母親は、お江ではなかったということになる。
さて、実質的な長男竹千代が生まれた2年後に、家光と同じく、お江を母とする弟、国松が生まれた。
国松は、後に家光と三代将軍の座を争うことになる徳川忠長である。
お江は、竹千代より、弟の国松の方をかわいがっていた。
お江に頭の上がらない秀忠も、お江に従い、国松寄りだった。
確かに周りに与える印象としては、国松の方が、健康面でも聡明さでも優れて見えた。
竹千代は病気がちであり、行動に鈍さが目立った。
周りからすると「こんなのろまな子が、将軍になったらまずいでしょう」と映ったらしい。
家来たちは、
「弟君の国松様の方が、家督をお継ぎになるかもしれない」
と、噂し合った。
お福(春日の局)、動く
竹千代と国松の噂を聞いて、焦ったのが竹千代の乳母のお福(後の春日の局)だった。
お福は、本能寺の変で有名な明智光秀の重臣、斎藤利三の娘だった。
このお福が、自分が育てた竹千代が廃嫡されるのではないかと心配し、家康に直訴する。
お福の家康直訴について、従来は元和元年(1615)、竹千代12歳の時とされてきた。
竹千代は、母お江と、父秀忠に嫌われていることを気に病み、自殺しかけたという。
お福は、竹千代を抱き留め辛うじて自殺を止めることができた。
「なんとかしないといけない」
と、切羽詰まったお福が、家康に訴えたとされていた。
ところが、慶長17年(1612)に、家康がお江に宛てて送った訓戒状の存在が明らかになった。
この訓戒状には、はっきりと
「嫡男と、それ以外の男子は違う。弟の威勢が兄より強いのは、家の乱れの基」
と、ある。
この訓戒状により、もしお福(春日の局)の家康への直訴があったとしたら、1612年以前ということになる。
家康は、器量の劣る竹千代を、なぜ三代目に指名したのか
家康が、竹千代を三代目に指名したのは、「お福が懇願したから」という理由だったとは思えない。
真の理由は、何だったのだろうか。
戦国時代なら、家督は兄弟たちの中で一番優秀な子どもに譲るべきだろう。
だが、安定した世の中では違う。
安定した世の中では、「秩序の維持」が先決だと考えただろう。
戦国時代は、兄弟による跡継ぎ争いは当たり前だった。
家康は、それを考慮し、「力の有る者が後を継ぐのではなく、年齢順に上から家督を決めていった方が、世の中は安定する」と、考えた。
儒教の教えである、「長幼の序」という考え方だ。
この考え方が、徳川幕府の基本思想となる。(林家の朱子学)
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