惣船印として「日の丸」が設定されたのは、ペリー来航後
太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず
1853年(嘉永6年)7月8日、浦賀に、ペリー率いる米国の蒸気船が来港。そのときにペリーは、星の数31の星条旗を掲げていた。
対する幕府の代表は、彦根藩・川越藩・忍藩・会津藩、これらの藩は、それぞれの家紋を入れた幟を掲げた。
このときは、日本を示す旗が無かった。
同年の8月22日、今度は長崎にロシアのプチャーチンが同じく軍艦四隻で入港。
外国による危機が高まり、日本全国を不安が包んだ。
幕府もやっと重い腰を上げ1609年(慶長14年)から続いた「大船建造禁止令」を解く。
やがて、日本にも『大きな船』が出現する。そうなると困るのが、『どうやって、外国船と日本の船を区別するか』だ。
そこで、幕府は、『日本の船』の旗印、『御国惣船印(おくにそうふなじるし)』、日本の国の船ならどの船も掲げるべき印としての旗を決める必要性に迫られた。
最初は、「白地に黒の横棒」の印を入れる案
日本の国旗として『船に掲げる旗をどうするか』、で幕府の関係者で話合いが開かれた。その結果、1854年(嘉永7年)5月に、御国惣船印は、「白紺布交じりの吹貫(ふきぬき)」、帆印は、「白地中黒」案がまとまりかけた。
幕府船のみ帆印として「日の丸」使用
ただし、この段階では幕府の船のみ帆印として「日の丸」の幟を立てる案だった。
つまり、「日の丸」を使って良いのは、幕府だけにする案だった。
「白地中黒」に異を唱え、「日の丸」案を譲らなかった水戸の斉昭
「白地中黒」はもともと源氏の旗印。
日本の国旗としてはふさわしくござらん。
と当時、海防参与だった水戸の徳川斉昭が主張した。
そして、「日本国」の国旗としてふさわしいのは、
太陽に由来する「日の丸」こそ、この国の『御国惣船印』としてふさわしい。
と述べて、譲らなかった。
斉昭の主張には、薩摩藩主・島津斉彬の強い後押しもあった。
斉昭らの案に対し、幕府は「白地中黒」案に固執し、なかなか意見を変えない。しかし、1854年(嘉永7年)7月、ついに水戸斉昭らの「白地に日の丸」案、つまり「日の丸」で決着することになり、翌1855年(嘉永8年)に、日本国惣船印としての「日の丸」を掲げた最初の船が運航する。
★『日の丸ジャパン』は茨城から生まれた。
茨城県の知名度ランキングは、もうちょっと上でもいいんじゃないか!
そう思っちゃうんだよねえ。
「白地中黒」は、その後は逆に徳川の印として、幕末の幕府公用船の帆に、横に太い一本線を引いて用いられた。
また、現在でも名古屋の徳川美術館を初め、多くの徳川御三家にまつわる諸団体や施設の旗や幟に使用されている。
開国後は、幕府も「日の丸」を使用する必要性に迫られる
ペリーは一度目の来港の翌年、嘉永7(1854)年1月16日、今度は7隻の艦隊を率いて再び来航した。
艦隊に威圧された幕府は、この年の3月3日横浜村で、12条からなる日米和親条約(神奈川条約)を締結する。
開国後、幕府も諸藩や諸外国に対抗するため、洋式の帆船や軍艦の建造を進めることになった。このような状況下で、いつまでも「国旗」論争を繰り返してばかりではすまず、老中の阿部正弘により、「日の丸」を日本国の印として採用することが決定した。
最初に軍扇に日の丸を使った武将は誰か
江戸末期に『御国惣船印』として、「日の丸」が国の旗として使われる以前から「日の丸」は各所で使われていた。
とくに、戦のときに武将がもつ軍扇などに日の丸を描いたものは多い。この日の丸軍扇を使った武将として、最古の記録に残るのが前九年の役の時の安倍貞任の軍扇。
前九年の役とは、源頼朝の先祖である、源頼義・義家らが、奥羽の俘囚の長、安倍氏を滅ぼした戦い。
ちなみにこの安倍貞任は、亡くなられた安倍晋三前首相のご先祖だ。
2013年7月14日、岩手県北上市で演説された際、安倍晋三氏が自らの言葉で「奥州安倍氏が自分の先祖である」と話しておられた。
佐竹氏の旗印
さらに、安倍氏を滅ぼした側の源義光の子孫が常陸の国に入り、佐竹氏となるが、その佐竹氏の軍扇も金地の日の丸。
甲斐武田氏に残る 御旗(日の丸)が現存する最古の日の丸
さらに、佐竹氏と同じように源義光から分かれた武田氏に、現存する日本最古の日の丸が残されている。
この最古の日の丸は、武田氏の宝・「御旗と楯無しの鎧」の『御旗』がそれ。前九年の戦いの際、後冷泉天皇から源頼義に下賜るされたものとされる。
甲斐武田氏の祖も、実は茨城県が発祥。そこから甲斐へ移ったとされ、佐竹氏とは縁続きだ。
武田勝頼が1582年(天正10年)に天目山の戦いで敗れた際に雲峰寺に運び込まれ現存。
なぜ御旗は、佐竹ではなく武田が持っていたのか
源義光(新羅三郎)の長男は佐竹氏の祖【義業(よしなり)】、弟が武田氏の祖【義清(よしきよ)】。しかし、後冷泉天皇が下賜された御旗は、武田家に引き継がれた。
義業が婚姻した娘は、常陸大掾家の平氏の娘。当時は平氏の力に寄らざるを得なかったので、家宝が弟に引き継がれたのか?
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