信長の安土進出後の岐阜城
信長は、「天下布武」を目指し、1576(天正4)年、不破関を越えて近江(現在の滋賀県)の安土城へ移った。
自分が出た後の岐阜城は、嫡男信忠に任せた。
ところが、夢の実現まで、あと一歩と迫った1582(天正10)年、信長と信忠は京都本能寺において非業の死を遂げてしまう。本能寺の変である。
信長・信忠死後は、信忠の家臣で道三の息子の斎藤利堯(さいとう としたか)が一時岐阜城を奪う。
だが清洲会議により、岐阜城は信長の三男織田信孝(のぶたか)に与えられることとなる。
利堯はそれに逆らうことなく時勢を読んで、信孝の老臣となり城を明け渡たすことに同意した。
信孝はその後、秀吉と対立することとなるが、天才秀吉の前では赤子も同然、城を包囲され窮しきれずに城を去った。
この後、池田恒興の嫡男池田元助が城主となる。だが、「小牧・長久手の戦い」で恒興・元助父子が共に討ち死にしてしまう。
池田父子の戦死の後は、恒興の次男池田輝政が城主となった。
輝政は、落城続きの岐阜城の天守や櫓(やぐら)を造営し城を強固にした。
輝政は、後に姫路城にも移り、姫路城の修築も行っている。
岐阜城と姫路城、両名城の城主を務めた武将だった。
輝政の後の岐阜城主は、秀吉の甥で秀吉の姉の子である豊臣秀勝であった。
そして、最後の岐阜城主は、清洲会議で秀吉の肩に載っていた、あの三法師。
三法師が元服して織田秀信と名乗り、岐阜城最後の城主となった。
秀吉の死後、豊臣と徳川が戦うことになったとき、関ヶ原の戦いの前哨戦として岐阜城は東軍の福島正則の猛攻を受けた。
織田秀信は岐阜城城内に立てこもったが、家中の意思をまとめることができず、わずか一日で敗れ、城を開城した。
徳川家康はこの地に新しく平城の加納城を築き、岐阜城を廃城とした。
蘇った岐阜城
廃城になってから約300年の後、明治時代後期、岐阜城が復元される。
日本史上初の城跡に造られた観光用模擬天守であった。
ただし、このときの模擬天守は太平洋戦争中に失火で焼失している。
現在の岐阜城は昭和31年(1956年)に鉄筋コンクリートを使って復元された復興天守であるが、国の史跡に指定されている。
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