織田信長による「岐阜」改名
『信長公記』(太田牛一)によるば、織田信長が美濃国を攻め落としたときに、稲葉山の城下の「井の口」を岐阜と改めたとしている。
「岐阜」と命名するに当たって、案を出したのは政秀寺の僧侶沢彦宗恩(たくげんそうおん)であったという。
「岐阜」の「岐」は、「岐山」の「岐」
「岐山」とは、殷が周へ王朝交代するときに、鳳凰が舞い降りた山で、周の文王はここから国づくりを始めた。
また「岐阜」の「阜」は、「曲阜」の「阜」。
「曲阜」とは、学問の祖である孔子が生まれた集落があった魯国の首府であり、儒学発祥の地でもある。
沢彦和尚は「岐山」の「岐」と「曲阜」の「阜」を併せ、『太平と学問の地であれ』との意味を込め、信長にその「案」を示し、信長はそれを採用したとされる。
岐阜は日本の東西の境目。
東山道の「不破関(ふわのせき)」(関ケ原町)にも近く、京都へ進出するために絶好の地であった。
信長の岐阜統治期:天下布武
信長は、岐阜城を得た永禄10年(1567)頃から「天下布武」の印章を使いだ出した。
信長の天下統一への野心の証拠とも、『魔王信長が自らの「武」を天下にとどろかせようという意思表示』とも言われてきた。
だが、そもそも「天下布武」の「武」とは、マイナスの言葉ではないのだった。
「天下布武」の言葉を考えて信長に示したのも、「岐阜」を考えたと同じ、沢彦(たくげん)禅師だった。
出典は古代中国の『春秋左氏伝』。
そこに「武有七徳」とある。
「武」には七つの徳性があると説く。
1「暴を禁じる」
2「兵をやめる」
3「大を保つ」(天下を保つ)
4「功を定める」
5「民を安んじる」
6「衆を和す」
7「財を豊かにする」
という徳性。
信長は、『「暴力」を天下に広める』とか、『「暴力」で天下を治める』と言っているのではない。
信長は、『「「暴力を用いずに済む世を創る」「兵を持ちいずに住む世を創る」「平和な世を保つ」「功績が正しく評価される世を実現する」「民が安らかに暮らせる世を創る」「人々が争わずに済む世を実現する」「人々の財が豊かになる世を創る」』と言っている。
つまり、信長の『天下布武』とは、『人々が暮らしやすい世を天下に実現する』という意思表示だった。
この信長の決意表明こそが、『岐阜』への改名であり『天下布武』の朱印の使用だったと言うことを思いながら、岐阜城を訪れたい。
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