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深作安文は「水戸学」を『皇室中心の国民道徳論』と捉えた

深作安文氏が考える「水戸学とは」
 水戸学とは『皇室中心の国民道徳論』である、と述べています。
 

目次

深作安文氏 人物紹介

深作氏は、19世紀の後半から20世紀の中盤に活躍された。
東京帝大を卒業し母校の教授。退官後は東京商大(現一橋大)講師を務める。水戸学を研究し,国民道徳論を提唱。昭和3712988歳で死去。茨城県出身。著作に「国民道徳要義」などあり。

深作氏が示す水戸学とは

この本は、1934年の深作氏の講演内容を現代人にもわかり安いように書き改められています。
講演冒頭で(1934年当時の)日本人は、「日本について、十分な認識を有していない」と指摘します。日本人に「祖国の観念が徹底していない」という指摘でした。
1934年と言えば、国体論が華やかな時代だと思っていたのですが、深作氏からすると、当時の日本人には、「日本という国は、どのような国体をもつ国なのか分かっていない」と見えたようです。
このような聴衆に語ります。

「水戸学」とはどういう学問か

 『「水戸学」は科学という意味ではない。』
 深作氏は、このように指摘します。
 水戸学は、歴史学などの「社会科学ではない」ということでしょうか。それは無いと思いますので、
 水戸学は、単純な社会科学という枠には収まらないという意味だと理解しました。
 

水戸学とは『皇室中心の国民道徳論』

 会沢正志斎は新論のなかで、「国家の中心は皇室である」と唱えました。この影響で、尊王攘夷論を唱える人々が輩出されます。そして維新の大業につながりました。維新が実現したのは「水戸学」によると言えます。

 また、栗田寛先生が、水戸学を「天朝正学」と呼んだことを上げ、水戸学を『皇室中心の国民道徳論』であると述べておられます。

深作氏は、中期水戸学を重視する

 水戸学は、水戸光圀の時代を前期水戸学とし、斉昭の時代を後期水戸学とします。
 光圀が1701年に亡くなり、その後大日本史の編纂が下火となります。斉昭が水戸藩の第9代藩主となったのが1832年です。斉昭の出現によって大日本史編纂が新しい時代(「志」と「表」の編纂)期に入ります。光圀と斉昭の間の時期が、水戸学の停滞期と一般的に言われます。しかし、深作氏は、この停滞期と言われる『治保公を中心にする時代期』を中期水戸学の時代として重視しておられます。

 治保(はるもり)は、水戸藩第6代藩主(文公)です。
 この時期に活躍したのが立原翠軒や藤田幽谷です。
 立原翠軒は、財政的に苦しかった水戸藩の事情を考慮する常識派の学者でした。対して翠軒の弟子の立場であった幽谷は、理想を追求する人でした。
 根本的な思想が違う二人でしたから、やがて対立します。 

中期水戸学の時代とは
● 自分の代で「大日本史」編纂を完成させようという意欲に燃える第6代藩主治保を中心とする時代。
● 内部対立の芽がはぐくまれた時代。
 ・財政難などの現実的な視野から、「大日本史」の編纂中止を主張する翠軒
 ・『「紀」「伝」』に加え『「志」「表」』の編纂事業続行を主張し、理想追究を図る幽谷

深作氏が捉える「水戸学の三大特筆」

  水戸学の三大特筆とは、

●「神功皇后を天皇として扱うか」という問題
●「大友皇子を天皇として扱うか」という問題
●「南朝と北朝どちらが正統か」という問題

を指します。

「南朝と北朝どちらが正統か」という問題について

 三大特筆については、別のブログでも取り上げました。
 今回は、特に「南朝と北朝どちらが正統か」という問題について深作氏がどのように解説しているかを見ていきます。

 南朝を正統とし、北朝を閏統(じゅんとう)と断定したことです。
 南北朝時代は日本にとって非常に危険な時代でした。天皇が二人、年号が二つ、都が二つで、日本の国が二つに分裂するところであったのです。当時、実力から言えば北朝の方が勝っていて、南朝はいわゆる「南風競わず」で振るいませんでした。ですから、単に自己の利益のみを考えている者は北朝に味方したのです。ところが楠木、新田、北畠、名和、菊池などの諸氏は南朝のために尽力しました。
 このとき三種の神器を所有していたのは南朝です。天祖が皇孫に神器を授けられたのは、こんなときに備えてのことだったのでしょう。ですから皇統の正閏を判断するためには、これを用いることになるのです。それが光圀公の考えでした。すなわち、ここでも大義名分に照らして朝廷を評価したのです。
 当時「現在の朝廷は北朝の血統であるから、北朝を閏統とするのは畏れ多いことである」という俗論がありました。ところが光圀公は、そのような俗論には心引かれることなく、断固として神器のあるところが正統、それのないところは閏統であるとされたのです。ご家来の学者の中にもこれを諫める者が出てきましたが、彼はそれに耳を貸さず、「これだけは自分に任せてくれ。自分は大義名分のため、筆を枉げる(まげる)ことはとても出来ない」と言って、あくまでも所信を貫かれたのです。(「徳川光圀・斉昭と水戸学の思想」より)

 「三種の神器」をもっている方が正統だという点が、光圀公の主訴だと思います。深作氏もこの点こそ主張しています。しかし私の興味は、実はその先です。

 「草薙剣は、安徳天皇とともに海に沈んでしまったのではないか」
 「後醍醐天皇の手元にあるのはレプリカなのではないか」

 この点については、光圀公も、深作氏も語ってくれていません。
 後醍醐天皇の手元にあったのが本物の神器であるという視点からすべてが語られています。
 この点をだれも疑問に思わなかったのでしょうか。それとも、すでに語り尽くされたテーマなのでしょうか。これについては、次の課題とします。

水戸学の根本精神「大義名分」

 「大義名分」について、次のように述べておられます。

水戸学の根本精神は大義名分を重んじることです。「義」は「宜」であると解釈されます。義というものは、父子の間、夫婦の間、兄弟の間など、人間が二人以上いるところには必ず存在します。この義を忘れるから、様々な紛争が起こるのです。とりわけ君臣の間の義が最も大切なものですから大義というわけです。
 名分というのは、物の名義、分際という意味で、例えば教師は教師という名分があり、主人には主人、女中には女中という名分があります。

 義とは宜で、名分に「ふさわしい状態」を指すようです。

 私は教師でしたので、教師という名に「ふさわしい在り方」を義というのだと思います。
 では、その名にふさわしい在り方とはどのような在り方か、という別のハテナが生まれますが、このハテナ追究も別の機会としましょう。

 深作氏の上記の説明で『大義名分』とは何かがある程度分かります。そして、水戸学は、「大義名分」の在り方の追究こそが最大関心事だったことも分かりました。

改めへ深作氏が考える水戸学とは

 深作氏は、結論として水戸学とは、

水戸学は『皇室中心の国民道徳論』である。

 と語っておられました。

 水戸学、つまり『皇室中心に代表される「大義名分」に基づく道徳論』を私なりに意訳させていただくとすれば
「らしくあれ」という道徳観
 

 現代日本では、「男は男らしくあれ」「女は女らしくあれ」「教師は教師らしくあれ」などと言ったら、人権団体からクレームが来そうです。
 しかし、20世紀半ばに生まれた私には、この道徳観は実はしっくりきます。
 だからといって、現代教育では道徳を押しつけたりはしません。
 どうするかというと、結論を個々に考えさせ、自分の生き方の一助となるように指導します。

 では最後に、社会科教師らしく。

 「らしくあれ」という道徳観に、あなたは賛成しますか。

 「結論は、あなた自身で考えて出してください。」
 と教師らしい問いを発して、本日のブログを終了します。

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