寅子たちの時代、女婿の法的な地位は低いものでした。
また女性が法律を学ぶという行為は、どうやら「異質である」と、人々の目には映ったようです。
そんな時代背景の中で、寅子は、どこで法律を学んだのでしょう。女性が法律を学ぶ場を最初に創った大学はどこなのでしょうか。
また、実際の寅子(嘉子)の、成績はどの程度だったのでしょうか。
女性が法律を学ぶ場を 日本で最初に創った大学は どこ?
女性が法律を学ぶ場を日本で最初に開いた大学は、明治大学でした。
明治大学は 明治4年(1929年)、各大学に先立って女性が法律を学ぶ場として「専門部女子部」を開校しました。
そして、「専門部女子部」を卒業すれば、明治大学法学部の本科に編入学することができるという制度を確立しました。
明治大学やりますなあ。
女性が、法律を学ぶ事への 違和感
寅子のモデル三淵嘉子さんが、明治大学専門部女子部への進学を志し、高等女学校に卒業証書をもらいに行ったとき、高校の先生方はどんな反応をしたでしょうか。
三淵嘉子さんが先生に進学先を告げると、担任の女性教師は
『卒倒しそうな程に驚いていた。』
とのことです。
「法律を勉強なさるのですか。それは、おやめになった方がよろしいですよ。お嫁のもらい手がありませんよ。」
そう言って、止めたと言います。
さらに、
「お父さんの了解は、得ているのですか。」
と続けられたとか……。
この時の女性教師の発言は、
間違いなくは嘉子さんの未来を思っての発言だったはずです。
ですが、現代社会では『不適切にも程がある』ということになってしまうかもしれません。
「お嫁に行かなければならないという価値観を押しつけるのですか。」
「親が、娘の人生を決めるということですか。」
と、クレームの声が上がりそうです。
明治大学は、なぜ女子部を開く決断をしたのか
では、明治大学は、なぜ他大学に先立って女子部を開校する決断をしたのでしょうか。
それは、東京帝国大学教授で明治大学でも教鞭を執っていた穗積重遠(小林薫さん演じる穗積重親さんのモデル)さんと、弁護士の松本重敏さんが明治大学にいたことが大きな理由となったようです。
穗積さんは、「家族法の父」と言われる人で、女性の権利擁護を主張し、女性の社会進出を後押ししていた人物でした。
また、松本弁護士は、明治大学出身の弁護士さんでした。
そして、この二人とも弁護士法改正委員会の委員を務めていました。
女性擁護、弁護士法の改正を推し進めようとする二人が大学にいたことで、明治大学は他大学に先駆けて「女子部」開設を決断しました。
明治大学女子部には、一流の講師陣が集まった
穗積さんの情熱で、明治大学専門部女子部の法科には、当時一流といわれる講師陣が集まりました。
民事訴訟法は細野長良(のち大審院長)、
刑事訴訟法は草野豹一郎(のち大審院部長)、
行政法は沢田竹治郎(行政裁判所評定官、戦後最高裁判事)、
相続法は島田鉄吉(元大審院部長)などでした。
穂積さんも自ら民法の教鞭を執りました。
さらに学長の横田秀雄(元大審院長)さんも、自ら授業を行っています。
穗積先生まで、教鞭を執るのでは、大学長も教壇に立つしかありません。
このような事実から、大学側の力の入れ具合がわかります。
講師陣の特筆すべき特徴として、
「実務家とその出身者を数多く集めていている」、という点が挙げられます。
現場で本当に活躍できる女性法律家の育成を、真剣に目指していたことがうかがえます。
学校には、制服があった
現在の大学生は、私服が当たり前です。
「寅に翼」の寅子は、和服で学校に通っていますが、実は明治大学「専門部女子部」には制服がありました。
紺色のスーツに白のブラウス
そして、蝶ネクタイ。
本当は、男子生徒と同じように角帽も制服だったのですが、角帽を頭に乗せる女子学生は少なかったようです。
史実を見ると、「寅に翼」の男装の女生徒の「山田よね」の服装の方が実際に近いような気がします。
嘉子は、当時の女子部の様子を何と言っていたか
嘉子自身は、当時の女子部について、次のように述べていました。
女子部全体で百人あまりという専門学校と言うよりは、塾と呼ぶのがふさわしいような小さな学校でした。
生徒も女性解放の行きに燃える女闘士やら、私のyおうに世間知らずの女学生など、年齢も十代から四十歳を越える年配の女性まで誠にバラエティーに富んでいました。ともかく普通の女子専門学校にはない厳しい、しかも大人の雰囲気がありました。
明治大学入学後のことですが、知人に出会ったとき、今どうしているかときかれたことがあります。明治大学で法律を勉強していると答えると、途端に皆一様に驚きあきれ、何という変わり者かという表情をするのです。
そして、『こわいなあ』とつぶやく人すら居ました。その言葉を聞いたときは、こちらが参ってしまいました。
また、嘉子の弟さんの泰夫さんも、次のように言っています。
「家の外を歩いていた男子学生が、『ここの家には、女だてらに法律を勉強している女子がいるんだってな』と、噂しながら歩いていたのを聞いたことがある……」
と言うのでした。
明治大学女子部は、嘉子の学年で何名の生徒を受け入れ、何名を卒業させたのか
このような逆風の中で明治大学専門部女子部は立ち上げられました。
当初、大学側は300人程度を受け入れる予定でした。
ですが嘉子の代、実際に入学した人数は約50名でした。
しかも、途中で結婚などによって退学する学生が相次ぎ、卒業時には20名程度に減っていたと言います。
高い理想をもって、女性であっても法律を学ぼうと志しても、
道半ばで、「縁談」の話が舞い込むと、家族のことも考え、学問の道を断念し「結婚」を選ぶ女性がまだまだ多かったようです。
次から次へと仲間が減っていく中で、嘉子が何を考えどう振る舞うか。
このあたりを「寅と翼」では、どう描くかが見物ですね。
嘉子のあだ名は、「ムッシュ」
決して学びの環境としては良くないなか、嘉子は女子部の中で人気者でした。
仲間からは、「ムッシュ」と呼ばれていたそうです。
どうして「ムッシュ」と呼ばれていたのでしょう。
男っぽい性格のためかな、と予想したのですが、
どうやら、違ったようです。
当時結婚前の名前が「武藤嘉子」だったので、その武藤から「ムッシュ」になったのだとか。
嘉子、女子部を卒業し本科に進学 本科でも優秀な成績を修める
昭和10年(1935年)、嘉子は女子部を卒業し、明治大学法学部の本科へ進学しました。
ここからは、男子生徒と席を交えて学ぶことになります。
ですが、50人から20人程度にまで減った女子部出身の女学生たちは、教室の前の方に固まって、男子生徒と交わることを極力避けていたと言います。
この学生同士の男女の確執も、「寅と翼」のお話の中で一つの山ばとなるのでしょうね。
もしかすると、この確執の中で淡い恋、嘉子の二番目の夫との出会いが描かれるのかもしれません。
嘉子は、この本科でも努力を重ね、卒業時には、男女合わせて成績がトップでした。
卒業式では、学生の総代として学長から卒業証書を受け取ったと言います。
嘉子さん、本当に優秀な方なのですね。
寅に翼では、寅子が入学するときに松山ケンイチさん扮する桂場等一郎に、「女が法律を学ぶなんて止めろ」と言われていました。
それに対し、寅子のお母さんの「猪爪はる」さんが、「うちの娘に何言いやがる」風のたんかを切っていました。
史実の嘉子さんが、明治大学法学部本科をトップ成績で卒業してしまうのですから、このあたりのネタの回収も描かれるのかもしれません。
もし、描かれるとしたら痛快でしょうね。
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