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初の女性弁護士:三淵嘉子(寅子)・久米愛(山田よね)・中田正子(桜川涼子)

目次

「虎に翼」のお嬢様キャラ 桜川涼子のモデル:中田正子

中田正子は、虎に翼の中で華族のお嬢様「桜川涼子」として登場しています。
演じているのは、桜井ユキさん。

桜川涼子は、桜川男爵家の一人娘という設定です。その気品溢れる容姿から雑誌などにも度々取り上げられている人物として描かれています。

虎に翼より

涼子のモデル中田正子は、日本大学の選科から久米愛と同じく弁護士を目指すため、明治大学専門部女子部に編入しています。

生まれは、明治43年(1910年)。
東京都文京区生まれ。
大正3年(1914年)生まれの三淵嘉子(寅子)よりも、4つ年上でした。

父親は、華族ではなく、田中國次郎という職業軍人さん。
語学堪能で、シェイクスピアを原書で読むほどの知識人でした。

母親は、当時の日本の標準的女性だったとのことです。
家族思いの優しい女性だったようです。

田中正子さんが、法律の道を志したのは、彼女の『父と母の在り方に疑問』
をもったからなのかもしれません。

父と母の関係を見ていて、
「女性が社会に出て活躍できる世の中」
にならなければいけないのでは…、
という思いが芽生えたのでは亡いでしょうか。

頭脳明晰、運動神経抜群のお嬢様

六法全書を開く正子・鳥取市歴史博物館

寅と翼の桜井涼子お嬢様は、容姿端麗で楚々とした大和撫子を絵に描いたような方です。

ですが、モデルの中田正子さんは、聡明なだけではなく、抜群の運動神経の持ち主でした。
なんと、バスケの選手でした。

東京府立第二高等女学校時代に、
アメリカが主催するバスケットボールフリースロー大会に参加します。

一人60投して、何投ゴールできるかを競う大会でした。

彼女は、60投中54回ゴールを決めます。
チームとしても、アメリカのームを下し、チーム優勝したとのことです。

活発なお嬢さんだったのですね。

中田正子の学歴

中田正子も、久米愛と同じように法律家を志すまでに、いくつかの学校を渡り歩いています。

まずは、女子経済専門学校に入学
校長は新渡戸稲造
政治学、吉野作造
民法学、我妻栄
というビックネームによる堂々たる教授陣でした。

ここでの学びで、中田正子は
『これからの女性には、経済的自立が必要だ』
と痛感したと言います。

さらに、昭和6年(1931年)
『もっと法律を学びたい』と思い
日本大学法学部に入学しました。

ただし、当時女性が正式に大学に入学できなかったため選科生という扱いでした。
このあたりにも、当時の女性への理不尽が現れています。

日本大学には、3年間在籍しています。

その後、明治大学専門部女子部で1年間学び、その後明治大学法学部の本科生となりました。

この学歴を見ても
『女性最初の、弁護士になってやる』
という、すさまじい思いを感じます。

三人の中でいち早く、資格試験筆記試験に合格 

そしていよいよ、昭和11年(1936年)に、弁護士法が改正され、女性にも『弁護士の道』が開かれました。

翌、昭和12年(1937年)、彼女は他の二人よりいち早く筆記試験合格します。
女性弁護士第一号の誕生か、と思われたのですが、
なんと、続く『口述試験で不合格』という結果になってしまいます。

口頭試験で、彼女のできは良かったようでなのです。
それなのに、結果は不合格…。
この理不尽さ。
しかも、法律の世界でこの状態…。

中田正子の結婚

中田正子が理不尽な不合格になった翌年、昭和13年(1938年)に、中田正子・久米愛・三淵嘉子の3人が合格します。
日本の世の中の、一つの転換点だったと言えます。

昭和14年(1939年)弁護士試補(弁護士の見習い)になります。
そしてこの年、中田正子は結婚しました。

お相手は、中田吉雄さん。
京大を卒業し、参議院議員となった人物でした。

弁護士開業

昭和15年(1940年)、中田正子は、弁護士として開業しました。
主に、離婚訴訟に力を入れていたようです。

また、主婦の友で、法律相談を行いこれが人気となりました。

雑誌で、読者の相談に応じるのは、時間を使う割にお金にはならなかったでしょう。
ですが、彼女は
『女性を守りたい一心』
で、相談を続けたと言います。

鳥取へ

昭和20年(1945年)4月、夫が肺結核を患ったことをきっかけに、また戦禍を避けるために鳥取県に疎開します。
そして、戦争が終わり、夫が国会議員となって東京へ戻っても、彼女はそのまま鳥取に残りました。

昭和26年(1951年)に、女児出産を出産し、お母さんになりました。

鳥取で活動を続けたまま、
昭和44年(1969年)、鳥取県弁護士会会長となりました。
・史上初の女性会長です。

女らしく、男のくせに とは言わないお母さん

娘さんに続いて、男の子も生まれました。
彼女は、良きお母さんでもありました。

彼女の子育てにおいて、
「女らしくしなさいね」、とか「男のくせに」という言葉は、ただの一度も発せられなかったと言います。
中田正子らしい逸話だと感じました。

彼女は、公的にも『男女雇用機会均等法』の実現に尽力しています。

ただし、『男性に対抗しようと考えたことは一度もない』
と言います。

『対抗』という意識は、『男女は別だ』という意識の裏返しなのですね。

中田正子の死

中田正子は、「千と千尋が金熊賞を受賞した年」、「ユーロが流通介した年」である平成14年(2002年)、鳥取市内の病院で永眠されました。

死因は、心不全でした。
享年91歳の人生でした。

在職中には鳥取県弁護士会会長、日本弁護士連合会理事などの要職を歴任し、藍綬褒章、勲四等瑞宝章などを受章するなどの功績を残しています。

pamph.pdf (meiji.ac.jp)

日本初の女性弁護士の一人、久米愛さんの講演から

「世界人口の51%が女性であるのに、この51%が社会の開発への参加からいつも取り残されているということは、人類にとり大きな損失である。
(中略)平等とは、計画決定の段階に、女が男と同等の資格で参加することである。
政治・社会や教育面での計画決定への参加である。
男は幼児のときから社会に出て計画・決定に加わるという教育と訓練を受ける。
(中略)女性は能力がないのではなく開発され訓練されていないということである

(昭和51年東村山市での講演より)

次章は、『3人の合格』が明治大学・そして時代にどのような意義をもたらしたか…。

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