上杉禅秀の乱後の室町幕府と鎌倉府
◯ 嫡子が途絶えた佐竹氏の跡目争い
◯上杉禅秀の乱
◯公方と将軍の戦い
◯常陸に二人の守護
嫡子が途絶えた佐竹氏の後継争い
・13代義盛が嫡子を定めず死去する。
・佐竹派が二派に割れる。本流により管領上杉憲定の子を
養嗣子として迎え、14代義憲誕生
・山入氏など庶流家の本家への反発
上杉禅秀の乱
・4代将軍義持派と、前管領上杉氏憲(禅秀)の戦い
:公方持氏 対 足利満隆(持氏叔父)
:上杉憲基(山内) 対 上杉禅秀(犬懸)
:将軍義持 対 将軍弟 義嗣
:佐竹義憲 対 山入与義ら(京都御扶持衆)
応永23年(1416年)10月に起こった上杉禅秀の乱は、翌年(1417年)正月の禅秀(氏憲)の自刃により、鎌倉公方持氏の勝利で終わりました。
しかし、禅秀の乱後も、公方持氏は自分に逆らい叛逆した京都御扶持衆の山入氏などを、厳しく罰することができずにいます。室町幕府の圧力があったからです。
バックに幕府がついている自分達に強く出れない鎌倉の状況を見て、山入氏などの京都御扶持衆たちは、再度鎌倉公方に対して反旗をひるがえします。
山入与義は、同じ佐竹庶子家の額田氏や小栗氏を焚き付け、またしても本家の義憲を襲わせます。このような山入氏などの動きを見て、流石に公方持氏は堪忍袋の尾が切れます。
公方と将軍の争い
しつこい山入与義の動きに怒った公方持氏は、応永29年(1422)に鎌倉の与義の屋敷を襲い、与義を自害させてしまいました。
これは、公方持氏のあからさまな反幕府行動です。
将軍義持 山入氏に防戦命令を発する
公方持氏は、さらに山入祐義(与義嫡男)・大掾満幹や小栗満重らを討伐するため、自ら出陣しました。このようにあからさまに動けば、今度は将軍が怒るはずです。
当然、将軍義持は、関東の諸将(主に京都御扶持衆)を集め、公方持氏と戦うことを命じます。
特に山入祐義(与義の嫡子)には、常陸守護を任じ、「防戦に努めよ」という御教書(命令書)を与えました。
この結果、常陸には佐竹本家の佐竹義憲と佐竹庶流の山入祐義の二人の守護が存在するという、異常事態となってしまいました。
しかし、将軍義持と公方持氏の和睦は、政治的なもので確執は根強く残ったままでした。ちょっとでも均衡が崩れれば、幕府と鎌倉の戦いはすぐにでも再燃する状態です。
将軍の態度に驚いた公方持氏
「将軍はここまでやるのか」
公方持氏は、将軍の強硬な態度に大いに驚きます。
公方持氏は、応永31年(1424)公方と幕府の融和を図ることを主張する関東管領上杉憲実の献言を聞き入れ、将軍への忠誠を誓います。
公方持氏の忠誠宣言により、一応公方と将軍の争いは収まります。
二人の守護が常陸国を半分ずつ治める
公方と将軍の争いが収まったことで、常陸の国は、公方持氏方の佐竹宗家義憲と、将軍義持方の佐竹庶子家山内祐義の二人の守護が、常陸を半分ずつ守護するということになります。
二人とも、鎌倉府に守護として出仕することになりました。
常陸に二人の守護がいる、という状態は当然ながら極度な緊張状態が続いているということです。
公方と将軍の手打ちは、実に微妙な綱渡り状態で、ほんのちょっとでも風が吹けば、崩れてしまいます。
永享の乱と佐竹一族
公方と将軍の綱渡りの和睦状態が崩れる時が来ました。あの正長の土一揆が起こった年、正長元年(1428)の正月、将軍義持が43歳で死去したことがきっかけでした。義持の次の将軍は、なんとくじ引きで決められました。結果は、義持の弟でが選ばれました。5代将軍義教の誕生です。
現代人が、「くじ引きで将軍を決めた」と聞くと、『なんといい加減な』と感じますが、当時くじ引きは、神聖な神のお告げです。「人の力で決められない時は、神に頼る」ということで「いい加減」というわけではなかったわけです。
鎌倉幕府の将軍になれなかった公方持氏 大いに怒る
ところが、このくじ引きの結果に大いに怒った人物がいます。鎌倉公方持氏です。実は、持氏は亡くなった義持の養子になっていたのです。そして、義持が死去した際には、持氏が将軍となるという約束が出来上がっていました。公方持氏が、何とか将軍義持に従っていたのは、この約束もあったからでしょう。
将軍義持の死後、この約束が守られず、義教が新将軍となってしまったわけです。持氏が怒るのも分かります。これによって、綱渡り状態の鎌倉と京、公方と将軍の均衡は崩れます。
公方持氏 京都御扶持衆の大掾満幹を滅ぼす
幕府に対し、叛意を募らせていく公方持氏は、義教が将軍になった永享元年(1429)の12月に鎌倉で幕府派の大掾満幹を襲わせ、満幹とその息子を殺しました。
さらに幕府方の山入一族の依上宗義(よりがみむねよし)の所領を奪い、常陸太田の依上保を結城氏朝に与えてしまいます。このように京都御扶持衆への圧迫を強めていきました。
将軍義教の反撃
公方持氏のこのような動きに対し、将軍義教も黙っていません。永享4年(1432)に、諸将を引き連れ富士山見学と称して、駿河まで出てきました。公方持氏への脅しです。
将軍義教の動きを見て、公方と公方を支えてきた関東管領上杉憲実の間に亀裂が入りました。憲実は、公方と将軍は融和を図るべき、という意見でした。開戦論者の公方持氏と意見が異なります。この違憲の相違が、公方と管領の関係に緊張状態を生み出しました。
永享の乱勃発
永享10年(1438)8月、持氏は、信濃討伐の動きを見せます。「将軍が嫌がることはやめなさい」と献言し続けてきた管領憲実も、「これ以上言えば自分の身が危ない」と感じ、領国の上野に逃げてしまいます。
こうして、公方持氏と管領憲実の仲は決裂しました。
公方持氏の信濃攻めに対し、将軍義教は奥州・関東・信濃・駿河諸国の武将に鎌倉府討伐を命じました。さらに、上野に逃げていた管領上杉憲実も、兵を率いて南下しだします。この公方と室町幕府将軍の武力衝突が永享の乱です。
幕府軍と管領軍の両方に攻められた公方持氏は、さらに鎌倉留守居役の三浦時高にも裏切られ、最終的に永安寺で自害して乱は終わりました。永享11年(1439)2月のことでした。
初代基氏から、約90年続いた鎌倉府もここで一度終わりました。
永享の乱に佐竹宗家の義憲がどのように関わったのかについて、佐武家譜には明記されていません。
しかし、永享の乱の前年の永享9年(1437)に、佐竹義憲は、持氏によって隠居させられています。このことから、公方と佐武宗家は微妙な関係にあったのではないかと予想できます。
公方持氏が死んだ1439年には、佐武宗家は、15代義俊(よしとし)の代となっていました。
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