太田道灌とは、どのような武将か
太田道灌と言えば、江戸城を作った人。生きた時期は戦国時代の初期の15世紀。享徳の乱などで活躍した武将として名高い。
先日小・中学生を一緒に指導している高校生に、「太田道灌を知っているかい?」と聞いてみると「全く知らない。始めて聞いた名前だ」と言う。
我々のような60代だと、一度や二度は聞いたことがある武将なのだが、若者には馴染みが無いようだ。しかし、道灌は、城づくりの名手、また「足軽軍法」など優れた軍略家として有名な武将であり、私は好きな武将の一人だ。
道灌は、1450年代から1480年代にかけて争われた享徳の乱(鎌倉公方と関東管領の戦い、さらに管領家内の内紛など、一言で言い表せない複雑に絡み合う28年に及ぶ乱)でめざましい戦果を挙げた。しかし、その乱で自分の甥である長尾景春をかばいつつも、撃破した武将。
この優れた武将である太田道灌は「悲劇の武将」と言われる。どうして「悲劇の武将」と言われるのだろう。
道灌の人柄を一言で表現すると 文武不岐の武将
道灌が江戸城に招いた僧に万里集九という人物がいる。この万里が道灌の人柄について次のように語っている(『梅花無尽蔵』)
道灌はふだんから 文学・学問にこころがけ、戦陣において法を学び、和らいだ穏やかな風貌で、物事の善悪を見分ける心を持っていた。名誉や節度を重んじて官職を気にせず、文も武も備え、百姓もその徳を称えた~
『梅花無尽蔵』口語訳
これは、水戸学の根本思想の一つ「文武不岐(文武わかたず)」の考え方そのもの。太田道灌は水戸学の理想のような人物だったと言える。
さらに、万里集九は、道灌の死後に
『山の中では富士山を仰ぎ見ることができ、人の中では太田道灌のような優れた方にお会いすることができた、と言ったという。
道灌は、主人の扇谷上杉定正に殺された
道灌は、扇谷上杉家の家宰という立場だった。家宰とは、『家長に代わって家政を取りしきる職責』のこと。つまり、扇谷上杉家を実質的に取り仕切るナンバー2。
道灌が生きた時代は15世紀の後半に当たり、世の中は享徳の乱などを経て戦国時代へと突入していく狭間の時代だ。
道灌をどう理解するかは、とりもなおさず関東における社会の転換期をどう理解するかということに等しい。
と言われる。道灌は総合的な学習などで学校現場でも取り上げたい人物の一人である。
道灌の 氏素性
道灌の先祖については、よく分かっていない。先祖は丹波(京都)の人であって、道灌の5、6代前の人が、相模(神奈川県)に移ってきたようだ。
江戸時代になって、道灌の子孫たちは、清和源氏頼政の流れで丹波国太田郷の出身と伝えるようになったが、裏づけはない。
道灌の確実な祖先として確認できるのは、「永享記」中の永享12年(1440)正月の条に見える祖父の資光(すけみつ)からである。
道灌の祖先ではないかと言われてきた人物は「備州太守太田公」「太田備中入道道暉」「太田源次郎」など数名いる。しかし、それらの人物はすべて確証が無く、現在の検証ではおそらくすべて違うであろうと推察されている。
そうした中、一人だけ確実視されている人物がいる。『鶴岡諸記録』中の応永元年(1394)12月に、鎌倉の鶴岡八幡宮の遷宮で地奉行を務めた扇谷上杉の家来の「太田」姓の人物だ。この「太田」姓の人物が唯一、確実に道灌の先祖であるとされる。
おそらく、資光の父にあたる人だと思われる。よって、太田家は、少なくとも道灌の曾祖父の時代から扇谷上杉の家宰であったようだ。
道灌の父は、どのような人物だったのか
道灌の父も扇谷上杉の家宰で 名は太田道真
道灌の父、道真(どうしん)は応永22年(1415)生まれとされている。上杉禅秀の乱(1416年)の1年前である。亡くなったのは明応元年(1492)2月2日、川越城で78歳の生涯を閉じたとされる。(1411年生まれ、1488年没という別説もある。)
そして、道真の父は太田資光(道灌の祖父となる)だと考えられる。(別説として道真と資光を同一人物とみる説もあったが、新資料の発見もあり道真と資光は別人、親子であるとして決着している。)
道真の実名を伝える資料はない。しかし、「鎌倉大草紙」に「資清(すけきよ)」とあるのが道真の実名と伝えられてきた。
道灌の実名は「資長」説が主流(「持資」説あり)なので、太田家は「資」の字を通字とし、祖父の代から「資光」→父「資清」→道灌「資長」、(『「光」が「清」く「長」い』)となるようだ。
鎌倉公方足利氏と山内・犬懸の両上杉家について
鎌倉公方の補佐役が管領上杉家、管領家の一つ扇谷上杉家の補佐役(家宰)が太田家
管領を務める上杉家には、いくつかの分流がある。そのうち主流を占めていたのが、犬懸上杉、山内上杉、そして扇谷上杉の3家。
初めのころは、山内上杉と犬懸上杉が交代で管領を務めたので、この2家が「両上杉」と呼ばれていた。
1415年~1417年の上杉禅秀の乱の上杉禅秀(氏憲)は犬懸上杉氏。対する憲基は山内上杉氏であった。上杉禅秀の乱に敗れた犬懸上杉家は没落し、山内上杉家が取って代わって力を持つようになった。
扇谷上杉は、関東の家系ではなく京都上杉の庶流である。京都の上杉家の顕定(あきさだ)が朝定(ともさだ)の養子となり、鎌倉の扇谷に住んだことから扇谷上杉家が始まった。
しかし実際に扇谷上杉が政治的地位を確立させたのは、顕定の孫の持朝の代になってからであった。
持朝以降は、「両上杉」と言えば山内上杉と扇谷上杉を指すことになった。この扇谷上杉家の家宰職を担っていたのが道灌の太田氏である。
家宰とは、どういう役職か
家宰とは、源氏政権の執権藤原氏などと同じような役職といえる。当主に代わって当主の仕事を代行する立場、当主に仕える者の代表筆頭だ。
具体的には、当主の代行、戦の時の大将、税を課し税を取り立てる、税の免除の承認、警察署長?、さらには武士や寺社への所領の給付や承認案の当主への取りつぎ、他家との交渉、幕府や公家との交渉も家宰の仕事であった。
さらに扇谷上杉家は、持朝以後相模国の守護に任じられ、道真・道灌は二代続けて家宰と併せて相模国の守護代を兼ねた。
このように家宰は、主家の仕事のすべてを代行する重要な役職であったので、主家と信頼関係が無ければ成り立たない。だが、時代は戦国時代の入り口にあり、主家と家宰太田道灌との関係は微妙なものとなっていった。
道灌の本名はよく分からない
道灌は、永享4年(1432)生まれ。生まれについての記録は無い。しかし、死亡日が文明18年(1486)55歳と、『梅花無尽蔵』にあるので、そこから逆算した。
『永享記』によると、幼名を鶴千代丸といい、9歳から11歳まで鎌倉で和歌・漢詩などの学問を学んだ。その後も軍学などを学び優秀だったと伝えられる。
元服した後は、源六を名乗った。長禄3年(1459)からは官途名左衛門大夫(さえもんのたいふ)を称した。(『香蔵院珍祐記録』)
肝心の実名については、軍記物や系図などを見ると「資長」「持資」の二つともに見られる。つまり史料からでは実名を確認することはできない。
「持資」を支持する人は、道灌の主人が上杉持朝だから、主人から名前から「持」の一字をもらって(偏諱・へんき)「持資」だと考える。
しかし、これは後世の作り話だというのが通説。
ちなみに、柳家小さん師匠の落語「道灌」では、左衛門大夫持資を実名としているので、江戸時代など落語が完成した時期は、「持資」が有力説だったのだろう。
「資長」については、こういう名前の人が居たことは確実。しかし問題がある。「資長」の官名が右衛門尉(うえもんのじょう)であり、左衛門大夫ではない。このことを根拠とすれば「資長」は道灌とは別人となる。
こうなると、「持資」も「資長」も、有力な決め手がない。もしかすると、二つとも道灌の実名では無いことさえあり得る。
ともあれ、文明3年(1471)6月に出家し、それ以後は法名「静勝軒道灌(じょうしょうけんどうかん)」を名乗っている。
江戸城を築いた道灌
道灌はどんなことをした人か
「道灌は何をした人か?」と質問したら、多くが「江戸城築城をした人」と答える。
『鎌倉大草紙』という書物に、長禄元年(1457)4月に江戸城を築城したと記されている。また『永享記』に、道灌は始め武蔵の品川館(東京都品川区)に居たが、霊夢のお告げで江戸館に移り、康正2年(1456)から城を作り出し、長禄元年(1457)4月18日に完成させたとある。
この記述が正しいとしたら、たった1年で城を建ててしまったことになる。俄には信じられない。別史料(『松陰私語』)に、『道真・道灌父子のほか、上田・三戸・萩野谷氏ら扇谷上杉氏の宿老が「数年秘曲を尽くして」構築したものと言われている~』とある。
どちらかというと、こちらの方が私には正しく思える。おそらく道灌だけではなく、少なくとも道真・道灌父子などが協力して数年考えて築城したのではないだろうか。
江戸は戦の最前線だった
道灌が江戸城を築城したころ、関東は古河公方と両上杉家が争う享徳の乱の最中だった。
道灌が江戸城築城に取りかかったとされる康正2年(1456)は、公方成氏の軍勢に上杉方の下総市川城が攻められた時期であった。つまり、江戸あたりが道灌の上杉方の最前線になっていた。上杉方の守りの要として最前線を守っていたのが道灌だった。
道灌は扇谷上杉氏の家宰で、扇谷の当面の敵は下総の千葉氏だった。
同時に古河公方勢の拠点としての崎西城(埼玉県)へ備える必要もあった。二方面に勢力を裂く必要があったので、崎西城に対しては河越城を築いて扇谷上杉の当主持朝と、道灌の父の道真が守り、千葉氏に対しては江戸城で道灌が目を光らせていた。
江戸を囲む武士団はどのように広がっていたか
江戸は、平安時代末期から江戸氏の館があった。江戸氏は、鎌倉府の中で有力武家として残っていたが、結城合戦の前後には姿を消す。
享徳の乱が始まったころには江戸は扇谷上杉家の所領となっていたようだ。公方に味方していた武将の所領は、扇谷家やそれに連なる武将に分配されたようだ。
長禄2年(1458)幕府によって、新しい鎌倉公方として足利政知(まさとも)が派遣されてきた。実際には鎌倉に入れず、堀越に留まったので堀越公方と呼ばれた人だ。この勢力が加わったことで東国はさらに複雑な勢力分布となった。
豊島郡に豊島氏、世田谷に足利氏の庶流である吉良氏や詫間上杉氏、没落してしまった下総の千葉氏嫡流が、山内上杉氏から赤塚郷(現在の板橋区)から石浜郷(現在の荒川区)を与えられて武蔵千葉氏となっり、これらの勢力がやがて堀越公方の傘下に入いる。
さらに堀越公方の中心は、足利氏の庶流の渋川氏であり、拠点は足立郡蕨(現在の埼玉県)から、豊島郡千束郷浅草(現在の東京都台東区)であった。
このようにみると、当時の江戸城は、数ある政治勢力の中の、一つの勢力の、拠点の一つ、という位置付けであった。
このような状況の中で、道灌が政治力を拡大し、それとともに江戸が他地域から頭一つ抜き出ていき、やがて江戸が武蔵の中心地となっていった。
道灌が創った江戸城は、どこにあったのか
道灌時代の江戸城の遺構は残っていない。従って、詳しいことは分からない。しかし、徳川家康の江戸城改造時の文書、「石川正西見聞集」によると、
家康入城以前の江戸城は、本丸の他二つの曲輪があり、家康はこれを一つにまとめて本丸にした
と記されている。
この通りだとすると、道灌の江戸城は、家康時代の江戸城の本丸があった所だと思われる。
城の高さは、十余丈(約30メートル)、崖の上にそびえ、周囲の石垣は数十里に及んだという。外堀に囲まれ、堀には常に水がたたえられ、堀に橋が架かっていた。
門には鉄金具、門の垣根は石積み、城に通じる通路は石段、城に続く道は、くねくねと入り組む。
城は、本城、中城、外城の三十構造。石の門が全部で25カ所あったという。それぞれの門から中に入るには、飛び橋(跳ね橋)によったという。
本城には、南面に静勝軒と名付けられた館があり、これが道灌の居所であった。
江戸は、鎌倉に続く鎌倉街道と武蔵府中に続く、古甲州道の合流点であった。現在の半蔵門付近が合流点にあたる。
さらに江戸湊、大橋宿に接する流通の拠点が江戸であった。ただし、道灌が江戸城を築いた当初、江戸湊は江戸湾の中の一湊に過ぎなかった。道灌が江戸城に在城することで江戸が武蔵の中心地となり、結果江戸湊が近隣の湊と比較にならない繁栄を遂げた。
父道真の隠居
享徳の乱が始まり(1454年~1482年)、鎌倉公方と関東管領家が争い始めると、幕府は新たな鎌倉公方として足利政知を関東に下した。(長禄2年・1458年)
ただし、政知は鎌倉に入れず、伊豆堀越(静岡韮山町)に留まり、堀越公方と呼ばれるようになる。
堀越公方の存在が、関東の問題をさらにややこしく複雑にした。
堀越公方が関東に入ったことで、問題がどう複雑になったの?
堀越公方が入った堀越の地は、実質的に上杉氏の管轄下にあった。このため、堀越公方と上杉家の間に紛争が起こることになる。特に扇谷上杉は、相模・武蔵が所領なので伊豆堀越の隣に位置する。
犬懸上杉教朝の自殺
堀越公方と扇谷上杉の関係がきな臭くなってきた寛正2年(1461)、犬懸上杉教朝(禅秀の息子で公方政知の執事)が突然自害するという事件が起きた。
さらに、道灌の父扇谷上杉の家宰道真が同年【寛正2年(1461)】に突然隠居した。
幕府と上杉家との微妙な関係の板挟みの中で、二つの出来事は起きた。
扇谷上杉家の 裏切りのうわさ
寛正3年(1462)3月,世間では扇谷上杉家当主、持朝に「裏切り」のうわさが流れた。『持朝が、古河公方側に寝返る』という風聞である。
このうわさが広まり、持朝は堀越公方から「裏切り」の嫌疑をかけられた。
鎌倉幕府の仲介
堀越公方と扇谷上杉の対立に対し、幕府が調停に動きます。
持朝の地位を幕府が保証したうえで、堀越公方の説得し両者を和解させました。
道灌が扇谷上杉で実権を振るうようになったのはいつごろか
堀越公方との関係の板挟みから父道真が隠居したのは1461年だが、隠居後も実権は道真が握っていた。実質的に道灌が実権を譲られるたのは、それから10年も後、文明5年(1473)ごろだと考えられている。
上杉全軍の拠点 五十子城
この当時利根川は江戸湾に流れ込んでいた。古河公方成氏軍と管領軍は、古利根川の東と西に対峙していた。
現在の埼玉県本庄市にあった五十子城(いかつこじょう)は全上杉軍の拠点であった。
この時点の上杉軍は、山内上杉・越後上杉・扇谷上杉の共闘軍である。
扇谷上杉の当主交代
応仁の乱が始まる応仁元年(1467)、扇谷上杉の当主持朝が死去した。家督は持朝の孫上杉政真(まさざね)が嗣いだ。
持朝死去の6年前の寛正2年(1461)に道真は家宰職を引退して、後を道灌に譲っている。しかし、実際は当主のそばには道真が付き、実質的な家宰職の権能は引き続き道真がもっていた。
上杉軍が古河公方を追い詰める
文明3年(1471)、扇谷上杉の持朝が亡くなってから10年後、上杉方は、古河公方に対して大攻撃を仕掛けた。この攻撃で古学棒形の本拠、古河城は陥落。成氏は、下総の千葉氏を頼って逃げる。道灌もこの作戦に一軍を率いて参加している。
古河公方成氏の反撃 と 全上杉の中心となる太田道灌
下総に逃げた足利成氏(古河公方)は、翌年の文明4年(1472)に反撃に転じる。上杉軍は、再び五十子城に在陣し、利根川を挟んで対峙した。
文明5年(1473)11月24日、古河勢は五十子城を攻撃した。この攻撃により扇谷上杉の当主政真が戦死してしまう。享年24歳(22歳説もあり)。政真には子が無かった。
跡継ぎ問題に関し、道真・道灌父子を初め「一族の老臣ども評議して」、持朝の三男(あるいは五男)の定正を擁立することで決まった。(「鎌倉大草紙」)
定正が家督相続をしたころから、道真は実権を道灌に譲ったらしい。寛正2年(1461)に道真は家宰職を引退したが、その後10年以上実質的に家宰職を担ってきた。
実質的な道灌主導の時代は、1470年代の前半から始まったのだった。
とは言え、道灌はすでに10年以上家宰職にあり、経験を積んできた。合戦では扇谷上杉軍を指揮し、山内上杉など対外的な交渉も道灌が前面に出て行っている。元々優秀な上に、父道真が裏で支えながら経験を積ませたので、道灌は扇谷上杉のみならず、全上杉方の中心人物となっていた。
また、新当主定正も家督を継ぐまでは、実質的に道灌の指揮下にあった。立場は逆転したが、扇谷上杉のみなら全上杉を主導しやすかっただろう。
道灌の経済政策
道灌の時代、もはや戦国時代に突入した。戦国の世となれば兵員確保、城郭築城、兵站の確保などで「人」が必要になる。領主や代官は、自分の所領から「人」を徴発する権利を持っていたが、それでは足りなくなる。
そのようなときどうするか。「人材」負担の義務がなかった寺社領から「人」を徴発することを考えた。鎌倉の鶴岡八幡宮は、関東の守護神である。関東各地にその所領をもっていた。扇谷上杉は、そこに手を付ける。そしてその中心的役割を果たしたのが、太田道灌だった。
道灌は、八幡宮領から戦争費用を徴発するため「反銭(だんせん・はんせん)」という税をか賦課した。さすがの八幡宮の僧侶たちも、内心では反発していたものの道灌の武威を畏れ、文句を言えなかったようだ。
かわりに、道灌は八幡宮を保護した。戦乱の世でありながら八幡宮が栄えたのは道灌の保護による。
伊勢神宮に税を納めない代官たちに、武威をもって税を納めさせた道灌
伊勢神宮の御厨の代官たちが、神宮に税を納めないという事件があった。神宮は、寛正5年(1464)から文明元年(1469)にかけ複数回、道灌に税を納めない御厨の代官から年貢を取り立てる依頼をしている。本来は、このような依頼は、守護に頼む。しかし、戦国の世では、本当に力を持つ者に依頼するようになっていた。
山内上杉氏家宰・長尾景信との確執
寺社領から「人」や「税」を徴発すると、「その寺社は自分の領地にある」として、他家との紛争を生むこともある。そんなとき、扇谷と対抗するためには、山内上杉と結ばないと戦えないということで、山内上杉に結ぶなどの動きが生じる。逆も真だ。山内上杉と権利がぶつかると扇谷上杉と結ぶ。こうして、この手の問題は、両上杉のトップ同士で交渉することになった。
山内上杉の家宰は長尾景信(景仲の子)、対して扇谷上杉家宰は太田道灌、そしてその父道真。
道灌と同時代の武士団
享徳の乱以後、関東の武士団もその質を変えていった。新たな支配層が旧勢力の武士団を倒し、新たな時代を作っていく。
享徳の乱は、多くの武家の質・在り方が変わり、勢力争いの中で存亡の危機に直面する家も多々あった。享徳の乱以前は武家の所領は、各地に散在していることが多かった。しかし、享徳の乱を通じ武家は本拠を中心に、一か所にまとまった所領を支配するようになっていく。つまり、戦国大名・戦国時代の領主の形を取り出す。
相模三浦氏
相模の三浦氏は、南関東の武家の中で千葉氏に次ぐナンバー2の地位にある武家であった。
享徳の乱・結城合戦では、両上杉氏に味方する。この時期に扇谷上杉から養嗣子(上杉持朝の子・高救(たかひら))を迎え、実質的に扇谷上杉の一門となった。
三浦を継いだ高救は、道灌と協力し長尾景春の乱を戦う。しかし、道灌死後の長享の乱では、道灌を殺した扇谷上杉から離反し山内上杉に味方し、道灌の子を自分の孫娘の婿に迎えた。
しかし、高救(たかひら)の嫡子(義同・よしあつ)が当主となるころ再び扇谷上杉に戻る。そして永正13年(1516)、伊勢氏との抗争に敗れ滅亡する。
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