太平洋戦争が終わった。
寅子のモデル三淵嘉子は、夫と弟を戦争で失う。
父母も、病気で死んでしまっていた。
残された3人の弟たちと、一人息子の養育は、嘉子の細腕一本にかかることになった。
三淵嘉子は、この困難な戦後を、どのように生き抜き、なぜ『自分を裁判官に採用して』と直談判したのだろうか。
母校で、生徒たちを教え始めた三淵嘉子(寅子)
戦争末期、
明治大学女子部は、明治女子専門学校となる。
そして、戦後嘉子は、母校・明治女子専門学校の講師の職を得る。
現在の感覚からすると、『大学で教えることができるようになれば、経済的に安泰』
と思うのだが、この当時はそうではなかった。
この当時、教師全般の給料がとても低かったのだ。
大学でも、それは変わらなかった。
嘉子の悩みは、つきない。
思い切った行動に出る、嘉子
昭和22年3月。
嘉子は一人で霞が関の司法省へ出向く。
そして人事課にいきなり、「裁判官採用願」を提出したのだ。
三淵嘉子は、猪突猛進の行動派だ。
まるで、池井戸潤が描く『花咲舞』のようだ。(花咲舞が黙ってない「テレビ放映中」)
受け取ったのは、このときの人事課長の石田和外(かずと)
石田和外は、「虎に翼」の桂場等一郎のモデルとなった人。
東大剣道部出身で、堂々たる体躯の持ち主。
眼光鋭く強面(こわもて)で、ちょっと見怖そうな男性だった。
石田は、後年最高裁長官にまで上り詰める。
まだまだ、女性蔑視が激しかった当時、女性裁判官の前例は一例もなかった。
司法省人事課に直訴した、嘉子の戦略
嘉子は、なぜ司法省の人事課に、「自分を裁判官に採用してください」と、直訴したのだろうか。
この行動には、嘉子の深い戦略があった。
嘉子が直訴した昭和22年3月というのは、戦後のあたらしい憲法(日本国憲法)が施行される2か月前のことだった。
日本国憲法には、「男女同権」が明記されている。
明治の「大日本帝国憲法」下では、裁判官に採用されるのは、日本帝国男子に限られていた。
だが、新しい世の日本国憲法が施行されたら、「男子に限る、女子は駄目」と言ったら憲法違反になる。
『施行前だが、おそらく司法省は断れまい……。』
嘉子は、『女性が採用されるチャンス』と、判断して直談判を決行した、のかな。
さて、嘉子のこの戦略、石田和外に通用したのだろうか。
新しい器に、新しい酒を汲むべし
人事課の石田和外は、東京控訴院長だった、坂野千里に相談した。
坂野は、東京控訴院で、嘉子と面談する。
そして、こう言った。
裁判官の仕事は相当な知識と経験を必要とするもので、弁護士から裁判官になることは男でも随分苦労する。
要は、『裁判官になるのは、もうしばらく待て』と説得にかかったのだった。
女のあなたはなおさらであろうし、初めて日本に婦人の裁判官が生まれるという画期的なことは、新しい裁判所制度の下においてこそ検討すべきだ。 自分としては、あなたが今裁判官になることは賛成できない。
坂野は、『日本国憲法が、きちっと施行されるまで待て』と言う。
器が新しくなったときにこそ、新しい酒を汲むべきだ。
嘉子は、坂野の言葉が、悔しかった。
だが、さすがの嘉子も、
いいえ、大丈夫です。(女の私でも)裁判官をやれます。
と自信を持って言い切れなかった。
そのときは、嘉子自身も、自分の実力に自信がもてていたわけではない。
「坂野の言葉が悔しかった」
というが、その実、「自信をもてない自分自身が悔しかった」のかもしれない。
坂野の いきな計らい
だが坂野は、嘉子を切り捨てた訳ではなかったのだ。
しばらくの間、司法省の民事部で勉強してみなさい。
と、働く場を提案してくれたのだ。
こうして、嘉子は司法省の嘱託職員となった。
司法省の 民事部での仕事
嘉子の配属先は、民事部・民法調査室。
ここで嘉子は、民法の改正作業を手伝った。
ここでの作業は、彼女の今後にとって大いに役立つことになる。
「戦中戦後にかけて家族を食べさすことに追われ、百姓仕事に没頭していた私は、待ちに降りてきた山猿のように何も分からず、与えられた机の前に座って周囲の人々のめまぐるしい動きをあっけにとられて眺めている有様でした」
彼女の実務能力は、ここで大いに磨かれる。
急務だった、民法見直し
明治民法では「家」制度があった。
家族は戸主による命令監督に従わなければならない。
女性は婚姻によって、無能力者と見なされていた。
このあたり「虎と翼」の中で、寅子がこだわっていた部分。
女性は「無能力者」と見なされていたので、重要な法律行為をするには、夫の同意が必要だった。
新民法では、
戸主や、家制度に関わる条文が削除される。
もちろん、妻の無能力制度も廃止。
婚姻の自由・夫婦別産制・均分相続制度などが新たに盛り込まれることになる。
嘉子たちの部署である民法調査室は、その草案を創っていた。
女性が家の鎖から解き放たれ、自由な人間として、ズックと立ち上がったような思いがして、息をのんだものです。
初めて民法の講義を聴いた時、法律上の女性の地位のあまりにも惨めなのを知って、地駄んだ踏んでくやしがっただけに、何の努力もしないでこんな素晴らしい民法ができることが夢のようでもあり、また一方、あまりにも男女平等であるために、女性にとって厳しい自覚と責任が要求されるであろうに、果たして現実の日本の女性がそれに応えられるであろうかとおそれにも似た気持ちを持ったものです。
後年、三淵嘉子はこのように語っている。
新民法は、スムーズに制定できなかった
このように、明治に制定された大日本帝国憲法下の民法と、ガラと変わる新民法を制定。
寝る間も惜しんで働いた民法調査室の努力は、果たして報われたのだろうか。
実は、新民法をスムーズに制定することはできなかった。
ネックは、GHQだった。
法律を制定するには、GHQの承認が必要だった。
だが、GHQはGHQであらゆる法律の改正作業に忙殺されていたのだ。
民法まで手が回る状態ではなく、「後回し」にされてしまったのだった。
どうする、民法調査室!
GHQが忙しいのは分かる。
だが、もし新憲法が施行されてしまうと、旧民法が旧民法のまま存続してしまうことになる。
それは、避けたい。
そこで、民法調査室は、苦肉の策を考えた。
10条足らずの「民法応急措置法」を制定した。
これにより、ひとまず家督相続を廃止した。
そして、この部分を担当したのが嘉子だった。
しばらく法案のまま留め置かれていた新民法は、1948年(昭和23年)1月から無事、施行された。。
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