中国で起こり周辺諸国に広まった儒教の流れを汲む『朱子学』や『陽明学』の担い手は、中国では『士大夫』という存在でした。
この『士大夫』とは、一体どういう人々を指すのでしょうか。
実は、『社会的身分』としての『士大夫階層』と、もう一つ『ある事をする人々』と、定義されているのです。
士大夫とは何か:『周代の士大夫』
『士大夫』という言葉は、『士』と『大夫』という二つの単語からなる合成語です。
『士』も『大夫』も古代中国で儒者達が『理想の時代』とする周の時代の統治者身分の階層を示していました。
周の時代、統治者は次の五つの身分に別れていました。
上から順に示すと、天子(王)・諸侯・卿・大夫・士となります。
この下に一般庶民であり、統治される人々『庶(もしくは民)』がいました。
この当時の身分は、すべて男性に与えられるものです。
女性はと言えば、男性の添え物。
それぞれの男性の娘とか妻と、戸籍に記載されました。
身分制秩序の中には、組み込まれてはいたのですね。
周の身分制秩序は、王が諸侯に土地と人民を与えて統治するというやり方です。
王から土地と人民を与えられた諸侯は、自分の臣下である卿・大夫・士に領地を与えます。
そして、その見返りに軍事奉仕や行政実務を担わせました。
周代:卿・大夫・士はいずれも諸侯の臣下身分
『卿』・『大夫』・『士』とは、いずれも身分を表していたわけです。
しかし、時代が降り宋代になると、『士大夫』に別の意味が加わります。
この点は、後段の「『宋代の士大夫』とは」で述べます。
封建制
この周のような制度が、学校でも教える『封建制』ですね。
『封建制』という社会科用語は、西洋史のフューダリズム( feudalism)の訳語として近代になって用いられるようになりました。
しかし、中国の封建制と西洋のフューダリズムを当ては、別物ととらえていた方が間違いないですね。
封建制のイメージ
「家の親父は、封建的でね」
とか、
「社長が、本当に封建的で…」
などと表現することがあります。
この場合の『封建的』というのは、『近代社会成立以前の不平等な人間関係』をイメージして遣っていると思います。
『頑固親父・専制君主的社長』
も、確かに「封建的」と表現したくなります。
ですが、元来は『臣下に土地を与える行為を〈封建〉』と言います。
封建制の消滅
中国において、『封建制』はいつ消滅したのでしょうか。
実は、『キングダム』・秦の始皇帝が中華統一を果たしたことによって『封建』は消滅したのです。
『え、そんな古代に封建制がなくなったの!?』
と、びっくりした方もおられるのではないでしょうか。
秦の始皇帝は、『封建制』に代わり『郡県制』で国を治めました。
これに対し、儒教たちは、『秦の制度を周の制度と正反対のもの』として、厳しく非難しています。
『郡県制など、周の封建制から逸脱している。もってのほかだ』
というわけです。
郡県制
秦の始皇帝は、王・大王に代わる帝国君主の新しい称号として、『皇帝』という言葉を用いました。まさに『始皇帝』です。
始皇帝は、諸侯を封建しませんでした。
変わって、全国を郡およびその下位区画である県に区分し、そこの統治者としての『知事』をみずから任命して、宮廷から派遣したのです。
知事は一定期間任地で抗体です。
世襲ではありません。。
知事を助ける官吏達も世襲ではありませんでした。
中間身分としての『封建領主』を一掃して、『一君万民』と呼ばれる社会体制を創り上げました。
漢の時代の『士大夫』
秦が滅んだ後の漢代に、儒教は国教化しました。
儒者たちは、『秦の政治を激しく批判』しましたが、帝国統治の秦の方式『郡県制』は、基本的に漢・その後の中華諸国にも踏襲されていきました。
ですが中国です、どこかに抜け穴を見つけ、官僚層は、貴族化しみずからのことを周の時代の(天子直参の)『大夫や士』に相当するとみなし、『士大夫』という熟語を用いて、自らを表しはじめました。
近現代の日本の研究者によって、『漢代に官僚たちが実質的に世襲するようになった』
そして、『貴族化した官僚』たちが自らを『士大夫』と呼ぶようになった、
と説明されています。
漢代:貴族化した官僚を『士大夫』と言った。
また、官僚貴族たちの上層部はかつての『卿』になぞらえ、
身分を『卿』と自称する人もいました。
『卿』を含め、『士大夫』たちは、政治的・社会的・文化的な支配階層を意味する用語でした。
宋の時代の『士大夫』
漢代においても、官吏は世襲ではなく優秀な人材を現職官僚に推挙するという制度でした。
この制度を『選挙』と言います。
出身地の評価で任用するので、別名『郷挙里選』とも言われます。
日本では、政治家を投票で選ぶことが『選挙』ですが、中国で『選挙』と言えば、、皇帝が官吏を選ぶことを意味したわけです。
科挙
隋時代に始まり、唐の時代も継承はされていた「科挙」が、制度として整ったのは宋代でした。
宋の時代、『科挙官僚制度』が確立したことが、『士大夫』の意味に変化をもたらします。
隋代・唐代は、まだまだ貴族制の厚い壁がありました。
たとえ科挙に合格者しても『家柄無し』ではなかなか官僚として昇進できませんでした。
『貴族官僚の家の出身ないと、出世できない。』
現実は、厳しかったのですね。
唐末の動乱で、優秀な人材が必要になる
ところが、唐代の末『家柄を顧慮せず、皇帝が試験成績のみによって本当に優秀な人材を登用できるようになった』のです。
それは、唐代に起きた動乱のためでした。
唐に変わって、国を造った宋の皇帝は、優秀な人材を官僚に据えたいと考えました。
国が荒れた時は、本当に優秀な人が官僚でないと国が潰れてしまいますものね。
これによって、『家柄によってではなく、自分の才能によって官僚として出仕しているのだという意識を強く持った』宋代の士大夫たち。
『唐以前の貴族的な士大夫と、自分たちは違うんだ。
それまでの科挙合格者と、自分たちを区別してほしいものだ。』
宋代の科挙合格者たちは、そう思ったようです。
まあ、実質は宋代にでも、高級官僚の息子はやはり高級官僚。
なんといっても高級官僚たちは社会的には地主などの資産家です。
当然経済的基盤・文化的環境は一般受験者と大きな差があ留分けです。
確かに、公平性を旨とする科挙試験制度ですが、結果を見ると『特定の一族から科挙合格者(進士)』が多数輩出されることに成ってはいました。
ですが、それでも宋代の科挙合格者・そして官僚となった〈士大夫〉たちは、
「自分は単なる世襲ではなく、自分の実力で官界入りしたのだ」
という自負をもっていた点が、唐代までとの『士大夫』と、大きな相違がありました。
そして、
宋代:『士大夫』=『読書人』
という捉え方が生まれます。
現在『士大夫』と言えば、
『士大夫』とは、
・『読書をする人々』・『書物を学習する人々』
・『知的エリート』
を指す
まとめ
○周代:『士大夫』=卿・大夫・士はいずれも諸侯の臣下身分
○漢代:『士大夫』=貴族化した官僚
○宋代:『士大夫』=『読書人』(官僚)
○『士大夫』とは『知的エリート』
(『読書をする人々』・『書物を学習する人々』)
- 史的唯物論に基づく歴史学研究では、
- 士大夫とは地主・大商人階級出身で、
- その階級利益を追求する存在
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