歴史雑感– category –
- らんまん
牧野富太郎の真実の人生【朝井まかでさん作の評伝小説『ボタニカ』から】
ボタニカは、朝井まかでさん作の評伝小説。この小説に描かれる日本の植物学の父である牧野富太郎博士は、文久2年(1862)、土佐佐川の造り酒屋、岸屋の一人息子としてこの世に生を受けた。 - らんまん
牧野富太郎の実家「岸屋」は、その後どうなったか
牧野富太郎の実家「岸屋」は、富太郎から猶(なお)さんと和之助に引き継がれた後、どうなったのでしょうか。実は、残念ながらたち行かなくなり、人手に渡ってしまいました。最終的には、黒金屋(現在の司牡丹酒造)にわたりました。 - 江戸時代・徳川
徳川家康の嫡男 【松平信康を切腹させたのは 誰か】
『信長の命令により信康は切腹させられる。理由は、武田との内通。信康の妻で信長の娘の徳姫のざん言により、母の築山殿と共に命を奪われた。』信康を解釈したのは誰?、信康の墓はどこにある? - 常陸佐竹氏
鎌倉公方満兼が定めた 関東八屋形(関東八館)とは何か
常陸の佐竹氏と小田氏、下総結城氏と千葉氏、下野の小山氏、宇都宮氏、那須氏、長沼氏(大掾氏を当てることもある)、この八つの家に鎌倉公方満兼は「御屋形」の号を与えます。関東八屋形(八館)です。 - 江戸時代・徳川
「桜田門外の変」の裏話【有村次左衛門哀話】
桜田門外の変で、井伊直弼の首を挙げた有村次左衛門は、変後に自刃して果てた。数えで23歳の短い生涯だった。だがこの次左衛門には、変の前日に仮祝言をあげた妻がいた。桜田門外の裏話哀話。 - 江戸時代・徳川
徳川家康の側室お万の方が生んだ、越前宰相結城秀康
『どうする家康』で、湯殿の家康を世話するお万。お万さんの色っぽさが反則級だった。さて、このお万が産んだ子が家康の次男、結城秀康。結城秀康の生涯に焦点をあてて描かれた小説が梓澤要氏の『越前宰相 秀康』。父家康に認められず、不遇に育ちながらも無骨に生きる。最後は越前の宰相として、父にも一目置かれる存在となる。 - 江戸時代・徳川
家康は「三方原で脱糞しなかった」し、「『しかみ像』の絵も描かせなかった」
「三方原の戦い」は、家康最大の危機。武田信玄に手痛い敗北をきし、逃げ帰るときに馬上で脱糞をした。そして、この屈辱を忘れないために、いわゆる「しがみ像」の絵を描いて、常に身近に置いた、という話が伝わる。だが、「どうする家康」の中では「脱糞逸話」は、扱われていない。さてこの話、どっちが本当なのか? - 戦国時代
家康は、「いつ」どういう理由で「松平から徳川」に改姓したのか
1566年、家康は東三河、奥三河を平定し、念願の三河の国統一に成功する。こうなると、家康も官位がほしい。だが、家康が官位を得るには、秘策「松平姓から徳川姓へ改姓してしまおう」作戦が必要となる。はたして、その作戦が必要な理由とは。 - 戦国時代
徳川家康など三河松平一族は、どのような家系の一族か
征夷大将軍になれるのは、源氏の血筋を引くものだけ。では、祖先が諸国を流れる僧であった家康も、源氏の血族だったのだろうか?、三河松平一族とはどんな一族か? - 歴史雑感
鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の共通点と違い
教科書はすべて幕府という言葉を使っているので、鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も、似たようなものと錯覚する。だが、 約700年も続いた武家政権下の三つの幕府がすべて同じものであったはずがない。その違いとは?