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笠置シヅ子の最も幸せな時期
笠置と穎右が愛を育んだ時期は、日本の歴史上最悪の時期だった。
1944年7月、サイパン島が陥落。
これにより、本土に米国の攻撃が直接及ぶ可能性が高まる。
こうなると、学生と言えども徴兵を免れることはできない。
さらに、そんな時期穎右は当時死の病と恐れられた結核が悪化してしまう。
日本が一番苦しかった時期であり、穎右の健康がむしばまれてしまった時期でもあるが、二人にとっては恋が深まる最良の時期だった。
二人の最良の時期は、わずか3年たらず
1944年の暮れから、1946年のわずか3年足らずの期間が二人にとっての愛の時間。
1944年、穎右は結核のため喀血(かっけつ)している。
そのために、学徒動員は免除になる。
笠置は、敵性歌手というレッテルを貼られ、歌手としても「地獄だった」と当時を振り返るような不遇を味わっていた。
それにもかかわらず、愛は深まり、二人は結婚を誓う。
数ヶ月の同棲生活
1945年5月25日、東京に大空襲があった。
このとき笠置は、京都で公演中だったので難を逃れることができた。
だが、三軒茶屋の借家は全焼。
さらに財産は全て焼失。
笠置は、無一文となった。
同居していた義父の音吉も無事だったが、笠置と一緒にいられなくなり、しかたなく郷里の香川県引田に戻っている。
同じように、市ヶ谷にあった吉本の東京の別宅も焼失してしまう。
そこで、穎右と笠置は、その年の年末まで借家で同棲生活を送ることになった。
二人が一つ屋根の下で暮らすことができたのは、この半年あまりのほんのわずかな時期だけ。
仕事も少なく、金も無く、健康にも恵まれない二人だったが、このわずかな期間は何物にも代えがたい最良の期間だったのではないだろうか。
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