『坊、生まれて来らんほうがよかった人らあ、一人もおらんぜよ。いらん命らあ一つもない。この世に同じ命らあ一つもない。みんな自分の勤めを持って生まれてくるがじゃき。』
「勤め?」
『おお、己の心と命を燃やして何か一つ、事を成すために生まれてくるがじゃ。誰に命じれたことじゃあない。おのれ自身が決めて、ここにおるがじゃ。おまんも、大きゅうなったらなんでもできる。望むものになれるがやき。おまんは何がしたいがぜよ。』
ディーンフジオカさん演じる坂本龍馬が幼い日の牧野富太郎(万太郎)博士に話しかける台詞は、心に響いた。同じ土佐出身の坂本龍馬と、牧野先生が史実でも出会っていたら本当に面白いが、史実ではどうだったのだろうか。
富太郎と龍馬が出会ったとされる慶応3年
「らんまん」劇中の龍馬と、富太郎が出会ったのは、慶応3年(1867)という設定になっている。
富太郎は、文久2年(1862)生まれなので5歳。龍馬は、この年(慶応3年)の11月に京都の近江屋で暗殺され生涯を閉じることになる。
龍馬は脱藩していたが、この年に脱藩が許される。劇中の時期には土佐の坂本家に、「脱藩の罪が許された」という知らせが伝わっていたかもしれない。
だが、記録上龍馬はこの時期、下関にいたことになっている。
劇中では、迎えにきた武士たちが、
「坂本さあ、下関におることになってなっちゅうがですき、一目につかんようにしてください。」
と、龍馬をたしなめるシーンがある。
脚本家が創作である朝ドラに、史実を上手に絡めている。
🔸史実では 二人の出会いはない だが・・
二人が、本当に出会っていたとしたら、よかったのに。
そう思わざるをえないが、残念ながら史実では、龍馬と牧野富太郎は出会っていない。
しかし、劇中で龍馬が富太郎に語った言葉は、いかにも龍馬らしく、この言葉が史実の富太郎に影響を与えていてもおかしくないように受け取れる。
おのれの心と命を燃やして何か一つ、事を成すために生まれてくる
という言葉などは、いかにも龍馬が言いそうだ。
そして、
坊、生まれて来らんほうがよかった人らあ、一人もおらんぜよ。いらん命らあ一つもない。この世に同じ命らあ一つもない。みんな自分の勤めを持って生まれてくるがじゃき。』
この言葉は、逸話に残る牧野富太郎氏の名言への布石になっている。
「世に雑草などという草は無い。」
朝ドラの脚本家さん、さすがだなあと思ってしまう。
🔶龍馬との直接の出会いは無かったが、坂本家との付き合いはあった
龍馬暗殺後、坂本家は自由民権運動に関わる人を多く排出する。
そして、富太郎も青年時代、自由民権運動に参加した。この辺りはおそらく朝ドラでも取り上げられるだろう。
自由民権運動の関わりを通して、富太郎は坂本家の人々と関わりを持つことになった。もしかすると、この関わりを通して、龍馬についての知識を得ていたのかもしれない。
富太郎の師、名教館の蘭光(らんこう)先生
富太郎の幼年時代は、幕末から維新への変革期。それまでは、武士の師弟しか通えなかった名門名教館(めいこうかん)が、廃藩置県で民間の経営に移ったことで町民も通えるようになった。
名教館は、史実的にも存在する。
富太郎は、そこで寺脇康文演じる池田蘭光先生(モデルは伊藤蘭林:らんりん)と出会う。
この先生の言葉が、また格好良い。
名教館の草花を這いつくばって見ていた富太郎の横に、蘭光先生も同じように這いつくばって語りかける。
こいつは、汗をかく、オウセキソウ。別名露草。
これはオオバコ、これは蛇苺。
どういて知っちゅうがですか。
本草綱目に書いてある。
富太郎と蘭光先生は庭を這い回りながら、庭にある草花を見て回る。
そして、富太郎がつぶやく。
お前ら、みんなあ、みんなあ、名前があるがじゃ。
このつぶやきも、牧野先生の「雑草~」の名言に繋がる。
さらに、蘭光先生は、富太郎たちに学問への意欲をわきたてる言葉を連ねる。
本草綱目を読みたいかい。
そんなら文字を知らんと話にならん。国学・漢学がいる。
何で、いろんな植物がある。何でいろんなががある。
森羅万象には理由がある。
植物は季節ごとに生える。何でじゃ。そもそも、季節とは何じゃ。
何で朝と夜がある。花は何で匂う。実は何で落ちる。
草花は、各々好んだ場所に生える。ほなら何で山があり川があるがか。
川は、海となるが、海の向こうには何があるか。
異国がある。
なら、異国を知るにはどうしたらええ。
異国にも草花はあるぞ。異国は、地理も気候も言語も違うぞ。
どうする。
このような言葉を聞いた明治の子供らは、学問への意欲を掻き立てられただろう。
池田蘭光先生、素晴らしい。
この蘭光先生のモデルは、小林蘭林だと思われる。蘭林は学頭ではなく、次席教授(No.2)だったようだ。
名教館が明治になって廃止になった後も、蘭林先生は自宅で私塾を続け、教え子は千人を数えたと言われる。牧野富太郎先生以外にも、宮内大臣を務めた田中光顕や、近代土木をリードした広井勇など、著名な人物を多数輩出した。
蘭林先生は、諸芸に優れたスーパーマン的な存在だったようだ。
学問だけではなく、武芸にも優れ実際の戦争にも参戦している。
このように、自分の心、人の心を奮い立たせる師を得ることは、何ものにも変え難い人生の宝だろう。
富太郎は、幼少時にその師に恵まれた。
雑草という草は無い
始まって間もない「らんまん」の中に、すでにたくさん散りばめられている「雑草という草はない」という、富太郎先生の名言がへの布石。
だが、この言葉が富太郎先生の言葉だと明確にわかったのは、つい先頃の令和4年(2022年)のことだった。
確かにそれまでも、富太郎先生の言葉だとはされてきた。だが明確な裏付けがなかった。その裏付けが証明されたのが、令和4年の事だった。
🔶山本周五郎の取材
山本周五郎は『樅(もみ)ノ木は残った』(1958)、『赤ひげ診療譚(たん)』(1958)、『おさん』(1961)、『青べか物語』(1960)、『さぶ』(1963)などで知られる作家さんだ。この山本氏(本名は清水三十六:しみずさとむ)は小説家になる前、雑誌記者だったことがある。
昭和3(1928)年ごろ、雑誌「日本魂」の記事作成のため、牧野富太郎にインタビューをしている。そのインタビューの最中、山本氏が「雑草」という言葉を口走った。すると富太郎博士は毅然と山本氏に言い放つ。
「きみ、世の中に〝雑草〟という草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている」。
だが、このインタビューは「日本魂」に掲載されていない。長い間、このインタビューは忘れ去られていたが、令和4年に帝国データバンク資料館に保存されていた山本周五郎氏の記録が見つかったのだ。
このインタビューが、「日本魂」に掲載されなかったのは、掲載する前に山本氏が同社を退社してしまったためらしい。
昭和天皇の言葉にも「雑草というものはない」という言葉がある
昭和天皇にも、富太郎博士と同じような言葉がある。
「雑草というものはない」という言葉だ。
この言葉は、侍従が御所の庭の草刈りをして
「お庭の雑草を刈っておきました」
と報告したときに、天皇が
「雑草ということはありません」「どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる」のです。
と、天皇が侍従に話したというエピソードとして伝わる。(入江相政編「宮中侍従物語」)
昭和天皇は、植物の分類研究をライフワークとしていた。
1948年には、牧野富太郎から直接教えを受けられたという記録もある。
おそらく、そのような関わりの中で、富太郎の「雑草という草はない」という言葉を聞き知っていたのだろう。
ご自身も研究者として植物を愛する思いがあり、共感を持って富太郎の言葉を引用しだと思われる。
富太郎は、教師としても昭和天皇の心に思いを刻むほどの名教師だった。
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