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寅子の再婚相手の星航一登場:史実の三淵乾太郎とは、どんな人物?

第14週の【虎に翼】の世界で、寅子はいよいよ再婚相手の星航一さんに出会います。
寅子の航一に対する最初の印象は、『穏やかな人』
しかし、『何を考えているのかわからない、つかみどころのない人』
というものでした。

言うならば、二人の性格は正反対ですね。
このような二人がどうして再婚したのでしょうか。

また、星航一の史実のモデル、三淵乾太郎(みぶち・けんたろう)とはどのような人物だったのでしょうか。

目次

寅子と星航一の出会い

ある日 寅子は最高裁判所 初代長官である 星朋彦モデル・三淵忠彦、演)から急な呼び出しを受けます。
「作業を手伝ってほしい」と依頼されます。

星朋彦長官

寅子は、家裁の仕事で手一杯だったのですが、長官の頼みですから断ることができません。
渋々ながら、その依頼を引き受けてしまいます。
普段は家裁勤務ですから、長官の仕事は休みにこなすことになりました。
寅子の休日はなくなってしまいますよね。
花江ちゃんにますますおんぶにだっこ状態になります。

ただでさえ、家族に負担をかけている寅子です。
これ以上負担をかけると、娘が思春期になったときに何らかの支障が出てきそうで心配ですね。
ですがこの当時は、「モーレツ社員」がもてはやされた時代です。
昭和の人間は、『家族を顧みずに働く』という経験をしながら仕事をしていました。

星長官のもとに出向いた寅子。
そこには、寅子だけでなく一人の男性が仕事をしていました。
その男性こそ、後に寅子と再婚することになる星航一さんでした。

航一は星朋彦長官の息子さんです。
横浜地裁で判事をしています。

二人は、共に作業を行うことになりました。
緊張しながら作業する寅子。

そんな寅子に航一は優しく語りかけます。
寅子は航一に穏やかさを感じ、ホットしました。
しかし、その一方で、

「この人何を考えているのかわからない。
つかみどころのない人だなあ。」

とも感じていました。

星航一(モデル・三淵乾太郎)を演じるのは岡田将生

星航一を演じるのは、岡田将生(おかだまさき)さんです。
この人物のモデルは三淵乾太郎(いぬいけんたろう)さん。

史実の三淵嘉子【寅子モデル】と三淵乾太郎さんが再婚するのは、昭和31年(1956年)の事です。
二人の出会いから約7年後の事でした。
史実では嘉子41歳。
乾太郎50歳の事でした。

イケメンの岡田将生さんと、史実の三淵乾太郎さん、
どことなく雰囲気が似ている気がします。
特に穏やかそうな雰囲気が二人に共通ですね。

寅子は、優三への思いにどう決着を付けたのか

星航一さんとの恋の行へも気になりますが、
視聴者の多くが気になるのは、

「寅子は優三さんへの思いを忘れてしまったの?」

という点ではないでしょうか。
確かに寅子と優三が結婚する時には、

『恋愛感情ではなく、社会的地位のために婚約』
をしました。
しかし、一緒の時を過ごすにつれて二人は新の、そして深い愛情で結ばれていったはずです。
寅子は、優三への思いが消えてしまったのでしょうか。

『優三さんへの思いとに、どう決着をつけるんですか?』

この点が、気がかりでなりません。

優三さんは、

トラちゃんにできるのは 、トラちゃんの好きに生きることです

絶対そう言うんだろうけど、本心は、

『本当は、俺を忘れないで欲しいけど…。
何時までもトラちゃんのそばにいたい…。』
(でも、もう良いよ。幸せになってね…。)

史実の三淵乾太郎さんとは、どんな人

乾太郎は嘉子の八つ上。
すらりとした優しげな風貌の紳士でした。

前妻さんとの間には、もちろん子がいました。
二人とも連れ子の状態で再婚したわけです。

乾太郎は、戦争の時代に突入する昭和7年(1932年)に裁判官となり、東京地方裁判所などを歴任して、戦時中は司法研究所の事務官を務めています。
また、北京で仕事をした期間もありました。

戦前は同期である内藤頼博らと「さつき会」という団体に参加していました。
「さつき会」は、東京を中心とする若手裁判官で結成され

「裁判所は司法省からの独立を目指すべき」などの提言していました。

乾太郎にはもう一つ隠された経歴があります。
昭和2年4月5日付けで、当時の内閣は乾太郎に以下のように命じています。

総力戦研究所研究生ヲ命ズ

「総力戦研究所」は、内閣総理大臣直轄の研究所でした。

目前に迫る太平洋戦争に備えて、 陸海軍や各省庁から優秀な若手を集めて組織されました。

乾太郎は、司法官の代表として参加しました。
そこでは 「模擬内閣」が組織され、そこで『司法大臣』『内閣法制局長官』役を務めました。

昭和16年8月に、この模擬内閣はア メリカとの戦争の見通しをシミュレー ションしています。

そして、「日本敗戦」という結論を導き出しています。

アメリカと戦ったら、負けますよ。

乾太郎たち日本のブレーンは、開戦前からそういう結論を導き出していたのです。

この事実からしても、乾太郎は日本を担う次世代の有望株と目されていたことがわかります。
ただ乾太郎自身は、戦後この経歴について一切語っていません。

このため、乾太郎が総力戦研究所でどのような役割を果たしたのかについて、本当のところの詳細は謎のままです。

敗戦を予測していた日本のブレーン

史実の嘉子と乾太郎

昭和31年(1956年)5月、嘉子は名古屋から再び東京に転勤しています。
以前勤務していた東京地方裁判所に戻ってきたわけです。

彼女はその三か月後、乾太郎と再婚しています。
前述したように、嘉子が41歳、乾太郎が50歳の時でした。

お互いに連れ子がいました。
嘉子の子は、本当は男子。名を芳武と言いました。
芳武は、 中学生になっていました。

乾太郎にも、子どもが4人いたので、再婚後三淵家は7人の大家族となったわけです。

嘉子が語った結婚生活

「私にとって三淵との結婚は思いも寄らぬものであっただけに、大事な拾い物のような気がします。断崖の端に 立っているような緊張した私の心が、 この頃は自分でもおかしいぐらい余裕 をもってきました。」

寅子の半生は、常に緊張の連続。
張り詰めた思いの連続だったことがわかります。

前夫の和田芳夫と死別した後、嘉子は幼い芳武の育児や、学生だった武藤家の弟たちの世話を続けてきました。

やっと弟も全員社会人になり、芳武も中学生に成長しました。
彼女を常に圧迫していた枷のようなモノが外れたのだと思います。

【虎に翼】では、花江ちゃんが抱えている不安を、実際は虎子(嘉子)が抱え続けてきたのでしょう。
その重荷を、『ちょっとだけ、下ろしてもよいかな。』
そう思えるようになったのだと思います。
二人は、こうして結婚しました。

昭和のモーレツ女子:寅子(嘉子)が、ほっと気を抜ける存在が星航一(三淵乾太郎)さんだったのでしょうね。
穏やかに見える乾太郎さんは、根本は『会津武士』の精神を引き継ぐ人物。
寅子(嘉子)に、会津魂を感じていたのだと思います。

双方とも再婚だったため、結婚式は身内だけのごく簡素なもので済ませたのだそうです。

結婚後、嘉子の性格ですから、乾太郎の子どもたちと時にぶ つかることがあったといいます。

乾太郎の長男は、嘉子さんについて以下のように語っています。

「ひと言でいえば、継母は猛女でした。
私の父は明治39年(1906年)生まれのひのえ午、俗にいう会津っぽの血が流れ、頑固一徹でした。
 継母、嘉子が三淵の姓になった時、我が家にはそのような父と、そのような父の血を濃くひいた私がいたわけです。
 一人息子、芳武を連れて嫁して来た時、 継母はさぞや敵地に乗り込む進駐軍、といった心構えであったでしょう。
 はたせるかな、昨日仲むつまじかったかと思うと、今日はもう言い争い、といった風に波乱が起き、わが家は平穏 とはとても言いがたい状態になりました。」

一方、実父の記憶がない芳武 にとっては、初めての父親となった乾太郎は、どう映っていたでしょうか。

「新しい親父 はマイペースで、 休みの日には書斎に籠もって難しい法律書をずっと読んでいるような人でした。
 休日の前の日になると裁判所の車が風呂敷に入った書類をたくさん運んできます。これを、次々と読んでいましたね 。すごい人だなあと感心しました。」

芳武も性格的にマイペースな質で 、 乾太郎と波長があっていたようです。
後年乾太郎が闘病生活に入った時には、芳武が病院の送り迎えを担当したこともあったといいます。

二人は、こうして互いの子どもを育て上げました。
しかし、互いに裁判官として各地への転勤を繰り返すため、同居の 期間は決して長くなかったといいます。
それでも二人の仲は良く、この後の人生を良き伴侶として過ごしました。

自分が幸せじゃなきゃ、誰も幸せになんてできないのよ。

嘉子にとって、この再婚は幸せだったようですね。
これなら、優三さんもゆるしてくれるでしょう。

寅子と航一

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