心の修養としての「佗茶」
日本文化の代表する者の一つに茶道がある。日本的な佗茶(わびちゃ)の世界観だ。佗茶は、戦国時代村田珠光(じゅんこう)によって起こる。
書院で行う豪華な茶の湯に対し、簡素で簡略化された空間で日本的なわび・さびの精神を重んじる茶道だ。珠光は、茶の湯に「心の文(ふみ)」という古市播磨澄胤という弟子に与えた書を遺している。この書で、茶の湯は「道」であり、心の修養であると述べる。
さらに武野紹鴎(じょうおう)が佗茶の芸術性を高めた。
紹鴎の客
あるとき、紹鴎が客を招いた。客を迎えるに当たり、ある弟子に茶室に続く路地の掃除を命じる。
「今日の客人は格別に風流を好まれる。そのことを肝に銘じ念入りに路地を清掃しておきなさい。」
命じられた弟子は、路地に向かう。
『あれ、すでにとてもきれいに掃き清められている。これなら掃除の必要は無いな。』
路地には塵一つない。それを見た弟子は、そう判断した。
紹鴎の元に戻り、弟子は報告する。
「お師匠、すでに掃除は行き届いております。」
すると、紹鴎は別の弟子を呼んだ。そしてまた同じことを命じる。
「分かりました。」
と出て行ったこの弟子も、すぐに戻ってきて、
「既に掃除は終わっておりました。」
と述べた。
紹鴎はさらに別の弟子を呼び、同じように命じたが、その弟子も同じだった。
最後に呼ばれ命じられたのは、つい先日入門したばかりの15歳になる与四郎という少年だった。
与四郎が路地に行ってみると、掃除は行き届いている。そこで、与四郎はしばらく考える。
そして、路地の脇に生えている一本の木に近づき、幹を揺すり始めた。与四郎が揺らすと、ひらひらと赤く色づいた紅葉が散った。掃き清められていた路地の青ごけや下草の上を楚々と覆うように落ち葉が埋める。
ところどころに散り敷かれた落ち葉が、秋のわびしさを感じさせている。
師匠の紹鴎は、その様子を一部始終見ていて、満足そうに微笑んでいた。
日本の心
日本人は、塵一つない整然とした空間より、落ち葉が舞い、落ち葉が散り敷かれた空間にこそ、秋の「美」を感じる民族だ。
これは理屈ではなく感覚の問題なので、西洋の人に説明してもおそらく分からない。このような美意識をもつ民族としか言いようがない。
さらに、一見「わび・さび」を感じさせる「凡」の風景は、実は「非凡」な才能から生まれるのだということ。これも日本の心。
「常に今が勝負の時」
という研ぎ澄まされた心をもっているが、周囲に感じさせず、受け手は感じさせないその人の心遣いを感じ取る。
「わびしさ」「寂しさ」の中に、「優雅さ」そして「厳しさ」を初め、「すべての調和」を感じる感性が、日本人の美意識と言えないだろうか。
この与四郎こそ
与四郎は、まだ修行を初めて間もない弟子だったが、既に客人をもてなす佗茶の心遣いと美意識を持っていた。
秋に落ち葉が散る、などは何のことはない。いわば当たり前のこと。しかし、その当たり前を、茶の湯の美意識ととらえた与四郎少年。その少年の非凡さを、紹鴎は少年の掃除の姿一事を見て見抜いた。
この見抜く目も素晴らしい。
この与四郎少年こそ、のちの千利休であった。
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