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牧野富太郎の真実の人生【朝井まかでさん作の評伝小説『ボタニカ』から】

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ボタニカとの出会い

宇田川 榕菴うだがわ ようあん)が表した書に、『菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』がある。
菩多尼訶は植物学を意味するラテン語 Botanica の字訳

菩多尼訶(植物学)に、わざわざ『』を付け、菩多尼訶経としたのは「植物学の原書に書かれている本文」を、経文になぞらえて執筆したことによる。出版されたのは文政5年(1822)。

富太郎らが使う「植学」という言葉をつくったのも、この宇田川 榕菴だった。

富太郎は、10代末の小学校の教員時代に、「菩多尼訶」(ボタニカ)という言葉を知った。
ボタニカという言葉は、植物学の他に、「種」の意味ももつ。未来につながる「種子」だ。

小学校の先生を辞する

明治12年(1879)の春、17歳の時、世の中に教員が増えてきたのを機に、富太郎は小学校の授業生(代用教員)をやめた。

学校で教えることは面白く、自分のためにもなったが、研究は思うようにはかどらない。富太郎は、思い切って代用教員をやめ、高知に出て私塾に入った。そこで、五松学舎(ごしょうがくしゃ)という塾に入塾する。
同時に、一人暮らしを始める。初めての一人暮らしだった。

夢と希望を抱いての高知への進出。だが、現実はそううまくいかない。

五松学舎は、主に漢学ばかりを学ばせる教育方針だった。

「先生、英学はいつ教えてくれるがですろう。」
業を煮やした富太郎が、教授に質問する。

すると、その教授は、
「日本人の学問は、先ず漢学だ。これが出来なければ、全ては砂上の楼閣だ。」
と、述べた。

富太郎は、既に漢籍を苦労なく読める。また、十分に理解も出来る。何度か交渉してみたが、やはり答えはノー。
富太郎は教えてもらうことをあきらめ、またもや自学を開始した。

独学で模写の腕を磨く

富太郎は、独学のために書物を買いあさる。金に糸目は付けない。

あるとき岩崎灌園が著した本草図譜のうち、山草の類の筆彩写本を手に入れた。
この本は、明の本草学者李時珍が表した本草綱目に載る植物を、灌園は、本草綱目に載っている植物を全て図化することを試みた。
それが本草図譜

富太郎は、岩崎灌園の精密な絵を手本とし、模写に取り組んだ。
模写をすればするほど、灌園の優れた技能に舌を巻くばかりだった。

あるとき富太郎は、模写をしながら気がつく。

「おや、これは実際と違っている。」

葉の形、茎からの生え方、花の大きさ…。
今だ不完全な本草図譜を見ながら、自分は何を成すべきか、朧気ながら未来への「ボタニカ(種子)」を感じたことだろう。

「らんまん」に描かれなかった富太郎の人生を変えた、永沼小一郎先生との出会い

テレビドラマ「らんまん」には描かれていなかったが、牧野富太郎自伝永沼小一郎との出会いが紹介されている。

明治12年に高知へ丹後の人、永沼小一郎という人がきた。この人は神戸の学校の先生で、高知の師範学校の先生になってきたのである。
西洋語の多少できる人で、科学[サイエンス]のことをよく知っていて、植物のことにも詳しかった。永沼先生と私とは極めて懇意になった。早朝から夜の11時頃迄、話し続けたこともあった程である。
永沼先生はベントレーの植物の本を訳し、また土佐の学校にあったバルホアーの『クラスブック・オヴ・ボタニイ』という本の訳もし、私はそれを見せてもらった。

この人は実に頭のよい博学の人で、私は色々知識を授けられた。

永沼先生は土佐に久しくいたが、その間高知の病院の薬局長になったりした。化学・物理にも詳しく、仏教もよく知っていた。

永沼先生は植物学のことをよく知っていたが、実際の事は余りよく知らなかったので、私に書物の知識を授け、私は永沼先生に実際のことを教えるという具合に互に啓発しあった。

永沼先生は後に土佐を去り東京で亡くなった。

私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である。

牧野富太郎自伝より

牧野富太郎先生の「師」としては、佐川時代の伊藤蘭林先生に並び、高知時代の永沼小一郎先生を忘れてはならない。

『永沼小一郎の知識は広範で、放射状にありとあらゆる方に向けられている。』
富太郎は、話を聞くのが面白く、3日に開けず永沼先生を訪ねるようになる。

富太郎は、永沼先生から様々な知識を学んだ。永沼の知識は、蒸気機関、人体の働き、さらにはカルタ・遊戯にまで至った。

リンネの提唱した学名

永沼から学んだことに、植物の「学名」があった。

近代の植物学は、リンネから始まる。

「リンネと言う人が、植物に『学名』を付けることを提唱した。世界共通の『学名』があれば、植物の分類・体系化が図れる。目の前の植物が何者であるのか、良く知られているモノなのか、それともまだ無名のモノなのかが判別できる。新種だったら、見つけた者が草木の名付け親になる。」

リンネの弟子にツンベルクがいる。彼は来日し、日本の植物を採取し、帰国後にフローラヤポニカ(Flora Japonica・『日本植物誌』)を発刊した。

この本の愛読者が、シーボルトだった。シーボルトは、日本人の弟子とともに、フローラヤポニカに載っている植物を探して、日本では何と呼ばれているか、和名を探す研究をした。

この弟子は、本草学者・洋学者の伊藤圭介と言った。
当時、東京大学の理学部で教授を務めていた。

『草木の名付け親になる』
永沼先生の教えは、富太郎にとってまさにボタニカ(未来への種子)だった。

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