草分け
小学校の先生、富太郎
日本人の児童生徒は、学校で教師から指名されることを極端に畏れた。
だから、授業中お通夜のような状態になることがある。教師がひたすらしゃべり、児童生徒は、黙って話を聞く。日本の多くの教室で、そういう状況が起こっていた。
たまに、教師が児童生徒に質問し、ある子を指名すると、指名された子が泣き出してしまうことすらあった。このような状態が、昭和どころではなく平成の中盤あたりまで続いた。
明光義塾の授業風景
小学校中退の富太郎に、小学校の代用教員(授業生)になって欲しいという話が舞い込んだ。
ある日、牧野家に小学校の校長が直々に訪ねてきて、富太郎に「佐川小学校で子どもたちを教えて欲しい」と依頼してきたのだ。
「わしが、子どもたちに教えるがですか。」
富太郎は、小学校を2年足らずで退学している。
「牧野君が、小学校を退学したことは知っちゅう。しかし、学力は十分じゃあ。高知の師範学校に進まんかったのも、教えゆう事が、とうに知っちゅう事ばかりじゃあと、鼻を鳴らしたと聞いたぞ。」
富太郎は、『鼻を鳴らしたりはしとらん』
とは思ったが、確かに高知の師範学校に進学するかどうかを決めるため、学校見物には行った。そして、校長の言うとおり、教育内容に満足できなかったので進学しなかったのは確かだ。
富太郎は、『真に学びたいと思う子らがいるなら、教えてやるべきだろう。』と思い、引き受けることにした。
富太郎が、佐川の小学校で教えるようになって、あっという間に、1年と少しが過ぎた。
富太郎は、チョークで黒板に桃の絵を3つ描いた。
「ここに、桃が3つ入ったカゴがある。これに2を乗じて4つ食べたら、いくつ残るが?」
教場に座る子どもたちを見回し、岩吉という男の子を指名した。
「岩吉、どうじゃ。」
男の子といっても岩吉は、富太郎と同じ年の17歳。
指名された岩吉は、うつむいて、肩や腕をもぞもぞと動かすが、答えない。
岩吉は、この程度の計算など簡単にできる。
頭の中では、既に答えが出来ている。これまでの、岩吉を知っている富太郎にはそれが分かる。
しかし、皆の前で指名されると、狼狽して黙り込んでしまう。
人前で、答えを述べることに慣れていない。
特に、百姓の子にそういった質が多く、岩吉もそうだ。
友達の前で間違うことをむやみに畏れ、教員に対して、ひたすら畏れかしこまる。
明治になり、身分の垣根が取り払われ、皆平等となったはずなのに、このような習いは、心の芯に染みつきなかなか払拭できない。
日本人の心の癖、と言ってもよい。
「岩吉、どうじゃ」と、富太郎は再度促してみる。
すると、呟くような声で岩吉は「2つ」と答えた。
富太郎は、次の問題を出す。
今度は黒板に、桃の絵を5つ描く。
「さて、桃を7人で食いたいが、5つしか無いとする。あといくついる?」
前列の女児を指名すると、
即座に「2つ」と答える。
その女児の座る列を順に聞いて行くと、皆が同じ上に「2」と答えていく。
最後にその列の一番後ろに座っている先ほどの岩吉の番だ。
「岩吉、あといくついる?」
すると、岩吉は首を横に振った。
「いりません。」
「おー、要らぬか。」
富太郎は、ほおを緩めた。
「いくついる」と問われて、
「要らない」
と、答えるのは正解ではないが、不正解は往々にしてサムシングをはらんでいることがある。
『そうじゃ、こういう答えを待っておったがよ。」
子どもたちは、顔を見合わせてざわつく。
岩吉の顔は、熟柿のようになった。
「みんな、静かにせんか。岩吉、理由を教えてくれ。」
岩吉は、目をしばたたかせながら
「うちは、…」
と声を押し出すようにしゃべり出す。
「うちは、庭の桃の木からいつも桃を5つもいで、それを7人で食べよります。」
「ケンカにならんのか?」
と聞くと、何人もが笑い声を立てる。
岩吉が、さらに答える。
「なりません。」
岩吉は、黒板の前に進み出て、そこに描かれた桃のうち、3つの桃に斜線を引いた。斜線が引かれていない桃も二つある。
「これは、いかなる分け方じゃ?」
「1個まるまるを父ちゃんに食べてもろうて、後の3つを半分ずつ、じいちゃんとばあちゃん、わしと弟、妹が二人で分けるがです。」
「すると、1個あまるかんじょうになるが?」
「はい、母ちゃんに供えます。仏前に。」
「ええ分け方じゃ。みんなこの絵をよう見てみいやあ、5という数は、1が5つあるだけで出来ちゅうわけじゃあないことが分かるろう。『1と1、それに2分の1が6つ』でも5になる。他にもいろんな数がひそんじょりそうじゃのう。おもしろいのう。」
子どもらが、それぞれにつぶやき出す。
「うちは、4人じゃから…。」とそれぞれが、分け方を考え始めた。
ちなみに、桃は英語でピーチという。ペルシアという異国の名前が語源じゃ。
「中国では、古来仙木として扱われ、日本でも邪気を払うと信じられてきた。」
「古事記という書物に出てくる。イザナギの命が、桃を投げつけて黄泉醜女を退散させた話は、前にもしたろう。旧幕時代は諸藩が競って桃を作らしたゆえ、産物帳を見渡しても、柿・梨に次いで、桃が多い。」
放課後のクツワムシ
富太郎は、授業を終えると足の向くままに野山を巡る。
画帳や、採取道具はズタ袋に入れて、肩から斜めがけにしている。さらに草花を入れるために、洋物屋から買い入れた西洋のブリキ製の箱を、大中小とそろえ、これも肩からかけている。
富太郎が歩くたびに、このブリキ製の箱がぶつかって、ガチャガチャと鳴った。
小学校の生徒たちは、富太郎のことを陰でクツワムシと呼んでいた。
夏が過ぎ、秋が来た。
富太郎は、相変わらず小学校で教えるかたわれ、野山を巡っている。
佐川を抜け、南東へと歩くうち、富太郎は、鳥栖(とりのす】と呼ばれる地域に入った。
畦道を歩き、ふと土手を見ると、高さが15寸程度で一本の茎に数個ずつの花を咲かせる植物を見つけた。幼い子どもなら目の高さで眺められる。
赤紫色の、卵形の花弁が4枚ある。楕円を描く細長い葉。
初めて見かける花だった。
花は、一見ノボタンに似ていた。だが、ノボタンは常緑の低木。
だが、今回見つけた花は、明らかに草花だ。
「おまん、初めて会うのう。わしは牧野富太郎。おまんはだれじゃ。教えとうせ。」
「おまんのおしべは、黄色じゃの」
富太郎は、呟きながら、「おしべ」という言葉について思った。
かつての日本には、花のこの部分を呼ぶ言葉が無かった。
「おしべ」という言葉は、幕末の洋学者伊藤圭介が、植学の洋書を翻訳する際に訳語として編み出した言葉だという。
「おしべ」や「めしべ」という訳語がつくられたことで、植物のこの部分の働きを説明できるようになった。受粉の仕組は、今では小学校でも教えられている。
「伊藤圭介という先生は、洋学の草分けじゃから訳語をつくれたんかのう。」
「そしたら、わしは植学の草分けになるきね。」
富太郎は、見つけた植物に語りかけた。
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