「らんまん」で万太郎の妻、寿恵子さんの死が描かれるかどうかが話題となっている。もしかすると、生きている間に「らんまん」は終わるのかもしれない。だが史実の牧野壽衛子さんは、55歳の若さでこの世を去る。現在の練馬区東大泉の雑木林に広い土地を購入し、新居を建ててからわずかに数年後のことだった。死因は、子宮にかかわる癌だったのではないかと言われている。『家守りし妻の恵や 我が学び 世の中のあらん限りや スエコザサ』富太郎の歌が今も残っている。
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らんまんの最終週のタイトルは、「スエコザサ」だという。この週では、槙野寿恵子さんの死が描かれることになるだろう。
時代は、大正から明治に移る頃。
1923年(大正12年)に関東大震災が起こり、壽衛子の営む待合茶屋「いまむら」の経営にも影響がでてくる。震災による不況から、金融恐慌に至る一歩手前の時期であった。
壽衛子は結果的に、不況に陥る手前というよいタイミングで「いまむら」を売却することだできた。
らんまんでは描かれなかったが、関東大震災の後、壽衛子の待合茶屋「いまむら」の客の中に、支払いを踏み倒すたちの悪い客が出てきた。そのせいで待合茶屋「いまむら」は経営が困難になっていく。これが売却の理由だったが、
らんまんの「山桃」売却については、経営の行き詰まりの様子は描かれず、とてもきれいに「山桃」を売却している。
壽衛子は、「いまむら」売却で得たお金で、現在の練馬区東大泉の雑木林の中に広がる土地を購入した。そこに家を建てる。
震災から3年後、大正から昭和に世が移る1926年に新居は完成する。
そこで、ほんのわずかな期間、富太郎と壽惠子は幸せな時を過ごす。
それからわずか2年後の1928年、昭和3年。
壽衛子は、55歳の若さでこの世を去ることになる。
壽衛子の死因は、実は明らかにされていない。
おそらく子宮にかかわる癌だったのだろうと言われている。
牧野富太郎自叙伝には、次のようにある。
『昭和3年2月23日、55歳で妻壽衛子すえこは永眠した。病原不明の死だった。病原不明では治療のしようもなかった。世間には他にも同じ病の人もあることと思い、その患部を大学へ差し上げるからそれを研究してくれと大学へ贈った。
(牧野富太郎自叙伝)
また、剣客商売や、鬼平犯科帳などで知られる作家、池波正太郎の小説集、『武士の紋章』の中の『牧野富太郎』には、こうある。
『病気は卵巣がんだった。大泉の新居にも移り、自分が死んだ後も、丁度、結婚に失敗して戻ってきたしっかり者の次女の鶴代が富太郎の面倒を見てくれると思うと安心もあったのか、壽衛子は苦痛に耐えて、安らかに永眠したのである。』
『武士の紋章』の中の『牧野富太郎』より
壽衛子は、自分の病気を家族に知らせないようにしていた
壽衛子は、大分前から不規則な出血があったり、腹部の異常を自分では感じていたりしたという。
しかし家族に、とりわけ富太郎には、自分の異常を知られないように生活していた。
おそらく、富太郎の研究に負担とならないよう、また家計の負担にならないよう、治療費や入院費など、家族に負担をかける出費がでないようにしていたのだと思われる。
当然富太郎は、妻の健康状態には一切気付かなかったようだ。
また、病気が発覚した後も、それまでと変わることなく家を空けて採集旅行に出かけ、何不自由なく研究の日々を続けている。
富太郎の研究は、文字通り妻である壽衛子の献身的な努力によって支えられていたのだ。
『家守りし妻の恵や 我が学び 世の中のあらん限りや スエコザサ』
富太郎が、この歌を詠んだのがせめてもの救いだ。
本音のところでは、「富太郎先生、もうチョットだけ妻を大切にしろよ」と、思ってしまう。
だが、おそらくこう言ったら、壽衛子さんには叱られるだろう。
「私は、ちっとも夫に不満はありませんよ。私のそばに夫がいなくても、夫が学問をしている姿を想像すると、わくわくできるのです。『ありがとう』、と心から思えるのです。」
そう、おっしゃられる気がする。
とにもかくにも、壽衛子さんは、家族に自分の健康状態を気付かれないようにしていた。そしてこの家族への献身的な愛の姿勢が、壽衛子さんの死期を早める一因となったような気がする。
病状は、確実に進行していたのだった。
らんまんで描かれる『幸福』
竹雄と綾、そして藤丸が創り上げた新酒が登場
らんまんの最終週では、史実では起こらないことが描かれる。竹雄と綾、そして藤丸が念願の新酒を創り上げ、槙野家を訪れる。
寿恵子、虎鉄と千歳、そして千鶴など槙野家の皆々が家族で過ごす時間が描かれるという。
物語の中ではこの新酒は「輝峰」と命名されている。
物語のエンディングとして、竹雄と綾、藤丸の努力が実り本当によかった。
万太郎の図鑑の完成
滝沢馬琴の八犬伝になぞらえ、槙野万太郎が『夢』として一生を捧げてきた「図鑑」がついに発刊される。
3206種類の植物が掲載されている図鑑の最後のページは、「スエコザサ」
史実では、壽衛子さんの生前には実現できなかった。
だからこそ、らんまんの寿恵子が、植物誌に載る「スエコザサ」を自分の目で見ることができたエピソードはうれしい。
これ以上はない、「喜び」の瞬間として描かれるだろう。
理学博士の学位取得
この頃、富太郎は学位を取得する。
学位なしで研究に取り組んできた富太郎(万太郎)にとって、人に勧められて実現した学位取得は「幸福」に当たるかどうかは分からない。だが、一般の人間としては、昭和2年の『理学博士の学位取得』は慶事だ。
これによって、給料も大幅にアップした。
本人からすれば、もしかしたら「今さら学位など欲しくない」という気持ちもあったかも知れない。だが、まわりの者たちの心遣いはうれしかったはずだ
壽衛子さんも、自分の死の前に夫が学位を取得できたという事実は、彼女の苦労へのねぎらいの一つと感じられたのではないだろうか。
牧野富太郎先生の一生を描く『ボタニカ』に描かれる壽衛子の晩年
らんまんは、ほぼ全てがハッピーエンドで終わるだろう。
だが、史実の牧野富太郎と壽惠子さんの晩年はどうだったか。この点は、小説ではあるが「ボタニカ」である程度分かる。
「ボタニカ」に描かれる新居
壽衞が商いをやめて香代(富太郎の次女・実質長女、らんまんの千歳のモデル・離婚して実家に戻ってきた)も帰ってきたことでもあるし、焦土となった都心から離れて静かな土地で暮らすのもよいかという気持ちもあった。すると二人はさっそく土地を探し、~
(中略)「齢(よわい)65にして、ようやく我が家を持つか」
「ボタニカ」
(中略)壽衞と所帯を持って以来、30回以上も引っ越しを繰り返した。
(中略)大正15年5月3日新居への引っ越しを果たした。(大正15年は1925年。同年12月25日から昭和と改元)
(中略)「この地を終の棲家(ついのすみか)としよう」
らんまんでは、万太郎夫婦は、ずっと十徳長屋で暮らしていたように描かれている。だが実際は、生涯30回以上も家移りをしている。
中には、家賃が払えず夜逃げ同然に引っ越しをしたところもあるという悲惨な現状だった。
そして、富太郎が65歳、関東大震災の2年後となる1925年(大正の最後の年)に、富太郎と壽惠子は、終の棲家となる新居に移った。
「ボタニカ」に描かれる壽衛子の病気の様子
1927年(昭和2年)のことだった。
~壽衛子が台所の床に蹲(うずくま)っていた。
「ボタニカ」
~当人の口からはうめき声しか漏れず、よほどの痛みをこらえているのか、こめかみに脂汗が滲んでいる。腹だ。壽衛子は体をもむようにして下腹を押さえている。
~駆けつけた近所の医者は「大学病院で検査を受けた方がよろしい」と勧めた。だが本人は、
「少し疲れが出ただけです」と言い張って引かない。
病院は厭です。
と、あるように壽衛子は、病院へ行くのも、嫌がっていた。
『家族に迷惑をかけたくない。家計の負担になりたくない。』という壽衛子の倫理観がそうさせたのだろう。
壽衛子は、一度倒れたが、その後小康状態を取り戻している。
すると家族も、「たいしたことはなかったのかもしれない」と思ってしまったようだ。
娘たちと廊下でまめ向きをする姿なども見られたので、富太郎は、普段の研究生活をそのまま続けている。
だが、そうこうしているうちに、壽衛子がまた倒れた。
今度は、流石の富太郎も壽惠子を、目白台の東京帝国大学医学部附属医院分院に入院させた。
すると、医者から壽衛子の悪性腫瘍を宣言された。
「悪性の腫瘍を患っておられます」
「ボタニカ}
「奥さんご本人にも確認しましたが、何年も前から出血があったようですな」
子どもたちと顔を見合わせた。誰も初めて知ったとの面持ちで、目を見開いている。
富太郎は自叙伝の中では「悪性腫瘍」だとは言っていない。だが、おそらく「ボタニカ」に描かれているように「悪性腫瘍」つまり癌だったのだろう。
そして、何年も前から「出血」があったが、壽衛子はそれを家族の誰にも言わなかった。
富太郎は、医者に「手術」は出来ないのかを相談した。だが、医師からは、「手術は勧めない」と言われている。
壽衛子の癌は、既に手遅れの状態になっていたようだ。
それでも、普段の研究生活を続けた富太郎
一月ほど入院し、壽衛子は退院した。
富太郎は、壽衛子には「病状」を話さなかったようだ。「彼女が癌であること、手遅れ状態であること」を、黙っていた。
そして、自分は、普段と変わらない研究生活を続けている。
富太郎は、壽衛子が退院した翌日に学生らと共に、長野に3泊4日の採集旅行に出ている。
四日目の夜に帰宅したが壽衛子は既に寝ていたので、翌日からまた出かけている。
千葉・大阪・静岡などを巡り、帰宅後数日だけ自宅に滞在。すぐにまた、青森・秋田へ採集旅行に出て行った。
もともと富太郎は、家庭のことはあまり話さないタイプだった。もちろん、このときの旅行でも、学生たちに「妻が病気だ」などという話は一切しなかった。
富太郎としては、『自分が外出を減らしてしまったら壽衛子が「自分の病気は申告なのだろう」と疑うかもしれない』というような思いがあったのかも知れない。
さらに学生たちには、「心配をかけたくない」という意識も働いただろう。
良きにつけ、悪しきにつけ明治の男だった。
ちなみに、竹雄と綾のモデル和之助と猶(なお)さんは、酒屋を復活させていない。当然「新酒」をもって富太郎の新居を訪れるという事実は無かった。
さらに、虎鉄と富太郎の娘との結婚も無い。
家族団らんのメンバーはらんまんで描かれることになるメンバーとは違っていた。
残念ながら、らんまんで描かれるような家族風景とは若干違っている。
壽衛子の死と「スエコザサ」
昭和2年の暮れ、富太郎は、盛岡でササ類の採集をした。
そこで、草丈が1,2メートルあるササの群落を見つけた。葉の多くの片側が裏に向かって、やや巻くような形をしている。葉の表面には、白い長い毛が不規則に見られた。
富太郎は、一目見ただけで、これは「新種だ」と感じた。
「スエコザサ」の発見であった。
年が明けて昭和3年。
壽衛子の下腹部の痛みは、耐えがたくなり、痛みの波が来ると七転八倒の苦しみ様だった。
壽衛子の様子を見て、再度壽衛子を入院させることになった。
富太郎は、壽衛子の病室を訪れ、壽衛子の耳元で今度見つけた笹の話を始めた。
「ボタニカ」に描かれる「スエコザサ」
「そういや、去年仙台で発見した新種のササにな、お前の名をつけたぞ」
「ボタニカ」
(中略)刊行日は2月末、原稿はまだ執筆中だが草稿なりとも見せてやりたくて(植物研究雑誌の草稿を)懐に入れてきた。
「ほれ、わかるか。英語の論文やが、お前の名が載りゆうがよ」
壽衞は黙って見つめ返している。ひび割れた唇が微かに震えた。
「牧ちゃん」
やけに明瞭な声にたじろいで、狼狽した。「なんじゃ」と聞き返した声がかすれる。
残念ながら、壽衞は「スエコザサ」が、植物雑誌に載っている実際を見ることは出来なかった。
だが、おそらくその草稿は目にしたのだと思われる。
「牧ちゃん」という声の続きには、「ありがとう」という言葉があったのだろう。
この一言に、壽衛子の人生が詰まっているように感じられる。
そして運命の2月23日、牧野家の家族たちに、医者から「お覚悟を」という言葉が告げられた。
「今こそ、僕は感謝をつげねばらならん」
「ボタニカ」
はねるように立ち上がった。
「世話になった。有難う」
腕を体にぴったりとつけ、最敬礼をした。数瞬の後、壽衞は息を引き取った。
およそ40年もの間、共に生きた。子を13人産み、6人を育て上げた。
らんまんでどう描かれるかは分からない。
だが、私にはこのときの富太郎の描写が、心に残る。
実際には、スエコザサが掲載された「植物研究雑誌」を壽衛子は見ることは出来なかった。
残念だ。
家守りし妻の恵や我が学び
世の中のあらん限りやスエコザサ
まとめ:壽衛子の死後、病巣を大学へ寄贈
富太郎は、壽衛子の死後病巣の一部を大学に寄贈している。
同じ病気に苦しむ人たちの研究に役立てて欲しい、ということだった。
このエピソードからも、研究者としての富太郎の在り方がうかがえる。
壽衛子の死因について、確かに明確な記録は無い。
だが、残される事実をつむぐと、おそらく死因は「子宮にかかわる癌」だったのだろうと思われる。
池波正太郎先生の作品『武士の紋章』中の「牧野富太郎」では、「卵巣癌」と記されている。
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