日清戦争終了後の明治29年(1896年)、助手となって大学に戻って間もない牧野富太郎博士は、台湾視察団の一員に推薦される。この当時の台湾は、日本人にとって危険な場所であった。だが国も命令であり、教授の命令でもあるので富太郎博士は断り切れない。軍の関係者から、ピストルを自費で買ってもっていくように言われる。「らんまん」では、護身用のピストルを買わずに台湾に出向いたが、はたして史実はどうだったのだろうか。また、台湾で案内人となった陳志明(ちんしめい)という青年には、モデルがいたのだろうか。この2点について調べた。
調べたこと:まとめ
- 陳志明という人物のモデルは、確定できなかった。
- 牧野富太郎先生を扱った「ボタニカ」には、「コウ」という陳志明のモデルと思われる人物が出てくる。
- 「コウ」は、絵が好きで富太郎先生の植物画に感心し、富太郎は「コウ」の絵に感心する。
- 牧野富太郎博士は、本当はピストルと弾薬を購入し、台湾にもっていった。
- 後年、牧野富太郎先生は台湾使節団のことをほとんど語っていない。(この事実から考えると、台湾調査の実りが少なかったか、記録に残したくない出来事があったかだろう。)
- この調査で、愛玉子(オーギョウーチー)などを見つけている。
牧野富太郎博士の台湾調査と陳志明との出会い
明治27年(1894年)日本にとって、大きな出来事があった。
日清戦争だ。
朝鮮進出を図る、日本と清の両国の利害がぶつかり戦争になった。
この戦いは、世界中のほとんどの国が、大国清が優利だろうと予想した。
しかし、蓋を開けると清は、「眠れる獅子」ではないこと世界に示し日本に敗れる。
翌年、下関で講和条約が結ばれ、清は挑戦の独立を認め、なおかつ日本にリヤオトン半島や台湾を割譲した。
これにより、台湾は日本の領土となった。(下関条約)
そこで日本政府は、日本の一部となった台湾を調査するために視察団を送ることになる。
この視察団の一環として、「台湾の植生調査」も含まれていた。
この調査を担当する人物として白羽の矢が立ったのが、松村任三教授(らんまんの徳永教授)によって、大学の助手身分を得て間もない牧野富太郎先生だった。
断りきれない富太郎先生
「らんまん」では、なんと富太郎先生の借金返済を助けてくれた皆川猿時さん演じる岩崎弥之助が、万太郎を使節団派遣に推薦していた。
また、大恩ある里中教授(縁者・いとうせいこう)も、
「君を選びたい」と万太郎を推薦する。
だが、不穏な空気…。
確かに、万太郎にとっても史実の富太郎にとっても、植物分類学者として台湾派遣団員に推薦されることは名誉ではあったろう。だが、それ以上に未開の地への派遣は危険を伴う。
『出来れば、行きたくない。』
そう、思ったとしても不思議では無い。
おまけに、国からの推薦を伝えに来た軍のお偉いさんから、
『護身用のピストルを自費で買って携帯せよ』
と、命令を受ける。
『これは、やばい』
そう、思っただろう。
ところが、万太郎はピストルを購入しないし、台湾に携帯もしていかなかった。
まあ、これは「らんまん」という架空のドラマ内の設定。
史実は、もちろん護身用のピストルと弾薬を購入しているし、実際に台湾にもっていっている。
この事実は、富太郎先生が残した日記の中に残っている。
案内人、陳志明との出会い
ピストルを携行していない万太郎は、代わりに植物雑誌をもっていく。
台湾に着いた万太郎は、案内役の陳志明(朝井大智)と出会った。
台湾に着いた万太郎は、軍から「台湾の言葉を使ってはいけない」と言われていたにもかかわらず、現地の案内人の陳志明に台湾語で話しかける。
万太郎は、きさくな雰囲気で打ち解けたかったのだろうが、陳の方は何やらきな臭い雰囲気を漂わす。
どうやら、万太郎が持っているであろうピストルを奪うことを、ねらっていたようだ。
万太郎、調査中に倒れる
史実的には、1896年(明治29年)・10月、富太郎博士は台湾の基隆(キールン)に入港した。
そこから、約2か月をかけ台湾を縦断し南部の中心都市・高雄(カオシュン)まで採取旅行を続けている。
おそらく厳しい調査だったのだろう。
このときの調査について、牧野富太郎博士は、この後ほとんど語らないし、書物にも残していない。
このことから考えて、台湾現地調査は、思い出したくない記憶だったのだと思われる。
「らんまん」の中では、雨に打たれ、意識を失った万太郎が陳志明に担がれて避難している場面が描かれている。陳は、万太郎がピストルを持っていないかと荷物を探るが、ピストルは無かった。
『なんだ、陳はやはり危ない奴だったのか。』
と、思わせる演出の後、万太郎の植物画を見つける。
そして、食い入るように絵を見つめる。
この後、万太郎の植物画が万太郎の命を救う、という展開になるのだろう。
陳志明という人物はいない。モデルも見つからない
さて、この陳という人物にはモデルがいるのだろうか。
探してみたのだが、
結論は、『見つからなかった。』だ。
ただし、牧野富太郎先生を扱った小説『ボタニカ』には、それらしい人物が登場する。
そして、怪しい人物ではない。
小説に描かれているので、おそらくモデルとなる人物はいたのだと思われる。
ボタニカに描かれる陳のモデル「コウ」について
台湾視察団に、富太郎に同行した人物がいた。内山富次郎だった。
内山富次郎は、明治九年園丁取締上席植木職として傭入せられて以来、園内の植物に通じるだけでなく、日本や朝鮮半島に植物採集に出かけ、生品や標本の収集に貢献した
基本的に現地調査は、この二人で行った。
ただし、英語がしゃべれる現地の案内人を雇っている。
「コウ」という名の人物だった。
この人物と、富太郎先生との間には、らんまんの陳と万太郎のようなピストル窃盗未遂のような事は起きなかった。
ただ、植物画にまつわるエピソードが描かれている。
「コウ」の描く絵
「コウ」は、あるとき富太郎先生の描く絵を見て、興味を示す。
そして、「先生の絵はすごく、上手」と富太郎に言う。
そこで富太郎は、自分の画帖から1枚をちぎってわたし、画板と鉛筆を貸し与えた。
鉛筆の持ち方、筆圧など、細かなことも教えた。
「コウ」は、近場に腰を下ろし、鼻をひくひくしさせながら絵を描いた。
2か月の調査期間を終え、富太郎たちは帰国することになった。
案内人の「コウ」とも、別れの時。
帰り支度をしている富太郎の部屋を、「コウ」が訪ねてきた。
「世話になった。元気でな。」
という富太郎に、「コウ」が何かを差し出す。
「あなたがたも、お元気で。」
そう言って、「コウ」はその場を去って行った。
「コウ」が去った後、渡されたものを見ると、それは富太郎が「コウ」にあげた画帖から切り取った画用紙が4つ折りにされたものだった。
富太郎は、紙を広げてみて、あっけにとられた。
ドウランを斜めにかけた着物姿で、尻ばしょり、足下はわらじに脚絆(きゃはん)。首には手ぬぐい。右手に画帖をもち、左には採取した台湾の百合を抱えている。眉は濃く、髪が黒々と盛り上がり、歯をニッカリと見せて笑っている。
『ゆかい、ゆかい、大収穫』
破顔一笑
そういうつぶやきが、絵から聞こえてきそうだ。
「これは、僕か」
と、富太郎が呟く。
「コウ」の絵は、まるで写真のような細密画だった。
「えらい妙手に指南してしもうた。」
「わしが教えを請わなければならなかった。」
と、富太郎は頭をかいた。
こういうエピソードが、ボタニカにある。
「らんまん」は、このエピソードを膨らませたのだろう。
「愛玉子」を見つけた日本人
愛玉子(オーギョーチー)は、台湾特有の植物由来のゼリーのような食べ物だ。
愛玉の原料となる植物は、俗称は愛玉子(アイギョクシ)という。
学名は「Ficus pumila L. var. awkeotsang (Makino) Corner」
学名に「Makino(牧野)」が入っている。
つまり、この植物の名付けは牧野富太郎博士だ。
クワ科イチジク属・つる性植物。
台湾中南部・嘉義で標本を採集し、1904年に新種の植物として報告。
それがMakinoが学名に入っている愛玉子だった。
コメント