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国民的課題「国防」、国防の何に「問題意識」をもつか

令和5年1月4日

日本人に差し迫った国民的課題「国防」

 「日本の喫緊の課題は何か。」
 と、問われたら多くの方が『国防』と答えるのではないだろうか。

 だが、一部の方は、
 『攻められたら、降伏すれば良い。奴隷になったとしても命の方が大切だ』
 とか、
 『攻められるはずがない。日本がいらんことをするから逆に相手が怖がって日本を攻めるのだ』
 などとおっしゃる。

 仮に日本が『何もしませんよ。軍備など備えませんよ。』と言えば、相手国は攻めてこないのか?

 そんなことはない。歴史を見れば明らかだ。
「国防」を考える際、まず歴史を振り返り、学ぶことから始めなければならない。
 この点について、東京大学名誉教授 小堀桂一郎氏は、『産経新聞令和5年1月4日』の紙面で次のように語っている。

産経新聞より:小堀桂一郎 東大名誉教授
目次

『ロシアの北海道侵攻』について

 ロシアは、ウクライナを取るか北海道を取るかを検討し、『ウクライナ』を選択したと言われる。まかり間違えば、ロシアの北海道侵攻はあり得たかもしれない。

 小堀教授は次のように言う。

 もしロシアがアイヌ人の保護のためと言う荒唐無稽の名目を掲げて北海道に侵攻してきた場合、昭和20年夏の樺太と満州で同胞が体験したソ連軍の蛮行が、現にこの皇土の内部で反復実現されるであろう危険を真剣に肝に銘じておくべきである。

ウィキペディア:小笠原丸
『産経新聞令和5年1月4日』の正論より
昭和20年夏の樺太と満州で同胞が体験したソ連軍の蛮行とは、どのようなことか。

 昭和16年12月の国勢調査では、樺太に40万強の日本人が暮らしていたという。

 昭和20年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄。11日から樺太侵攻が始まり、日本軍と戦闘となる。

 8月15日の終戦後も、ソ連軍の攻撃は続いた。20日には、樺太西海岸の拠点、真岡町にソ連軍上陸。
 22日には、島民に内地への引き揚げ命令が出ていたが、ソ連軍は樺太庁があった豊原市を爆撃し、戦争が終わったと信じていた100人以上を死亡させた。
 同日、引き揚げ者を乗せ、北海道・小樽に向かっていた小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3隻が国籍不明の潜水艦(新聞ではこう言わざるを得ないのだろうが、ロシアの潜水艦)の攻撃を受け、第二新興丸を除く2隻が沈没、1700人以上死亡した。犠牲者の大半は女性や子供、老人だった。(三船殉難事件)

 ソ連兵は傍若無人だった。短機関銃を構えて民家に押し入っては時計や万年筆、鏡など貴重品を手当たり次第に略奪したが、黙って見ているしかなかった。

 強姦(ごうかん)も日常茶飯事だった。近藤ら若い女性は髪を短く切り、作業服姿で男のふりをして日中を過ごし、押し入れか屋根裏で就寝した。ソ連兵が家に押し入ると押し入れで息を潜めたという。

 昭和20年のロシアの「蛮行」というが、現在ウクライナで行われているロシアの行いが、樺太での蛮行そのものだ。つまり、残念ながらロシア兵の思考・行動パターンは、80年弱の時を経ても少しも変わっていないのだ。

 このような蛮行が、『北海道で現実に起こる可能性がある』
 『攻めてこないよ』
 『日本が刺激しないように、軍備を整えなければ分かってくれるよ』
 などという、考えは通用しないことを肝に銘じたい。

ウソの『南京事件』、真実の『通州事件』

Amazonより:通州事件を扱った雑誌

 さらに、小堀教授は次のように指摘する。

 同じ脅威が列島の西南部、尖閣諸島を先端とする沖縄県の島々にも迫っている。ロシアと同様、覇権欲に駆られた、独裁者を国家元首とする。中国の軍隊の質の劣悪は現に紛争地のロシア軍のそれとほぼ同様だと見てよい。
 平成28年に設立された「通州事件・アーカイブス」文献の収集を終わり、『通州事件・目撃者の証言』を刊行している。
 昭和12年7月29日河北省通州で発生した日本人居留民の大量虐殺事件の残酷な記録は、事実上読みに耐えない凄惨さに充満したものである。
 もしあの国の軍隊が日本の領土に侵入してくれば、同様の残虐事件が必ず起こるであろうとの警告として、不快をこらえて読んでおく方が良い。

『産経新聞令和5年1月4日』の正論より

 南京事件はウソだが、通州事件は中国も認めている事実。通州事件の残虐さこそ、彼らの本性。
 「国防」を考えるときは、中国の民のこの残虐性を忘れてはいけない。

通州事件

 通州事件とは、1937 年(昭和 12 年)7 月 29 日に中国の通州において冀東(きとう)防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した事件。

通州事件とは何か

① 概要
 昭和 12 年 7 月 29 日、冀東(きとう)防共自治政府(日本の傀儡政権)保安隊千数百名が、日本軍留守部隊約 110 名と婦女子を含む日本人居留民約 400 名を襲撃し、約 230 名が虐殺された事件。

 日本軍機が通州の保安隊兵舎を誤爆したことに対する報復とされた来た。しかし、叛乱首謀者である帳慶餘(第一総隊長)の回想記から、防共自治政府(日本の傀儡政権)保安隊員が、居留民保護と称して暴虐の限りを尽くしたことが明らかとなる。

② 非戦闘員に何をしたか
● 一家ことごとく首と両手を切断
● 強姦、裸体で陰部露出のまま刺射殺、陰部に銃剣突刺や箒の押しこみ
● 数珠繋ぎにされ、手足を縛られた儘強姦、斬首
● 男は目玉をくりぬかれ、上半身は、蜂の巣状
● 路上放置された屍体 腹部の骨露出、内臓散乱
● 鼻部に針金を通された子供や片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦
● 池に、首を縄で縛り両手を併せて八番線を貫通させ一家六名数珠繋ぎの死体
余りにも残虐。人間のなせる所業ではない。


③ 通州事件のその後
 1937 年(昭和 12 年)12 月 24 日、冀東政府と日本政府の間で、中国側の正式陳謝と将来の再発防止を保障し、被害者に対する弔意賠償金を支払うこと及び 犠牲者の慰霊塔建立の敷地提供。

 

 この事件について、多くの日本人は知らない。
 このような残虐性は、日本人には分からない。だが、彼らにとっては伝統的に行われてきた一種の文化であり、現在も同じような劣悪性をもっているようだ。

 この点も、小堀教授が言うように忘れるべきではない。

令和5年1月4日

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