令和6年の大河ドラマ『光る君へ」が面白い。
脚本は、大石静さん。これまでにも、「ふたりっこ」や、「巧妙が辻」、「セカンドバージン」などを手がけ、大ヒットを飛ばした凄腕脚本家。今回、大石さんは、令和6年大河の話が来てから平安時代について勉強しだしたのだとか。それにしては、この時代のことをよく調べていらっしゃる。おそろしくよく出来た脚本で、『さすが大石さん』とうなってしまいます。
ですが、「光る君」を見て、『紫式部と藤原道長は、幼少時代に本当に出会っていたのだろうか。本当はどうだったのだろう』と、悩んでいる人も多いのではないでしょうか。
この疑問について、社会科教師歴30有余年の私、尚爺が解説いたします。
このブログを読めば、「光る君へ」と史実を比べながら、より大河ドラマを楽しく視聴できるはずです。
紫式部と藤原道長について、概略紹介
小学校の先生方の虎の巻、『学習指導要領』の『解説』に、授業の中で絶対に取り上げなければならない人物の名前が42人載っています。
紫式部も、藤原道長もその中に含まれるので、
小学校の授業を受けた人なら、すべての人がこの二人の名前を一度は聞いたことがあることになります。
さらに、小学校の学習では『人物の働きを通して、歴史を学ぶ』ことになっています。
こうして日本人全員が、『紫式部の業績・藤原の道長の業績を調べ』、『日本の歴史』を学んいることになっているのです。
『紫式部の働き』と『藤原道長の働き』を通して、何を学習したか
では、復習です。
紫式部の業績を通して、『小学校では何を学んだでしょうか』
一言で言うと、「(平安時代の10・11世紀ごろ)、『仮名文字の発達(日本風の文化)』が生まれましたよ。」
ということを学びました。
菅原道真の意見で遣唐使(894年)が廃止されたころ『大陸文化のまねっこ文化』から離れ、『日本風の文化』整ってきました。
その代表格が、源氏物語を書いた紫式部。
平がなや片かなで書かれた世界最古とも言われる女性作家が書いた小説です。
もう一つ、華やかで優雅な『貴族の生活(日本風の文化)』も、学んだはずです。
その貴族の生活の代表が、藤原道長さんでした。
寝殿造りの屋敷に住み、雅な服装で、「望月の歌」を詠んだトップ・オブ・ザ・貴族です。
「道長は、権力を手にするために自分の娘達を次々と天皇の嫁にしたこと」
「権力を手にした藤原氏は、全国に荘園を保有し、莫大な富を手にしたこと」
「これにより、時代は天皇中心から貴族が力をもつ世へ移ったこと」
小学校では、人物が中心の学びを行いました。
そして中学校では、歴史の大きな流れを学びます。歴史の大きな流れを掴むために人物の業績をちりばめます。
「人物」と「歴史の大きな流れ」という学びの視点は違いますが、学ぶ内容としては小・中とも大きく異なりません。
中学校では、小学校で学んだ人物学習を元に、歴史の大きな流れとして、
「外国の文化を取り入れて『律令国家』を成立させ、天皇中心の世の中になった」
さらに、「取り入れた外国の文化を日本風にアレンジして国風文化を創造し、貴族の世が訪れた」
文章で表現するとすると、小学校は学んだ内容を表現したとき「短文並列」でも良いです。
しかし中学校では、学んだ要素を関連付けて網羅的に表現し、前時代との時代の特色の変化を表現できるようになることが要求されます。
ただ、『紫式部と藤原道長に接点があった』などというトピックは、おそらく小学校でも中学校でも、目にも耳にもしていなかったでしょう。
幼少期に、紫式部と藤原道長が出会うことは有り得たか
貴族の娘が路地を走る
「光る君へ」では、まひろ(紫式部の幼名と設定)ちゃんが、逃げた鳥を追いかけて路地を走り回っていました。
現代人の私たちには、まったく違和感がありません。
ですが、曲がりなりにも貴族のお姫様のまひろちゃんが、「路地を走り回って小鳥を探す」などということはありえません。
まひろちゃんの家は、確かに貧乏だったようですが、それでも貴族は、貴族。
外を走り回るどころか、家から自分の足で外に出るなど、ほぼなかったでしょう。
また、貴族の御曹司の三郎(道長の幼名として設定)が、「散楽(辻芸能)を見に、町にひょこひょこ牛車にも乗らず出かけていく」などということも、まずないでしょう。
ですので、「二人が幼少期に町で出会っていた」という可能性は、ほぼゼロ。
この出会いは脚本家大石さんの、創作といえます。
紫式部と道長の家系
紫式部の家系
紫式部の父は、藤原為時さん。
文章生(もんじょうしょう)出身の学者でした。
紫式部の父も母も、ともに藤原北家・左大臣冬嗣の流れを組むれっきとした藤原氏です。
ですが、系図を見ても分かるとおり、藤原の嫡流の『道長』の家系から見たら、端っこの端っこの藤原氏でした。
父方の先祖は、後醍醐天皇の生母・胤子を出した勧修寺流の祖・正三位高藤の異母弟で、従四位上右近中将利基です。
利基の六男の兼輔が紫式部の曾祖父。
ひい爺さんの兼輔も、古今和歌集以下の勅撰和歌集に45首入選した歌人。
しかも、三十六歌仙の一人に数えられる大歌人でした。
まひろちゃんが住んでいる家は、このひい爺ちゃん兼輔が建てた家です。
まひろちゃんは、ひいじいちゃんの代からあの家に住んでいたわけです。
そして、祖父が雅正(まさただ)さん(兼輔の長男)。
おじいちゃんも、学者で歌人。後撰和歌集に7首入選しています。
地位は、従五位下刑部大輔。
周防守 と豊前守を務めました。
ですが、豊前守任期中に死去してしまいました。
そして、まひろちゃんのお父さんが為時(ためとき)。雅正の三男でした。
お父さんも、文章生出身の学者で歌人。
新古今和歌集や後拾遺和歌集に歌が載っています。
為時お父ちゃんも、受領になったのは2回。
「光る君へ」でも描かれていたように長い間役職に就けない時期がありました。
ということでまひろちゃんの家が、とても貧乏だったというのは本当です。
お母さんも、藤原北家の冬嗣の兄弟の長良(ながら)が祖でした。
父は、冬嗣の次男良門の家系、
母は、冬嗣の三男長良の家系ということで、この時代ありがちですが近い血筋で結婚しています。
お母さんは、道兼に殺されたのか
「光る君へ」では、紫式部が幼いときに道長の兄の道兼にお母さんが殺されてしまいます。
この先のまひろと三郎が気になります。
『やりますね、大石さん』と、うなってしまいました。
実は、紫式部のお母さんは、早い時期に亡くなっているというのは史実です。
ですが死因についても、その時期についても詳しくは分かっていません。
ただし、「貴族の道兼が自らの手で人を殺す」というのは、まず考えられません。
当時の貴族は、『穢れ』を嫌いました。
その中でも『血の穢れ』は、最も避けなければならない禁忌だったはずです。
貴族の道兼が、自ら血の穢れで、身を穢すなど考えられません。
「光る君へ」では、脚本の大石さんがお話として、見る人の目を引きつけるために『三郎(道長)の兄が、まひろ(紫式部)の母を殺してしまう』という設定を考えたのでしょう。
おかげで、『この後、三郎とまひろはどうなっちゃうんだろう』と、モヤモヤ・ヤキモキ・ドキドキです。
父、為時は二番目の妻の元に通い婚
為時は、紫式部たちの母親が亡くなった後に再婚しました。
式部たちの家から後妻の元に通っていたようです。
おそらく紫式部は家に母もいない父もいない、という淋しい幼少期を過ごしたでしょう。
二番目の妻と、為時の間にも3人の子がいました。
その子のうちの一人惟通(のぶみち)は、常陸(ひたち・現茨城県あたり)の介にまで出世しています。
紫式部が生まれたのはいつか
紫式部の生年については、いくつか説があります。
○ 天禄元年 970年
○ 天禄三年 972年
○ 天延元年 973年
○ 天延二年 974年
○ 天延三年 975年
○ 貞元元年 976年
○ 天元元年 978年
どの説をとったにしても、970年代、10世紀後半に生まれています。
紫式部が生まれた場所
紫式部が生まれた場所は、ひいおじいちゃんの兼輔が建てたお家で、代々子孫に引き継がれ父の為時に譲り渡されていました。
その場所は、正親町小路の南・東京極大路の東の鴨川堤、現在の廬山寺が紫式部邸第跡とされています。
道長の家系
道長は、兼家の五男として、康保3年(966年)に生まれました。
お母さんは、藤原北家の流れを汲む、藤原中正女(時姫)でした。
同じ母(時姫)からは、道隆・道兼の兄が生まれています。
姉には詮子(一条天皇の母)、超子(三条天皇の母)がいました。
また異母兄弟として道綱・道義。
異母妹に、綏子がいました。
道長が966年の生まれなので、紫式部が970年に生まれていたとしたら4歳年上。
978年生まれだとしたら、道長が12歳年上だったことになります。
「光る君へ」では、道兼兄さんが紫式部のお母さんを殺してしまっていますが、これはまずなかったでしょう。
なお、道長の様子が現代まで伝わっているのは、藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』などが残っているからです。
「光る君へ」では、ロバートの秋山竜次さんが熱演されています。
紫式部と道長の実際の幼年時代
紫式部の少女時代
紫式部の少女時代については、ほぼ分かっていません。
どんな少女だったのかを想像する資料としては、『紫式部集(むらさきしきぶしゅう)』という自叙伝に頼るほかはないようです。
『紫式部集』というのは、紫式部が晩年になって自撰した歌を載せた『家集』です。
この家集の特色として、『少女時代の恋人との問答歌が無い』『女友達との関わりを示す歌が多い』ということだそうです。
例えば、こんな歌が載っています。
めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに 雲がくれにし よはの月かな
『久しぶりでやっと会えたのに あなたなのかどうか見分けられないうちに お帰りになり 夜中の月が雲に隠れたように心残りでした。』という意味です。
「久しぶりで逢えた人」は、男の人かと思いきや、注釈に(わらは友達なりし人)とありました。つまり、女友達ということです。
この歌は、成人した頃の歌だろうと言われています。
このように、友人に関する歌が続きます。
紫式部さん、もしかして少女時代から成人する頃まで男っ気がなかったのでしょうか。
道長の少年時代から元服
道長は、兼家と時姫の三男。
兼家には他にも複数名の妻がいて、兼家の男子の中では五男でした。
つまり、生まれてから幼少期にかけては、将来は藤原北家の嫡流を離れなければならない運命でした。
「光る君へ」でも、なんとなく無気力な少年として描かれていましたが、将来を考えたら当然そうなるでしょう。
ここでも、脚本家大石さんの手腕が冴え渡っていました。
「おそらく幼名は三郎と呼ばれていたろう」
「兄弟順や将来の見通しを考えたら、三郎は散楽に興じるような少年としよう」
と妄想をふくらませる大石さんについて、妄想してしまいます。
十五歳で元服
道長は980年(天元三年)に、従五位下(じゅごいのげ)という位をもらいました。位をもらったということは、この年におそらく元服したと見なしてよいでしょう。
15歳でした。
この年、兼家パパは52歳で右大臣になっています。
太政大臣・左大臣に継ぐ三番目の地位を得ました。
さらにこの年、娘の詮子が円融天皇の唯一の子である懐仁親王(後の一条天皇)を産んでいます。
実資の小右記
道長の名が、当時の記録に初めて登場するのは、「982年(天元五年)の正月に昇殿を申請しら、許されました」という実資が書いた『小右記』の記録です。
実資は、このときの記録に『右大臣の子道長』と、道長を呼び捨てにして記録していました。
17歳の道長は実資にとって、まだ「取るに足らない存在」と映っていたのでしょう。
このロバート秋山さんが演じる実資(さねすけ)は、その後道長と深く関わることになっていきます。
まとめ:紫式部と藤原道長の生い立ち:まひろと三郎の関係は真実か
「光る君へ」で描かれているような、幼少期の二人の出会いは「脚本家大石さんの仕掛けです」
史実ではありません。
紫式部も、道長も藤原北家の流れを汲む藤原氏です。
ですが、道長は嫡流。
紫式部は、藤原北家とは言え端っこに位置する藤原氏でした。
紫式部は、ひいおじいさんの代から有名な歌人であり、学者である家系に育ちました。
幼少期から、源氏物語を書き上げる素養を身に付けていったわけです。
一方、道長は藤原北家の嫡流でしたが、自身は三男。
将来に明るい見通しを持てずに幼少期を過ごしたことでしょう。
ただし紫式部が源氏物語を書くことが出来たのは「道長の援助があったからなしえた」ことです。
このあたりのお話は後日に譲ります。
コメント