陸奥・常陸のくせ者、新羅三郎義光
日本の長い古代の終焉期、10世紀から12世紀にかけて、陸奥や常陸を含む板東は、力を付けるための狩り場のような状態でした。
新しく台頭してきた武力集団である平氏も源氏も、肥沃で豊かなこの土地の争奪戦にしのぎを削ったのです。
武家として、900年生き残れた家は、数えると数家に過ぎません。例えば、岩手の南部家。宮城の伊達家、山口の毛利家、鹿児島の島津家、そして、常陸茨城から最終的には出羽秋田に移り、命をつないだ佐竹家などです。
佐竹家は、どうして900年の長い間、板東の有力諸家が滅ぶ中、その命脈をつなぐことができたのでしょうか。
その遠因は、佐竹家祖源義光の生き方が、その後の代々の佐竹家当主に家訓的に引き継がれたのではないかと考えます。
以前、畠山親房の神皇正統記、南朝北朝の戦いの関連で、「源義光」については触れていますが、改めて迫ってみることにします。
清和源氏の流れ
清和源氏の祖として、源経基がでました。経基は貞純親王の第6皇子で清和天皇の孫にあたります。
清和天皇の、「二世賜姓の詔(親王の後一世はすみやかに王号を止め、すなわち朝臣を賜い、国家の経用を節し)」によって、源氏姓となりました。
将門記によると、源経基は、武蔵の権守となって、在地の土豪と争っています。
しかし、平将門が乱を起こすと、都に逃げ帰ってしまいました。後の武家の家祖ですが、このころはまだ貴族の血が抜けず、争いには向かなかったようです。
ともあれ、経基王の源氏降下の時期から日本の長い古代の終末期が始まりました。
(源氏の祖は陽成天皇からという説もある)
2代が満仲です。満仲は、多田に拠点を置き、多田満仲と呼ばれます。
武士の棟梁としての地位を確立した 源満仲
満仲は、延喜12年(912)に生まれました。京都の東寺の近くで生まれたとされています。
満仲が歴史に登場するのは、天徳4年(960)年のことです。50歳を越えてからの歴史登場ですので、当時としては大長老の歴史デビューです。
どのように登場したかというと、「平将門の息子が入京したから、その探索にあたった」ということでした。つまり武士として認知が進んで来たということでしょう。
しかし、最も有名なのは「安和の変の密告者」としての満仲です。
密告者、源満仲
安和2年(969)、「苦労で苦しむ安和(あんな)の変」
藤原北家が起こした他氏排斥疑獄事件、この事件によって藤原北家の摂関政治が始まります。時代の変わり目となる大事件でした。
この頃の右大臣は藤原師尹(もろただ)、左大臣は源高明(たかあきら)でした。高明は、醍醐天皇の皇子で賜姓源氏です。
この醍醐源氏源高明が、謀反を企てていると密告したのが源満仲でした。
満仲は、まず源連(つらね)や藤原千晴(ちはる・秀郷の子)らが謀反を企んでいると密告しました。ちなみに平将門を討った秀郷流の藤原千晴は、満仲の最大のライバルでした。
朝廷は、取り調べをした結果、高明にも関係深い事件として、高明を太宰府へ左遷してしまいます。
これにより藤原北家が確固たる地位を築き、満仲は密告の功により、従五位の下に昇進します。そして、複数の国の受領を歴任することになり莫大な富を手にしました。
花山天皇と源満仲 (寛和の変)
安和の変から約20年後の永観2年(986)、満仲は、藤原北家の有力者、藤原兼家と主従関係にありました。
この頃の天皇は第65代花山(かざん)天皇です。花山天皇は、永観2年(984)に17歳で即位されました。しかし、翌年の寛和元年(985)に愛する妻を失い、悲しみのあまりに出家を試みたのです。おそらく出家の願いは、花山天皇を支えるべき外祖父藤原伊尹(これただ)が既になくなっていて、有力外戚をもたなかったことも原因していたでしょう。
弱気になっていた花山天皇に追い打ちをかけ、出家をそそのかした人物がいました。藤原道兼です。道兼は道長と兄弟、二人の父は藤原兼家でした。
花山の耳元で、「天皇が出家するなら道兼も共に出家します」とささやくのでした。(986年・寛和の変)
花山天皇が出家すると、どんな良いことがあったのか
道兼・道長の父、兼家は花山天皇の皇太子、懐仁(かねひと)親王の外祖父だったのです。つまり、花山天皇が出家すれば、懐仁親王が天皇となり、兼家は摂政関白となることができるわけです。
野望をもった兼家・道兼は、寛和2年(986)年、花山をまんまと出家させることに成功しました。
清涼殿を出て、出家するために元慶寺に向かう御車に誰も手を出せないよう、警護する一団があります。それが、藤原兼家の有力武士となっていた源満仲の一団でした。
満仲、多田荘を根拠地とする
安和の変の密告や、花山天皇出家の際の警護などの功により、藤原北家(兼家)の武士としての地位を確立した満仲は、摂津の国の川辺郡多田荘(現在の兵庫県川西市)を得て、そこに拠点を置きました。武者源氏の出発の地です。ではなぜ、満仲はこの地に拠点を置いたのでしょうか。
それは、ここから銀・銅が産出したからです。この地には、莫大な富を生む二つの鉱脈があったといいます。
多田神社
この地に拠点を設けた満仲は、多田院を建立します。安和の変の1年後の970年のことでした。後に多田院は神社となります。
主神は、満仲、その子の頼光・頼信、孫の頼義、曾孫の義家でした。
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