MENU

朱子学の祖・朱熹の生涯:(朱熹の生涯をわかりやすく解説)

朱子学の祖・朱熹の生涯を簡単に解説。

朱熹は、科挙官僚制度には合格したが、点数が低くく、役人としては不遇。
皮肉だが、その後の中国の科挙制度下では、朱熹が書いた儒教の注釈書等に通じる者しか、良い点を取ることが出来なくなった。

目次

第 3章  朱子学の祖・朱子の生涯新しい

 1  朱熹の生涯(1130年~1200年) 

朱熹が生まれたのは、南宋建国の四年目1130年(建炎4年)のこと。
「大宋国」が国土の北半分を失ったころだった。

これ以後、100年間宋金が相対する時代に入る。
動乱の時代だった。

2 朱熹の出自

 朱熹の父朱松は、福建山間部の尤渓県(ゆうけいけん)に住んでいた。
彼には三人の息子がいた。
だが成人したのは朱熹、一人だけだった。

は、子にと名づけた。
この命名法は五行思想にもとづく。

松は木偏、熹はれんが。
父・松は、自分の子に火の部のつく文字を付けた。
これは五行相生説に基づく命名。
木の次は、火が来る順番である。

朱熹も、自分の息子たちに塾・埜・在『土』のつく名を付けた。
五行で火の次が土だからである。

さらに孫の世代は、『鋸』など金偏のつく名前、
曾孫には『淵』の『さんずい』など水に関する文字を名前に付けている。
このように代々、五行相生の順序(木 火 土 金 水)を守って命名していた。

韓国には、今でもこの習慣が残っているそうだ。

話を戻す。
父・朱松朱熹が14歳の時に亡くなっている

父の死後、朱熹は父の友人にあずけられている。
同じ福建ではあるが、北部の建州で勉学に励見ながら育つ。
そして、わずか19歳で科挙試験に合格する。
朱熹は若くして、進士となった。

朱熹がいた建州は、宋代に多くの進士を輩出した土地として有名だった。

3 朱熹の劣等感

だが朱熹の合格順位は、ビリから数えた方が早かったの。
そのため、彼は官僚社会のエリートコースから、はずれた人生を歩むことになる。

鳴かず飛ばずで5年を過ごす。
24歳の時、ようやく泉州同安県に地方官のポストを得る。
赴任地に向かう途中、父と同門の李侗(りどう)という学者に会う。

この出会いが、のちのち大きな転機をもたらす。 

4 次の職が無い

3年の任期満了した。
だが任期終了後、朱熹には次の職が無かった。
仕方なく、建州に帰り儒学の勉強に励むことになる。

朱熹は、役人としては、火が吹けない役人だったのだ。
そのころ、同世代で政府高官の息子だという二人と知り合いになる。
名を呂祖謙(りょそけん)・張栻(ちょうしょく)といった。

二人は二程以来の道学の流れを受け継いだ学者』として、すでに名が知れていた。
朱熹は彼らと知り合うことで、福建北部山間地帯の田舎学者から、全国的な知名度を持つ有名人へと飛躍することになる。

【家柄も良くない、父も既に死んでいて政府高官でもなかった朱熹】
そういう境遇の朱熹が、家柄が良く政府高官の息子だという人物と知り合ったことで、学者としての運が開けていく…。

5 朱熹と禅(仏教)ー朱熹と儒教【李侗との出会い】

朱熹は、青年時代には、以外にも禅に傾倒していた。
そんな朱熹が、なぜ儒教に目覚めたのか

それは、赴任地に出向くときの李侗・(りどう)』との出会いがポイントだった。
伝記資料にも、『李侗との出会いが、朱熹を純粋な儒教に目覚めさせた』と記されている。

『「李侗」との出会い』について、愛弟子であり、娘婿ともなった黄榦(こうかん)が書いた「行状」に、

「数百里の道のりを遠いとも思わず徒歩で訪ねていった」

と記録されている。

李侗が朱熹に教えたのは、

静時の修養の重要性と、
理一分殊(りいちぶんしゅ)の意義

だった。

李侗は、程頤(ていい)が説いた理一分殊のうち、
分殊こそ仏教にはない深い真理である、と説いた。

李侗は朱熹の父・朱松とともに羅従彦(らじゅうげん)という学者に師事した経験がある。
羅従彦(らじょうげん)は、二程の高弟楊時(ようじ)の門下生である。

つまり、朱熹は二程の学の流れを汲む人物、ということになる。

 6 定論成立

朱熹は、40歳にして定論を確立したとされる。
一時、政府高官の息子達【呂祖謙(りょそけん)・張栻(ちょうしょく)】の説に染まった時期もあったが、後年それらの考えを批判し、40歳にして朱熹の学【朱子学】が確立されたとされている。

だが、朱熹は定論といわれるものを、その後も部分的に変えている。
この事実を見ると、『40歳にして定論確立』というのは、適切ではないとする見解もある。
しかし、朱子学の大要がこの時点で固まったことは間違いなかろう。

朱熹はこの後、多くの著作を執筆・刊行していく。

7 朱子学が広まった理由ー【印刷出版の活用】

 朱子学が広まった理由の一つに、朱熹が印刷出版技術をうまく利用したことを指摘する必要がある。
『著作物を印刷し出版する』
自らの考えを広めるため「印刷技術・印刷物」を武器にした世界初の思想家といってもよいのではなかろうか。

朱熹の出版物は、マルチン・ルターによるカトリック攻撃を目的としたパンフレット出版の、なんと350年以上も前のことなのだ。

驚き!!!

福建北部には安価な印刷物を発行する工房が集中していた。
この点、当時の中華の技術力はやはり優れていた。
こうして、朱子学は全国に広まっていった。

 朱熹は生涯に30種類以上の本の編集・出版を行っている。

その中でも主著とされるのが、

『大学』
『中庸』
『論語』
『孟子』の注解である『四書章句集注』

                  (注は註とも書く)

であった。

その他の主な著作

本来『礼記』の一篇にすぎなかった『大学』と『中庸』とを独立させ、まとめて四書としたのは朱熹が最初だった。

この注釈書を作成する予備作業として、先人の注解を集めたのが、

『中庸輯略』
『論語精義』
『孟子精義』

内容を補うための、想定問答集が

『四書或問』

内容別ダイジェスト版として

『孟子要略』

四書に対する五経に関するモノには、

『周易本義』と
『詩集伝』

それに未完に終わった

『儀礼経伝通解』

『孝経』のテキストを正したモノとして、

『孝経刊誤』

初学者のための教科書として、日本でも広く読まれてきた

『近思録』と
『小学』

朱子学の源流史として、

『伊洛淵源録』

宋代の優れた人物達の記録

『名臣言行録』

韓愈全集の注釈として書かれた

『韓文考異』

『詩経』、さらに古代の詩集の注解

『楚辞集注』

易学の入門書

『易学啓蒙』

二程の語録

『河南程氏遺書』『河南程氏外書』

その弟子謝良佐の語録

『謝上蔡語録』

周敦頤に関する

『太極図説』や『通書』、

司馬光『資治通鑑』を項目ごとに整理したり、歴史事件を批評したりした

『通鑑綱目』

冠婚葬祭の儀式書(真作ではないとする説もある)

『家礼』

このほか、彼の死後編集されたものとして、
朱熹自身の全集である

『晦庵先生朱文公文集』

朱熹の語録である

『朱子語類』

など、数多い著作等がある。

9 朱熹の論争相手

第一の論争相手としては、
最も有名な人物は陸九淵(りくきゅうえん・「象山」)。

呂祖謙が両者を引き合わせた。
会談場所は、鵝湖(がこ)

当初、論争相手は九淵の兄九齢のほうが主役だった。
だが、九齢が死んでしまったため、弟の九淵が論争を引き継いだ。
九淵朱熹は、何通もの書簡のやりとりを通して論争を重ねた。

もう一人、有名でなおかつ重要な論争相手がいる。
陳亮(ちんりょう)という学者だった。

10 論争の内容

陸九淵と朱熹の論争の主なポイントは、2つ。

一つは、修養方法の重点。
もう一つは周敦頤の『太極図説』の解釈。

についてだった。 

 もう一人の論争相手、陳亮との論点のポイントは、1つ。
歴史認識について。

儒教が太古の黄金時代とみなす夏・殷・周三代のあと、
漢から唐にいたる時期をどう評価するかについての論争だった。

陳亮は、この時期にも見所はあるという立場であるのに対し、
朱熹はこの時期を暗黒時代ととらえる。

朱熹は、

孟子が死んでから、周敦頤が現れるまで
正しい教えは、断絶していた。

ととらえている。

正しい教えがない以上、正しい政治は行われない。
したがって、よい社会は実現しない。
政治と道徳は一致している、と説くのが朱子学。
【朱子学の根本教義の一つ】 

まとめ

朱熹は、日本で言えば平安時代末期に生きた人物
中国の宋の時代に生きた。

学者の父をもつが、決して家格は高くない。
父は若くして死んでしまい、朱熹は父の友の元で育つ。

19歳の時に科挙に合格したが、合格の時の点数が低かったため、役人としては日の目を見なかった。
だが、学者として40歳前後に自分の論をほぼ完成し、当時最先端の出版技術を駆使して、自説を広めた。

おそらく、朱熹の心の奥底には、「科挙に合格したと言っても、点数が低い自分に対するコンプレックスがあった」だろう。
そして、そのコンプレックスをはねのけることをエネルギーに、自らの「説」を完成させていったのではないでしょうか。

【以下、補足】

  • 朱熹は官僚としては出世しなかった。
  • 中年以降は、地方官に任じられてもそれを断り、
  • 道観(名目上の監督者)で
  • 実務のない祠禄官になることが多かった。
  • 実際に赴任した期間は通算十年に満たない
  • 中央政府に呼び出されて
  • 皇帝の学術顧問の役職についたこともあるが、
  • なんと数十日で更迭されている。【危険思想の持ち主と見なされたか?】
  • 政府部内での支持者が政変で失脚すると、
  • 彼の学術は偽学として弾圧の対象となった。
  • 晩年は活動を制限されてしまう。
  • 死後十年ほどで名誉を回復
  • やがて孔子以来の正統を継ぐ学者に認定される。
  • 体制教学【体制を維持することを良しとする教え)としての朱子学が成立する。
  • 科挙官僚制度には合格したが、点数が低かった。(役人としては不遇)
  • 皮肉だが、その後の中国の科挙制度下では、朱熹が書いた儒教の注釈書等に通じる者しか、良い点を取ることが出来なくなった。
朱子学の祖、朱熹の生涯

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次