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小泉セツの生涯|小泉八雲の妻として生きた明治の女性を元教師が語る

こんにちは、なおじです。

朝ドラ『ばけばけ』の主人公・トキのモデルとなった小泉節子(通称・小泉セツ)。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻として知られていますが、彼女の生涯は波瀾万丈でした。

生後7日で養女に出され、最初の夫・前田為二の出奔により離婚。

その後、運命的に八雲と出会い、夫を支え続けた明治の女性。

35年間教壇に立ったなおじとして、セツの強さと献身に深く感動しました。

【この記事でわかること】

  • 小泉セツの生い立ちと家族背景
  • 最初の夫・前田為二との結婚と出奔
  • 小泉八雲との出会いと結婚
  • 西田千太郎の役割と八雲との友情
  • 熊本・神戸・東京での生活
  • 八雲の死後、未亡人として生きた日々
  • セツが残した『思ひ出の記』の意義
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目次

小泉セツの生い立ち|生後7日で養女に

セツの誕生と養女縁組

小泉セツは、1868年(慶応4年)2月4日、島根県松江市で生まれました。

節分生まれだったため、「セツ」と名付けられたと言われています。

父は小泉湊(こいずみみなと)、母は小泉チエ。

小泉家は松江藩の上士で、家禄300石の由緒ある家柄でした。

しかし、セツは生後7日目に、遠縁の稲垣家の養女に出されました。

稲垣金十郎・トミ夫妻に子どもがいなかったため、「小泉家に次に子どもが生まれたら稲垣家の養子にする」という約束が、セツが生まれる前から交わされていたんです。

稲垣家での生活

稲垣家は家禄100石の並士で、小泉家よりも格下でした。

それでも、養父母の金十郎・トミは、格式の高い家に生まれたセツを「オジョ(お嬢)」と呼んで大切に育てました。

養祖父の稲垣万右衛門と養祖母のタツも同居していました。

ドラマを見ている方は、おじじ様とタツが再婚なのか、もともとの夫婦なのか気になりますよね。

史実を調べましたが、万右衛門とタツの婚姻が初婚か再婚かについては、明確な記録が見つかりませんでした。

セツは4歳ごろには自分が「もらわれっ子」であることを自覚していましたが、稲垣家の親たちの愛情は格別で、生涯その恩を忘れませんでした。

明治維新後の没落と貧困

1875年(明治8年)、明治維新により家禄奉還が行われ、小泉家も稲垣家も収入を失います。

セツは11歳から機織りの仕事を手伝い、家計を支えました。

養父・金十郎は事業に失敗し、稲垣家は借金を抱えてしまいます。

結果、セツは勉強好きでしたが、経済的理由で上等小学校への進学を断念せざるを得なくなりました。

35年間社会科を教えてきたなおじとして、経済的理由で学びを諦めざるを得なかった子どもたちを何人か見てきました。

セツもその一人だったんですね。

最初の結婚と前田為二の出奔|セツの苦悩

前田為二との結婚

1886年(明治19年)、セツは18歳で前田為二(まえだためじ)と結婚します。

前田は鳥取藩士・前田小十郎の次男で28歳。

稲垣家の立て直しを図り、為二が婿養子として迎えられました(入り婿婚)。

ドラマ『ばけばけ』の銀二郎(寛一郎さん)のモデルです。

前田家も稲垣家と同じように困窮した士族でした。

セツは物語好きで、為二にも物語をせがみ、浄瑠璃や月琴を楽しんでいたようです。

セツは為二との結婚を喜んでいたのかもしれません。

稲垣家の窮状と夫の絶望

しかし、為二は稲垣家に絶望することになります。

稲垣家は財産がないだけでなく、事業失敗による負債を抱えていました。

養父・金十郎は善良でしたが働く気力がなく、働き手はセツと養母・トミの女二人のみ。

養祖父・万右衛門は口煩く、気位だけは高かったそうです。

為二の月給で、妻のセツをはじめ、養父母・養祖父まで養うことを期待され、嫌気が差すのも無理はありませんでした。

実父の死と前田為二の出奔

1887年(明治20年)5月、セツの実父・小泉湊が51歳で亡くなりました。

セツが、19歳の時でした。

そして同じ年、夫の前田為二が出奔してしまいます。

貧困に耐えきれず、大阪へと逃げ出したんです。

セツは19歳で、実父と夫の両方を失いました。

物語と同じように、セツは大阪まで迎えに行きました。

しかし、こちらはドラマとは真逆で、為二は冷酷な言葉を浴びせるだけだったといいます。

この時セツは、橋の上から投身しようとまで思い詰めてしまいます。

でも、家族の顔が浮かび、思いとどまったそうです。

法的な離婚の時期については、史料によって記述が異なります。

1890年(明治23年)1月に離婚が成立したという説もあります。

しかし、十数年にわたって離婚が成立しなかったという情報もありました。

いずれにせよ、セツは夫に見捨てられた状態で、稲垣家に戻りました。

👉関連記事:ばけばけ93話トキの心が動く|サワの言葉と決断の兆し

貧困と寒さの中で

大阪で夫と別れた後、セツは稲垣家に戻り、養父母と実母チエ、弟・藤三郎を支えました。

1890年から1891年にかけて、松江は大寒波に見舞われます。

セツは貧困に喘ぎ、粗末な家で寒さに震えていたでしょう。

このまま家族もろとも凍死するのを防ぐため、セツはある決意を固めます。

外国人教師の住み込み女中の仕事を引き受けることにしたんです。

当時、外国人の住み込み女中となれば、「洋妾(ラシャメン)」つまり外国人の愛人との非難を浴びる恐れがありました。

でも、セツは家族を養うために、どんな汚名も被る覚悟を持っていたのです。

小泉八雲と西田千太郎との出会い|運命の転機

ラフカディオ・ハーンの松江赴任

1890年(明治23年)、アイルランド系ギリシャ人の英語教師・ラフカディオ・ハーンが松江にやってきました。

ハーンは、島根県尋常中学校の英語教師として赴任したんです。

ハーンは日本文化に深い興味を持ち、日本の生活様式や風習を熱心に学びました。

西田千太郎という友人

ハーンの同僚が、島根県尋常中学校の教頭・西田千太郎でした。

西田千太郎は1862年生まれ、ハーンより8歳年下でしたが、ハーンの最も信頼する友人となります。

ドラマ『ばけばけ』の錦織友一(吉沢亮さん)のモデルです。

西田は、ハーンに通訳兼家政婦としてセツを紹介しました。

これが、セツと八雲の運命的な出会いのきっかけとなったんです。

西田千太郎は、のちにハーンの帰化申請に尽力し、生涯にわたってハーンを支え続けます。

言葉の壁を越えた心の交流

ハーンは英語しか話せず、セツは日本語しか話せません。

でも、二人は身振り手振りで意思疎通を図り、次第に心を通わせていきます。

セツは、ハーンに日本の文化や伝説を語り聞かせました。

ハーンは、セツの語る話に深く魅了されたんです。

セツの語りが、のちのハーンの文学作品の源泉となったんですね。

結婚という決断

1891年(明治24年)1月、ハーンとセツは結婚。

正式な婚姻届ではなく、「入夫婚」という形式でした。

ハーンは、小泉家に入り、「小泉八雲」という日本名を名乗ります。

当時、外国人との結婚は珍しく、セツは周囲から好奇の目で見られました。

でも、セツは自分の選択に誇りを持っていたんです。

👉関連記事:ばけばけ94話感想|トキ熊本行き決断おじじ様の深い愛と家族

熊本・神戸・東京での生活|夫を支え続けた日々

熊本への移住

1891年11月、八雲は熊本第五高等中学校(現在の熊本大学)に転職。

セツと八雲、そして養父母・養祖父母の4人が熊本に移住しました。

熊本での生活は、セツにとって新しい挑戦だったのです。

八雲は教師として働き、セツは家庭を守りました。

👉関連記事:小泉八雲家族熊本移住の真相|セツの家族は本当に残った?

神戸・東京への移住

1894年、八雲は神戸に移住し、神戸クロニクル紙で働き始めました。

その後、1896年には東京帝国大学の英文学講師となり、一家は東京に移ります。

東京での生活は、セツにとって最も安定した時期だったといいます。

セツと八雲の間には、4人の子どもが生まれました。

長男・一雄、次男・巌、三男・清、長女・節子。

セツは、母として、妻として、家族を支え続けたのです。

八雲の文学活動を支えた妻

セツは、八雲の文学活動を陰で支えました。

八雲が日本の怪談や伝説を執筆する際、セツが日本語で語り、八雲が英語で書き記すという共同作業だったといいます。

『怪談』『骨董』『心』などの名作は、セツの語りなしには生まれまなかったのです。

セツは、八雲の創作パートナーだったんですね。

35年間教育現場にいたなおじとして、夫婦が互いに支え合う姿に深く感動します。

👉関連記事:【ばけばけモデル】小泉セツが語る『思ひ出の記』の魅力

八雲の死後|未亡人として生きた日々

突然の別れ

1904年(明治37年)9月26日、小泉八雲は心臓病のため54歳で急逝しました。

セツは36歳で未亡人となりました。

夫との別れは、セツにとって大きな喪失だったことでしょう。

でも、セツは悲しみに沈むことなく、前を向いて生きることを選んだんです。

『思ひ出の記』の執筆

八雲の死後、セツは夫との思い出を綴った『思ひ出の記』を執筆。

この回想録は、八雲の人物像を知る貴重な資料となっています。

セツは、日本語が読めない八雲のために、日々の出来事を語り聞かせていました。

その記憶をもとに、セツは八雲との日々を書き残したんです。

『思ひ出の記』は、セツの愛情と知性の結晶です。

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晩年と死去

セツは、八雲の死後も子どもたちを育て、質素に暮らしました。

60歳を過ぎてからは動脈硬化に悩まされ、1931年には脳溢血で倒れましたが回復します。

1932年(昭和7年)2月18日、セツは東京・西大久保の自宅で脳溢血により64歳で亡くなりました。

セツの墓は、東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にあり、八雲と並んで眠っています。

小泉セツの生涯は、明治という激動の時代を生き抜いた女性の物語です。

小泉セツの生涯に関するQ&A

Q1:小泉セツはどんな人物?

A:小泉セツは、1868年生まれの明治時代の女性で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻です。

没落士族の娘として生まれ、最初の夫・前田為二の出奔により離婚。

その後、八雲と出会い、夫の文学活動を支え続けました。

Q2:小泉セツの最初の夫・前田為二とは?

A:前田為二は鳥取藩士の次男で、1886年に稲垣家の婿養子としてセツと結婚しました。

ドラマ『ばけばけ』の銀二郎(寛一郎さん)のモデルです。

しかし、稲垣家の窮状に絶望し、1887年に出奔しました。

Q3:西田千太郎はどんな人物?

ハーンの同僚が、島根県尋常中学校の教頭・西田千太郎でした。

西田千太郎は1862年生まれ、ハーンより8歳年下でしたが、ハーンの最も信頼する友人となりました。

ドラマ『ばけばけ』の錦織友一(吉沢亮さん)のモデルです。

通訳兼家政婦としてハーンにセツを紹介たのは西田でした。

西田は、のちに鳥取県米子中学校の校長に就任しています。

校長になったのは、転勤後だったのですね。

西田千太郎は、八雲の帰化申請に尽力し、終生の友人として手紙などで交流を続けました。

Q4:小泉セツは小泉八雲の作品にどう関わった?

A:セツは、八雲に日本の怪談や伝説を語り聞かせました。

八雲の代表作『怪談』『骨董』などは、セツの語りが源泉となっています。

セツは、八雲の創作パートナーだったんです。

Q5:小泉セツの『思ひ出の記』とは?

A:八雲の死後、セツが夫との思い出を綴った回想録です。

八雲の人物像や日常生活を知る貴重な資料となっています。

セツの愛情と知性が詰まった一冊です。

【小泉セツの生涯年表】

セツの年齢出来事
1868年0歳島根県松江市で誕生、生後7日で稲垣家の養女に
1875年7歳明治維新により家禄奉還
1879年11歳小学校下等教科卒業、上等教科進学断念
1886年18歳前田為二と結婚
1887年19歳実父・小泉湊死去、夫・前田為二出奔
1890年22歳前田為二と離婚成立、ラフカディオ・ハーンと出会う
1891年23歳ハーンと結婚、熊本へ移住
1894年26歳神戸へ移住
1896年28歳東京へ移住
1904年36歳小泉八雲死去
1914年46歳『思ひ出の記』出版
1931年63歳脳溢血で倒れるが回復
1932年64歳脳溢血により死去

【筆者プロフィール|なおじ】

元社会科教師として35年間、小学校・中学校で子どもたちと向き合ってきました。

11年間は校長として学校運営にも携わりました。

現在は退職後の第二の人生として、ドラマ政治歴史スポーツ学び書評の8つのブログを運営しています。

歴史記事では、史実と創作を丁寧に区別し、読者が正確な情報にアクセスできることを重視しています。

朝ドラ『ばけばけ』を妻と毎日楽しみに視聴中。

小泉セツの生き方に、明治時代の女性の強さと知性を感じています。

小泉セツ

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