牧野富太郎の実家「岸屋」は、富太郎から猶(なお)さんと和之助に引き継がれた後、どうなったのでしょうか。実は、残念ながらたち行かなくなり、人手に渡ってしまいました。最終的には、黒金屋(現在の司牡丹酒造)にわたりました。「岸屋」は、確かになくなってしまいましたが、司牡丹酒造から、牧野富太郎先生にゆかりの酒が発売されています。酒の名は「マキノジン」。味も極上。さらに、富太郎先生と愛妻壽衛さんとの関係に思いを馳せることができる仕掛け付きのボタニカルな酒。この酒を飲みながら、「岸屋のその後」を味わうのも一興かと思います。
牧野富太郎の実家「岸屋」は、その後どうなったか
牧野富太郎とは、どんな人物か
令和5年春の朝ドラ「らんまん」の主人公、牧野万太郎は、実在の人物牧野富太郎(まきのとみたろう)をモデルにしています。富太郎は、明治、大正、昭和の時代に活躍した日本の植物学者でした。 彼は、日本の植物学研究の先駆者の1人であり、とりわけ植物分類研究に貢献しました。 彼の研究成果は今なお、高い評価を受けています。
牧野富太郎博士は、現在の高知県高岡郡佐川町に生まれました。幼少期から植物に興味を持ち、独学で植物の知識を身に付けていきました。
後年、東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学に打ち込むようになりました。
富太郎博士は、「植物学雑誌」を創刊誌、そこに新種のヤマトグサを発表しました。この発表は、「日本人として国内で初めて新種の植物に学名をつけた」という偉業でした。
富太郎は、94年の生涯を通して、収集した標本は約40万と言われます。
蔵書は、約4万5千冊を数え、新種などの発見命名は、約1500種類以上です。
まさに、日本植物分類学の基礎を築いた偉大な植物学者と言えます。
富太郎 年譜
文久2年(1862)4月24日
現在の高知県高岡郡佐川町で酒造業と雑貨商を営む、「岸屋」の一人息子として生まれる。幼名は成太郎。
慶応元年(1865)3歳
父、佐平死去する。
慶応3年(1867)5歳
母、久寿(くす)死去する。5歳にして両親を失う。この後、祖父母に養育される。
慶応4年・明治元年(1868)6歳
祖父、小左衛門死去する。
このころ、富太郎と改名する。
この後、血のつながらない祖母、浪子に養育されることになる。
明治5年(1872)10歳
土井謙護の寺子屋で学ぶ。
明治6年(1873)11歳
名教館で学ぶ。
富太郎のその後の生き方を左右する師、伊東徳裕(蘭林)に出会う。名教館とその後の蘭林の私塾で西洋の諸学を学ぶ。蘭林からは、漢学も学ぶ。
英語学校で、英語を学ぶ。
この年、富太郎の妻、小澤壽衛(寿衛)生まれる。
明治7年(1874)12歳
佐川小学校に入学する。
明治9年(1876)14歳
この頃、小学校を自主退学する。
この後は、採集した植物を「重訂本草網目啓蒙」などを使い、自力で調べ植物学の基礎を学ぶ。
(※小学校中退という学歴は、富太郎の学者としての進路に大きな障害となった)
明治10年(1877)15歳
佐川小学校の臨時教員となった。
明治12年(1879)17歳
佐川小学校の臨時教員を止める。
高知へ出て、弘田正郎の五松学舎に入塾する。
明治13年(1880)18歳
高知中学校教諭、永沼小一郎を通して欧米の植物学を知り、その影響を受けながら植物の観察記録・観察図を作成する。
明治14年(1881)19歳
顕微鏡などを購入するために上京。
第二回内国勧業博覧会見学、農商務省博物局の田中芳男、小野職愨(もとよし)らを訪ねる。
その後、日光まで出向き植物採集をして帰郷する。
(※「らんまん」では、この上京で後の妻、寿衛子と出会っているが、実際の寿衛はこの時8歳。)
明治15年(1882)20歳
小野職愨(もとよし)や、理学博士の伊藤圭介に植物に関する質問の手紙を書く。
このころ、自由民権運動に携わる。
明治17年(1884)22歳
二度目の上京をする。
東京大学理学部植物学教室を訪ね、矢田部良吉と、助教授の松村任三に出会い、出入りを許される。
明治19年(1886)24歳
三度目の上京をする。
東京近郊で植物採集。このころ、石版印刷技術を習得する。
明治20年(1887)25歳
「植物学雑誌」創刊。
祖母、浪子死去する。
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明治22年(1890)28歳
現在の東京都江戸川区でムジナモを発見。
植物学教室への出入りを禁止される。
(※窮した富太郎は、ロシアのマキシモヴィッチ教授を頼りロシアに行くことを決意する。)
明治24年(1891)29歳
マキシモヴィッチ教授の死去により、ロシア行きの計画は頓挫する。
立て直し困難となった実家を整理するために帰郷する。
明治26年(1893)29歳
帝国大学理科大学の臨時雇用を経て、助手となる。
明治29年(1896)34歳
台湾へ植物採集のため、出張する。
明治32年(1899)37歳
「新撰日本植物図説」が刊行される。
明治33年(1900)38歳
農業試験場嘱託となる。
「大日本植物志」が刊行される。
明治38年(1905)43歳
井上和之助と猶に譲った富太郎の生家が、司牡丹酒造の前身に買収される。
竹村源重十郎支店として開店する。
酒の名は「日の本(ひのもと)」と命名される。
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明治40年(1907)45歳
東京帝室博物館嘱託となる。
「増訂草木図説」刊行される。
明治43年(1910)48歳
東京帝国大学理科大学助手の休職を命じられる。
同大の植物調査嘱託となる。
明治44年(1911)49歳
千葉県立園芸専門学校嘱託となる。
東京植物同好会が創設され、同好会長となる。
明治45年(1912)50歳
東京帝国大学理科大学講師となる。
大正3年(1914)52歳
千葉県立園芸専門学校に辞表を出す。
大正5年(1916)54歳
池長孟から援助を受け、莫大な借金を肩代わりしてもらう。
「植物研究雑誌」を刊行する。
大正7年(1918)56歳
兵庫県神戸市に池長植物研究所が開設される。
大正13年(1924)62歳
東京帝室博物館を解嘱される。
昭和2年(1927)65歳
理学博士の学位を受ける。
仙台で新種の笹を発見する。
昭和3年(1928)66歳
新種の笹を「スエコザサ」と命名する。
妻「壽衛(寿衛)」死去する。
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昭和9年(1934)72歳
「牧野植物学全集」の刊行を始める。
昭和14年(1939)77歳
東京帝国大学に辞表を退出し、公使を辞任する。
昭和15年(1940)78歳
大分で植物採集中に転落事故、別府で静養をする。
「牧野日本植物図鑑」を刊行する。
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昭和21年(1946)84歳
個人雑誌「牧野植物混混録」を刊行開始。
昭和24年(1949)87歳
大腸カタルで一時危篤状態になったが、奇跡的に回復する。
(※「医者が臨終を宣言したのに、息を吹き返したという逸話がある。」)
昭和26年(1951)89歳
第一回文化功労者となる。
昭和27年(1952)90歳
佐川の生家跡に「誕生の地」の記念碑が建つ。
昭和32年(1957)94歳9か月
1月18日永眠。
東京都谷中の天王寺に埋葬される。
没後、文化勲章が授与される。
富太郎の実家とは
牧野富太郎は、上記に示したように植物学の分野で先駆的な研究を始め、多くの研究成果を残した人物です。
「らんまん」の中では、神木隆之介さん演じる万太郎の生家は峰屋となっていますが、実際の富太郎の実家は岸屋と言いました。
また、酒の名前は劇中では「峰乃月」でしたが、実際は「菊の露」と言いました。
岸屋は その後どうなったか
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岸屋は、富太郎から一人目の妻「猶(なお)」さんと、猶さんの再婚相手の番頭「和之助」に譲られました。
「らんまん」では、猶さんは「綾」、和之助は「竹雄」として登場する二人です。
この二人によって、しばらくは経営されていましたが、結局倒産してしまいます。
猶と和之助は、その後つかの間「醤油や」を営んだようですが、最終的には高知を出て静岡に移り住んだようです。
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岸屋を引き継いだ「司牡丹酒造」
富太郎の実家、「岸屋」は猶や和之助から人手に渡り、さらに佐川に今も残る酒蔵、「司牡丹酒造(つかさぼたん酒造)」に譲られました。
司牡丹酒造の屋号は「黒金屋(くろがねや)」と言い、旧「岸屋」の跡地も使って酒造りをしています。
また、「黒金屋」は、漫画家の黒鉄ヒロシさんの実家でもあります。
また、シンガーソングライターの織田哲朗さんは、現社長、竹村昭彦さんは従兄弟同士です。
司牡丹酒造とは どのような酒蔵か
深尾の殿様御用達の御酒屋
佐川の町に、慶応8年(1603)に領主として佐川の殿様(初代深尾重良)が入国して以来、佐川には、「御酒屋」として、殿様御用達の酒屋が数軒ありました。
その数軒に、「岸屋」や「黒金屋」が入っていました。
明治末期には、4件の蔵本が残っていましたが、大正7年(1918)にそれらが統合され佐川醸造株式会社が設立されました。
そして昭和7年(1932)に、社名が「司牡丹酒造株式会社」に変わり今に至っています。
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司牡丹酒造は、坂本龍馬の才谷屋と縁続き
才谷屋は、あの坂本龍馬の実家です。才谷屋は、寛文6年(1666)に高知城下で質屋を開業しました。さらに延宝5年(1677)には酒造業も始めます。さらに元禄7年(1694)には、雑貨屋も始め、大店の商家へと成長していきました。
この才谷屋と、黒金屋(司牡丹酒造)は才谷屋から嫁を迎えたり、逆に黒金屋から才谷屋に嫁を迎えたりと婚姻関係を繰り返し、その関係を深めていました。
当代の司牡丹酒造の社長、竹村氏は、「竹村家(黒金屋)と龍馬は、遠縁の関係にあったのかも知れません」と述べています。
黒金屋は、才谷屋から酒を造る権利を買った
現在の司牡丹酒造の社長、竹村昭彦氏は次のように語っています。
「司牡丹酒造の祖先、黒金屋弥左衛門(くろがねやそうえもん)が、高知城下の蔵元だった、才谷屋助十郎(さいたにやすけじゅうろう)から、天保2年(1831)に、酒造株を買ったことで、黒金屋の酒造りが始まった。」
司牡丹酒造(黒金屋)は、古い時代から坂本龍馬の実家である才谷屋と深い関わりがあったわけです。
司牡丹酒造で発売される牧野富太郎先生ゆかりのクラフトジン『マキノジン』
司牡丹酒造さんから、牧野富太郎先生の名を冠したクラフトジンがはつばいされています。酒命を『マキノジン』と言います。
ベースは、20年もの長期熟成をした焼酎がベースです。20年の熟成を経ているだけあり、まろやかで、コクがあり深い味わいを楽しめる酒に仕上がっています。
ただそれだけでは、富太郎先生の名を冠するには物足りません。実は、この酒は『ボタニカル』な酒なのです。つまり、植物由来の成分につけ込んだ焼酎を蒸留し、貯蔵熟成しています。
つけ込んだ植物は、12種類。その中には、富太郎先生の愛妻の名から命名した「スエコザサ」や、高知県産の「ブシュガン」、「ショウガ」などがあります。
このボタニカルな成分により、スパイシーな香り、さらにはエキゾチックさも感じられる極上の酒に仕上がりました。
朝ドラですので、「ドラマを観ながら」召し上がるには、時間が早いかもしれません。録画したモノを仕事を終えた後に観ながら召し上がることになるでしょうか。
まとめ
「岸屋」は、最終的に司牡丹酒造に買い取られ、新しい道を歩み始めました。
その司牡丹(黒金屋)は、今も素晴らしい酒を世に送り出し続けています。
特に、牧野富太郎先生の名を冠した「マキノジン」には、酒の中に愛妻壽衛(寿衛)さんの名から取った「スエコザサ」のエキスが溶け込んでいます。
富太郎先生は、愛妻壽衛さんの献身的な愛によってその人生が充実したように、「マキノジン」は、「ボタニカル」な成分によって味付けされています。
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