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仮名文字文学「土佐日記」「源氏物語」「枕草子」によって、日本の日本らしいものの考え方が深まった

土佐日記

中学校社会科歴史的分野「国際的な要素を持った文化の繁栄と、その後の国風文化」小単元では、どのような指導内容を想定しているか

 中学校の社会科で、源氏物語や枕草子は、どのように指導されることが想定されているか。
 実は、学習指導要領の指導書の指導内容に関する記述は実に少ない。箇条書きで示せば5〜6行程度である。

 最終的な到達点は、『国際的な要素をもった文化が栄え、後に文化の国風化が進んだことを理解している。」と言う状態だ。

 では、「理解している」とは、どう言う状態かというと、「何かと何かの結び付きを、自らの言葉で説明できる」という状態を指す。

 最終的に生徒たちは「仏教の伝来とその影響で、大陸など国際的な要素をもった文化が成立した」ことをまずとらえる。その後に、仮名文字が成立したことを通して「後に、仮名文字の成立などを通し、文化の国風化が進んだ。」という程度の理解に達することを想定している。

 この状態を生徒たちが実現できるように「仮名文字の成立について、生徒たちに調べさせる。(時間がないと、教師が昔ながらにチョーク一本で講義してしまう教室がまだあるのは残念だ。)」

 この仮名文字の成立を調べる中で、それを使った文学作品(源氏物語や枕草子)の文化的特色、当時の人々の信仰やものの見方など」を調べた状態を、どの生徒にも抜けなく実現させ、さらに、自らの言葉で自らの理解を説明できるようにさせる。

 この場合の「特色」とは、他文化や他時代の自国の文化との、比較によって見出される「同異性」、とりわけ「違い」を指す。

 「比較」となると、少なくとも仮名文字以前の文化についてある程度知らなくては比較できない。実は、この単元の構造は、大単元として「古代までの日本」として3部構造になっている。

 第一部(アとして)は、「国家の形成」と言う小単元で大きく2点について学ぶ。1点目は「世界各地で文明が築かれ、東アジアの文明の影響を受けながら我が国で国家が形成されていったことの理解」
 2点目は「日本列島における農耕の広まりと生活の変化や当時の人々の信仰について」

第二部(イとして)は、「大陸の文物や制度を積極的に取り入れながら国家の仕組みが整えられたことの理解」

そして、第三部(ウとして)、「国際的な要素をもった文化の栄えと、その後の国風文化」という構造をもつ。

 これらの三部をどう単元構成するかは、教師に任されるが、大抵は小単元3つで構成されるだろう。

学習指導要領指導書分析:私が指導主事時代のもので本来、私自身のために作成(誤字有り)尚爺
「国風文化の繁栄について」の学習指導要領指導書まとめ<部分>:尚爺作
目次

文化の国風化を促進した仮名文字による文学

 日本的な考え方とは、と問われ、私がまず心に浮かぶ単語は「もののあわれ」「やおよろずの神」「お陰さま(太陽への感謝)」etc。

 これらの感覚は、仮名文字の成立に大きく依っている。
 日本独自の文字の文学作品を表出することで、日本人はより日本人となっていった。

「土佐日記」の紀貫之

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 紀貫之は、和風の仮名文字による表現様式を初めて提示した人と言ってよい。
 生きた時代は、西暦866年~945年(貞観8年〜天慶8年)
 9世紀から10世紀に生きた人と、生徒たちは理解するだろう。

 貫之の家は名門だったが、一門は政争に敗れ、最晩年に従五位の上、ポストは土佐の守であり、余り高い地位に就くことは出来なかった。

 しかし、歌の世界では最初の勅撰和歌集「古今和歌集」の選者として、重きを成した。

和風の確立

 この頃の和歌は、私的な「恋い」を題材とすることに傾き、停滞しているという評価もあった。芸術としては二流扱い。一流の芸術とされたのは、漢詩文。漢詩文全盛の時代だった。

 このような中で、二流芸術とされる和歌を一流芸術に高めたのが、紀貫之である。

 貫之は、漢詩文の表現方法を巧みに取り入れつつ、「個性を感じさせない個性的な表現」を模索した。貫之の努力により、和歌は漢詩と並ぶ意思伝達手段として、一級の芸術に高められる。

和文日記

 貫之には、和歌の確立と共にもう一つ目をとめるべき功績がある。
 和文日記だ。

土佐日記

「男もすなる日記というものを、女もしてみむとて、するなり」

から始まる。
 この土佐日記、筆者は紀貫之。当然男なのだが、男であることは公然の秘密として、「女もしてみむ」と作者が女性であるように始まる。

 紀行文に近いが、あくまで虚構であり文学作品

 土佐日記は、その後の仮名文学、特に女流文学である蜻蛉日記和泉式部日記紫式部日記、『更級日記などに多大な影響を与えた。

 延長8年(930年)から承平4年(934年)に、貫之は土佐国に国司として赴任していた。任期を終え京へ帰る旅路話を、書き手を女性に見立て、女性の使う仮名で日記風に書き上げた作品。作品中には、57首の和歌が含まれる。

 話の中心は、土佐で亡くなった愛娘を思う心情と、はやく帰京したいという思い。

 作品中に多くのジョークや、だじゃれが出てくるのもおもしろい。

日記文学の発達

 土佐日記のような「一人称作品」に対して、混合人称というか、二人称と三人称が入り交じった『蜻蛉日記』や、「更級日記」がある。ときにナレーターとしての語り手と主役が混線する。

 「和泉式部目記」は完全な三人称の作品。この作品は、いちじるしく「物語」の要素が多くなる。

 すべてを知ることのできる視点で物語を語る三人称ナレーターの設定によって、日本文学の幅が広がった。三人称ナレーターの登場に伴って、文章も仲びやかに技巧的にも高まった。

『源氏物語』の紫式部

源氏物語絵巻:ウィキペディアより

紫式部が生きた時代は、西暦973年〜1014年?(天延元年~長和3年)。
 紀貫之よりやや遅く、10世紀から11世紀の初めに生きた人物。

 藤原為時(ためとき)の次女として生まれ、和歌・漢籍ともに造形が深い。曾祖父藤原兼輔(ふじわかかねすけ)。藤原宣孝(のぶたか)と結婚したが死別。

1006年(寛弘3年)に一条天皇の中宮、彰子(しょうし)に出仕した。

もののあわれ

 『源氏物語』は、世界最古の小説で、紫式部と言えば女流文学家として定着している。さらに、この物語で『日本的な思考の在り方を体現』して見せている。

 時代が下って、江戸時代の国学者、本居宣長は、『源氏物語』を「殊に人の感ずべき事の限りをさまざま書きあらわして、あはれを見せたるものなり」と述べ、『娯楽物である物語と、和歌は等価であった』とした。

 宣長の解釈は、今日まで通用している。一言で言えば『源氏物語』は、「もののあはれの文学である。

 注目すべきは、宣長が『源氏物語』を、儒教や仏教といった『道徳的な立場から評価すべきではない』としたこと。『源氏物語』は、「もののあわれ(日本人的な感性)」で評価せよ」という宣長の指摘には、ギスギスし過ぎないおおらかさ、日本的なゆとりを感じる。

権力ドラマとしての『源氏物語』

 『源氏物語』の第一部は、血縁による皇位継承と、継承を巡る権力闘争の物語。紫式部は漢籍にも明るく、『史記』などの内容を十分に把握していたであろう。
 もしかしたら、「史記」のをヤマト版に直した作品を作成する、という構想意図があったのかもしれない。

 第二部は、皇位継承問題から離れ、過去・現在・未来に渡る因果関係をたどって物語が進行する。そして、読み進めると、過去が、現在である第一部を包摂し、新しい意味が読み取れる。

 第三部で登場人物たちは、果てしない移り変わりの中をさまよい歩く。

 物語は全体として、暗闇の中をさまよう人間たちに関する『もののあわれ』を表現している。

 その中で、現世と過去(宿世)の因果関係、そして儒教と仏教を包含するという、独特で複合的な世界像を描いている。

 『源氏物語』は、「平凡で取るに足らない出来事を、ダラダラと書き綴った物語」と、評価する方もいる。だが、本居宣長の言葉を借りれば、『世の中の もののはわれは、残すところなくこの物語に書いてある』という点で、日本思想史的にも評価されるべきではないだろうか。

清少納言

清少納言:ウィキペディアより

清少納言が生きた時代は、西暦966年〜1025年?(康保3年~万寿2年)。
紫式部とほぼ同時代の10世紀から11世紀にかけて生きた人。

 父は、歌人の清原元輔(もとすけ)、橘則光(のりみつ)と結婚。離別の後、993年に一条天皇中宮、定子(ていし)に出仕し十年仕える。

枕草子

 枕草子は、『随筆』として扱われるが、『紫式部日記』と同じような日記であるといってよい。実際の行事の内容を記述し、仮想のものではない。その点が『土佐日記』などの仮構日記とは異なる。

 しかし、「枕草子」には、ところどころに私的な感想、かなり辛辣な人物批評が挟まれている。

 また、公表されることを前提として書かれたものではなく、誰かに命令されて書かれたものでもない。この点で、その後に書かれた『御堂関白記』とも異なる。

日本風表記である仮名文字による文学の成立が、その後の文化(思想)に与えた影響

 仮名文字文学成立以前は、男は漢文で表記するのが常であった。時代的にも、大陸文化を重んじる雰囲気に満ちていた。仮名文学成立以前の世の人々には、
「大陸偉い」「大陸進んでる」という感覚があっただろう。

 漢文で書かれた日本書紀(やまとのふみ)も、読み手は大陸の人を意識していた。だから漢文形式で記述されている。
 このような表記形式だと、日本人自身には、どうも「ストン」と来ないが、大陸向けには漢文表記の国書が必要だと考えたろう。

 日本書紀に対して、古事記は、完全な漢文ではなく、日本人に読みやすいような変形した漢文と、仮名ではないが、一字一音表記の仮名の原型のような文字で書かれている。
 古事記の方が先に書かれたことになっているが、こういうことから考えて、もっと遅い時代の書ではなかったかと、疑う人もいる。

 また女性の和歌には、一足先に仮名文字が見られ出す。しかし内容が、「恋い」の表現手段に絞られすぎ、日本的思考を扱う文学としては、行き詰まりを感じさせていた。こんなときに、仮名文字文学が成立する。

 このようにして、読み手を大陸に焦点を当てるような文化から、源氏物語や枕草子を通じて、日本的な思想を日本文字で表現する、日本独特の表現様式、そして日本独自の思考形式が確立した。

『歴史的な見方・考え方』とは、何か

 現在の学校教育では、「見方・考え方」が重視されている。
 社会科における見方・考え方は、本当に重要で「見方・考え方」とは何かを指導者が理解しておくことがとても重要になる。

 社会科の歴史的分野における「見方・考え方」を一言で言うと

「どのような時代(時期)に、どのような出来事が、起こったか。」(歴史的見方の基礎)
「それはなぜか」「後の時代(時期)に、どのような影響を与えたか」(歴史的な考え方の基礎)
                                ≪歴史的な見方・考え方≫とは?

土佐日記

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