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観応の擾乱と常陸守護としての佐竹氏

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室町幕府侍所頭人 第11代佐竹義篤

父貞義が死去した2年後の文和3年(1354年)正月、第11代 佐竹義篤は、室町幕府の侍所頭人に任じられました。(後鏡)このころはまだ幕府の情勢が混迷している状態でした。幕府内部の権力闘争と南朝勢力とが複雑に絡み合っていたからです。この幕府初期の段階に佐竹義篤は、室町幕府の侍所頭人という役職に就きました。
 頭人とは、「長」のことで、侍所の長官ということです。

  室町幕府草創期に、先代の貞義がうまく立ち回り、鎌倉時代に失った祖先の地のほとんどを回復しましたが、その子の義篤も、父貞義の死に際まで取り組んでいた「観応の擾乱」をうまく乗り切り、この地位を得ました。
義篤が登用されるよう、死ぬ間際まで先代貞義も取り組んだ「観応の擾乱」とは、どのような出来事だったのでしょうか。まずは、この擾乱(多人数が入り乱れて騒ぎ、安定が乱れること)が、佐竹11代義篤と佐竹本家に、どのように影響したかを見ていきます。

観応の擾乱

観応の擾乱

義篤が侍所頭人になるまでの大まかな流れ

 この頃室町幕府内部では、二頭制(尊氏と直義がほぼ同格で政治を行う体制)が軋みだし、将軍尊氏と政務を担当する尊氏の弟直義との人間関係に亀裂が生じていました。この亀裂は尊氏の執事高師直と、尊氏の弟直義との対立が激しくなることによって目立ってきます。
 師直と直義の不仲のきっかけは定和4年(1348)の四條畷の戦いにあります。
四條畷の戦いで、楠木正行(まさつら・正成の子)を討ち、南朝方は没落へ向かい始めます。しかし、外部の敵が力を落としたことで、皮肉にも内部の師直と直義の間の互いの争いが激化したのです。

まず、直義が兄尊氏に迫って、高師直の執事職を止めさせます。(1349年)

これに対し、同年(1349)8月に、師直は兵を起こし尊氏に直義の政務職を解くように迫ります。そこで尊氏は、直義の政務職を解き、鎌倉にいた自分の三男義詮を呼び戻して政務職に就かせました。

鎌倉から義詮を呼び戻す代わりに、尊氏は四男の基氏を鎌倉に送りました。基氏は当時10歳。鎌倉に睨みを効かすには若すぎる年齢でしたが、将来この基氏が初代鎌倉公方となっていきます。

この当時10歳の 基氏 では、鎌倉を抑えるには役不足

基氏が鎌倉に下向した当初、鎌倉には二人の執事がいました。師直の従兄弟の高師冬、もう一人は直義党の上杉憲顕(のりあき)です。
 高師冬と上杉憲顕は互いに基氏を奪い合いながら戦い、1351年に師冬は甲斐須沢城で上杉憲顕に敗れ、自刀して果てたとされます。

ウィキペディアより:甲斐須沢城跡付近

観応の擾乱を簡単に説明すると

 擾乱とは、そもそも「多人数の人々が、ごちゃごちゃとあれやこれや、やらかして、世の中の安定を乱すこと」を言います。当然、関係する人物も、出来事もやや複雑です。
 ごく簡単に言うと、「1350年から1352年にかけて、尊氏の弟の足利直義と尊氏の執事高師直争い、高一族が滅んだ戦い」です。
 もう少し詳しく説明すると、

観応の擾乱

◯ まず最初の登場人物は足利直冬です。直冬は、尊氏の実の子ですが、尊氏から疎まれ直義の養子となった人物です。この直冬は中国探題となり、中国・九州地方で勢力を張りました。そして、観応元年(1350)に九州地方で実父尊氏に対して挙兵します。

◯ 直冬の挙兵に対し、尊氏は討伐隊を組織し、直冬討伐に出発します。

◯ 直義は、高師直父子を打つために兵をあげます

◯ 備前まで兵を進めていた尊氏は、引き返して弟の直義軍と京・摂津で戦います。

◯ 尊氏は京・摂津の戦いともに敗れ、直義と和議を結びます。
 ※ 尊氏・直義兄弟が和議を結んだことで、高師直は殺害されます。

 簡単に言うと上記のような出来事です。

観応の擾乱と関東と奥州の動き

坂東の動き

 西の観応の擾乱は、東の坂東にどのような影響を与えたでしょうか。
 坂東でも、直義党の関東執事上杉憲顕が、高一族で同じく関東執事の高師冬と争います。結果は西と同じく直義党の上杉憲顕が勝利し、師冬は自害します。

奥州の動き

 奥州でも同じような動きが起きました。
 直義党の奥州探題吉良定家と、高師直派の奥州探題畠山国氏が争いました。そしてこちらも直義党の吉良氏が勝ち、畠山国氏は自害しました。

和議を結んだ尊氏と直義は、仲良くできたのか

尊氏、直義兄弟が和睦しても、地方の騒乱が治らず、結果として兄弟の関係も修復は不可能でした。そのような中、直義は、京都を脱出して、上杉憲顕の庇護のもと鎌倉に入りました。

この時点で、京都の尊氏、鎌倉の直義、そして吉野の南朝と、天下三つ巴の様相を見せています。
 直義が鎌倉に拠点を構えると尊氏はすぐに南朝と交渉し、年号を南朝の正平に統一することで和睦します。いわゆる「正平の一統」(正平6年・観応2年/1351)です。

南朝と和睦すると尊氏は間髪を入れず鎌倉に出陣します。

佐竹本家は、尊氏と直義のどちらに味方したか

尊氏は、出陣すると関東の有力武将に出陣を命じました。関東の小山・結城、さらに佐竹先代、貞義も老骨に鞭打って尊氏軍に参陣しました。所領を回復してくれた尊氏の一大事なので、翌年に亡くなる佐竹貞義も参陣したのでしょう。

文和元年(1352)、鎌倉に入った尊氏は弟直義を毒殺し、乱は終結しました。

尊氏 京都に戻る

 足利義詮が、一時奪われていた京都を文和2年(1353)3月に奪い返すと、尊氏は、鎌倉を任せるために関東執事として畠山国清を任命します。これで、尊氏自身は京都に戻ることが可能になりました。
 

 文和2年(1353)9月、京へ帰る尊氏軍の武将たちの先陣として佐竹11代義篤の姿がありました。観応の擾乱やそれに付随する戦いなどで尊氏が鎌倉に滞在していた約2年の間に、義篤は、父である貞義と同じように尊氏の信頼を勝ち取ったようです。

義篤は、この後侍所頭人となり、常陸の守護大名としての一歩を踏み出します。

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