祇園祭の謎
八坂神社が主催する祇園祭は、33基の山鉾の巡行で知られる。
この祭りは、疫病を祓うために行われてきた。
延暦13年(794年)、桓武天皇が開いた平安京には、多くの人々が集まり、狭いところに人口密度で生活するようになった。
しかも、当時は都の中に大きな池があり、周りを山に囲まれてもいたので、ジメジメした湿気の多い環境だった。このような環境なので、ウィルスが繁殖し疫病が蔓延しやすかった。
当時の都で疫病が度々発生したのは、このような環境が大きく影響している。
だが当時の人々は、疫病の蔓延を怨霊のせいだと考えた。
怨霊を鎮めるために生まれたのが、祇園祭だった。
平安時代に編纂された『日本三代実録』(清和・陽成・光孝の3人の天皇の時代の歴史書・858年~887年)に、貞観5年(863年)に、最初の御霊会(ごりょうえ・祇園祭のもと)が行われたと書かれている。
最初の御霊会(祇園祭)の鎮める対象は?
貞観5年(863年)に、最初の御霊会(ごりょうえ)が行われている。
ただし、このときの御霊会は祇園祭の御霊会ではなかったが、桓武天皇の異母弟で、失意のうちに廃太子とされてしまった早良親王の御魂を鎮めるために行われた。
祇園御霊会の始まり
祇園祭に直結する、祇園社主体の御霊会は、最初の御霊会の6年後に行われる。つまり、貞観11年(869年)のことだった。
貞観11年に、また疫病が流行る。
このとき、朝廷の命じられた卜部日良麻呂(うらべのひらまろ)が、全国の「国の数」66国にちなんで66本の鉾を建てた神輿で祭りを行ったのが、祇園御霊会の始まりとされる。
長保元年(999年)からは、山鉾の巡行も始まった。
祇園祭の神輿に乗っていたのは、かつては牛頭天王だったが、現在ではスサノオ、クシナダヒメ、二人の子が乗っている。
疫病と祇園祭
祇園とは、もともとは釈迦がインドで説法を行った寺院の場所を指す。
平家物語の冒頭の
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の祇園だ。
八坂神社(祇園社)がある場所には、勧慶寺(かんけいじ)という寺があった。
この寺は1868年の廃仏毀釈で廃寺となり、今は無い。
勧慶寺は、奈良・平安時代には、官大寺・国分寺や国分尼寺に次ぐ寺院として、朝廷から特別待遇を受ける格式の寺院だった。
だが、元徳3年(1331年)作成の「祇園社絵図」を見ると、祇園社の西の方に薬師堂が描かれ、それが勧慶寺であるとされている。
室町時代に入る頃には、すでに祇園社の方が、勧慶寺より勢いを持っていたことがわかる。
牛頭天王とスサノオは、なぜ習合したのか
ところで、『なぜ牛頭天王とスサノオが習合したのか』
その理由については、実際の所よく分からない。
蘇民将来の話の、武塔神(牛頭天王)が「自分はスサノオである」と言ったという話はある。
だが、おそらくは武塔神である牛頭天王もスサノオも、話を聞いた側の人々が、
牛頭天王もスサノオも、『厄災を打ち負かす神』という点で、「同じ神」と捉えたからではないだろうか。
牛頭天王は、「古事記」や「日本書紀」にも登場しない。
また、八幡神のように明確に渡来人が祀っていた神というわけでもない。
牛頭天王は薬師如来
鎌倉時代に成立した『祇園牛頭天王御縁起(ぎおん・ごずてんのう・ごえんぎ)』に、牛頭天王の本地仏は薬師如来であると書かれている。
薬師如来は、薬師寺(奈良県)、高野山金剛峯寺(和歌山県)、比叡山延暦寺(滋賀県)の本尊でもある。
薬師如来は、病を癒やす仏で、疫病を退散させる牛頭天王の本地仏とされたことは十分理解できる。
薬師如来は、祇園社の中に取り込まれた勧慶寺の本尊でもある。
八坂神社の正体
古代から近代にかけ、貴族たちは神社仏閣に土地を寄進し自分の土地を守った。
京都では、祇園社に多くの土地が寄進されている。
この点で、京都の町は祇園社の支配下にあったとも言える。
権力が集中する祇園社の支配・管理を巡り争いも起こるようになる。
中世には、南都の興福寺(奈良県)が、祇園社を支配下に置いた。
これに対し北嶺側の比叡山延暦寺は黙っていることが出来なかった。
当然のごとく興福寺と比叡山の間で争いが起こり、延暦寺側が勝利する。
この勝利により、延暦寺は、祇園社を通して京都全体に支配権を及ぼすようになった。
吉田兼倶の『二十二社註式』
二十二社というのは、神社の格式を表す一形式。
それまで格式の高い神社は二十一社とされていたが、平安時代の終わりの頃の朱雀天皇の長暦3年(1039年)に日吉社が加わり、二十二社となった。
二十二社が確定してから約40年後の、白河天皇の永保元年(1081年)二十二社制度が確立した。
この制度は戦前まで続いた。
戦後には社格制度が廃止されたため、現在はこの制度は存在しない。
中世では、国に重大事が起こったり天変地異が起こったりしたら、朝廷は国家が定めた二十二社に使者を送り、禍を鎮めてもらうよう神に祈らせた。
この二十二社について、吉田兼倶(かねとも・吉田神道の創始者)が解説したのが『二十二社註式(ちゅうしき)』。
吉田兼倶の「二十二社註式」に見られる『牛頭天王』
吉田兼倶の「二十二社註式」によると、
・牛頭天王は、はじめ播磨国明石ノ浦(兵庫県明石市)に垂迹(すいじゃく)した。
〈垂迹とは、神や人の姿で現れること〉
・その後、廣峯(ひろみね・姫路の廣峯神社)に移った。
・さらにその後、北白川東光寺(京都市左京にある岡崎神社)に移った。
・最後に、感神院(かんしんいん・八坂神社)に移った。
アマテラスが伊勢に落ち着くまでに、数カ所を経てようやく伊勢にたどりついたように、牛頭天王も数カ所を巡って八坂神社にたどり着いている。
スサノオは、この牛頭天王と結び付く(習合する)ことで、疫病を退散させる神となった。
古代の神は、本来自身が疫病をもたらしたり、人々に災いをもたらしたりする存在でもあった。
だからこそ、その強大な力を鎮めるために「祀る」ようになった。
そして、長い間祀られる間に神は静まり、今度は人々に御利益(ごりやく)を与える存在になる。
八坂神社の牛頭天王すなわちスサノオもこのようにして、人々に災いをもたらす神から利益をもたらす神になった。
北野天満宮の菅原道真も、同じ経緯をたどった
災いをもたらす神から、人々に御利益をもたらす神への変貌は、北野天満宮の菅原道真も同じ。
失意のうちに亡くなった菅原道真の御魂は、最初災いをもたらす神となっていた。
それを、北野天満宮に祀ると、やがて、「冤罪を晴らす神」となった。
また道真自身の博識、さらに菅原家がもともと学問の家系だったので、現在は学問の神としても有名だ。
氷川神社もおそらく同じ
氷川神社もおそらく同じように、最初は洪水をもたらす荒ぶる神だったのだろう。その御霊を祀ることで、やがて人々を水害から守る神になったのだと思われる。
水害と言えば、スサノオの八岐大蛇の話が有名なので、「ヒカワの神」が、どこかの時点でスサノオと習合し、水害を退治する神となったと思われる。
コメント