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意外と知らない日本の神社の謎と、太古の神々

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斎宮制度

天皇が伊勢神宮に参詣・参拝しない代わりに「斎宮(さいぐう)」制度が設けられている。

天皇が即位するたびに、内親王や女王など、未婚の皇女のお一人が斎宮を務められる。
斎宮になられることが決まると、まずは精進潔斎(しょうじんけっさい)として、3年間「肉食、飲酒」を断ち、身を清める。

その後に、伊勢神宮におもむき、アマテラスを祀る役割を果たす。

現在、この制度は廃止されている。斎宮として伊勢神宮にこもることはなくなった。
だが、今でも天皇家に連なる元内親王などが、伊勢神宮の祭祀を司ることは引き継がれている。

伊勢神宮には、なぜ内宮と外宮があるのか

内宮にはアマテラスが祀られる。
正式には、「天照座皇大御神(あまてらします すめおおみかみ)」。

内宮の正式名称は、「皇大神宮(こうたいじんぐう)」。

外宮に祀られる神は、「豊受大御神(とようけの おおみかみ)」または「豊受大神」。
外宮の正式名称は、「豊受大神宮(とようけだいじんぐう)」。

外宮に祀られる神は、トヨウケの神だが、実は「日本書紀」に外宮は登場しない。

これは、どういう意味をもつのか。
日本書紀の編纂時には、外宮が存在しなかったのか。
それとも、存在はしていたが、あまり重要視されていなかったのか。

等由気大神宮儀式帳

等由気大神宮儀式帳(とゆけだいじんぐうぎしきちょう・〈止由気宮儀式帳とも〉)というものがある。

外宮の祭事の由来などが記されている。
この等由気(止由気)とは、トヨウケつまり『古事記』の豊宇気毘売神を指している。
トヨウケは『日本書紀』には登場しない。

豊宇気毘売神

延暦儀式帳

外宮は、等由気大神宮儀式帳。
内宮には、皇大神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)がある。

皇大神宮儀式帳も等由気大神宮儀式帳も、共に延暦23年(804年)に太政官に提出されている。
そして、皇大神宮儀式帳と等由気大神宮儀式帳を合わせて、「延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)」と呼ばれている。

延暦儀式帳は、伊勢神宮に伝わる史料として、「最古の信頼できる史料」と捉えられている。

外宮は、なぜ出来たのか

最古の信頼できる史料である「等由気大神宮儀式帳」に、『外宮は、なぜつくられたのか』について次のような話が出てくる。

第21代の雄略天皇の夢に、アマテラスが現れた。
夢の中でアマテラスは、雄略天皇に訴える。

「五十鈴川の川上に鎮座しているが、ひとりでは心もとない。
食事も満足にとれていない。
だから、丹波国(京都府の真ん中あたりから兵庫県の東側にかけて)比治(ひじ)の真奈井(まない)にいるトヨウケを呼んで御饌都神(みけつかみ)にしてほしい

と、託宣(たくせん)をした。

これが、伊勢神宮が内宮と外宮に分かれている理由とされる。
この記述に沿えば、先ず内宮があり、後から外宮ができたことになる。

だが伊勢神宮の地に、もともと内宮と外宮がともに存在していて、後から内宮にアマテラス、外宮にトヨウケが祀られるようになった、と考える者もいる。

つまり、もともと伊勢の地に土地神を祀る神社が存在していて、後からアマテラスをそこに名つるようになったと考える人もいるということ。

伊勢神宮について、皇祖神を祀る最も重要な神社なので、全てのことが明らかになっているのかとも思われるが、必ずしもそうではない。

アマテラスの誕生

登場と同時に消えた神、アメノミナカヌシ(天之御中主神)

「古事記」で、最初に出現する神は、天之御中主神(アメノミナカヌシ)。

この神は、生まれるとすぐ消えてしまい、以後登場してこない。
「生まれましたよ、消えましたよ、何の物語もありませんよ」という神様だ。

物語も無いのに、なぜこの神が登場するのだろうか。
謎に包まれているが、「ビックバン」を表しているのではないか?!

出現と同時にすぐに消えるが、「全てはここから始まる」という神。

アマテラスの誕生

伊勢神宮に祀られる女神とされるアマテラスオオミカミ。
アマテラスの誕生について振り返る。

まず開闢神として、「誕生してすぐに消える神」が登場する。
アメノミナカヌシ天之御中主神)や、カミムスヒ神産巣日神)、タカミムスヒ高御産巣日神)。

次に神代七代に、一人神、そして夫婦神が登場する。
イザナキとイザナミの夫婦神もこの代の最後に登場する。

イザナキは男性神
イザナミは女性神

古事記では、高天原の神々がイザナキとイザナミに、

「~この漂っている国をつくり固めよ」と命じ、アメノヌボコ(天の沼矛)を授ける。
イザナキとイザナミは、高天原と地上を結ぶ天の浮橋の上に立って、アメノヌボコを下に降ろし、コオロ、コオロとかき回す。

かき回した後に、アメノヌボコを引き抜くと、矛のさきからしたたり落ちた潮が重なって島が生まれた。
オノゴロ島である。

イザナキとイザナミは、オノゴロ島に降り立ち、天の御柱を建てて、イザナキは柱を左回り、イザナミは右回りをして、出会ったときに声をかけ次々に島を生み出す。

いわゆる「国生み」が行われる。

「国生み」に続き、「神産み」が行われる。
だが、イザナミは、火の神ヒノカグツチを産んだとき、ホト(女性器のこと)を焼かれて死んでしまう。

怒ったイザナキは、自分の子であるヒノカグツチを殺してしまった。

日本の神は死ぬ

イザナキ・イザナミの時代の神は、一部人間のようだ。
神でありながら死ぬし、神でありながら子が女性のホトから生まれる。

「古事記」や「日本書紀」に出てくる神は、ほとんど死なないが、イザナミとヒノカグツチは死んでいる。

だが、死んだイザナミは死んだ後、黄泉の国へ行ったことになっている。

イザナキは、黄泉の国へと愛する妻を迎えに行くのだが、黄泉の国の住人となったイザナミの醜い姿に恐れをなし逃げ出す。

二人は、ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)で追いかけっこになったが、イザナキは生者の世界になんとか脱出することに成功する。

黄泉の国を脱出したイザナキは、黄泉の国の穢れを清めるため顔を洗う。
すると、左目からアマテラスが、右目から月夜見が、そして鼻からスサノオが生まれる。

神は、男だけでも子を産むことができる。
人間らしい部分と、人間を越える神の部分があるわけだ。

イザナキは、このとき生まれた三柱の神にそれぞれ役目を与えた。

アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の世界(夜の食国〈おすくに〉)を、スサノオには海原を支配するように命じた。

ここで面白いのは、「昼間の国」を誰に治めさせるかを決めていない点。
この、支配する者が決まっていない「昼間の国」という伏線が、後の天孫降臨へとつながる。

「古事記」と「日本書紀」で表記が違う

アマテラスは、「古事記」では「天照大御神」と表記される。
「日本書紀」では、「天照大神

つまり、「古事記」と「日本書紀」では、表記が違っている。
このように、「古事記」にも「日本書紀」にも登場するのだが、表記が違う神が少なくない。

同じ神が、多くの別の名前をもつ

さらにやっかいなのが、同じ神なのだが、別の名前をもつ神の多い。

そして、同じ神なのに名前が違うと、別々の物語がある。
別名が最も多い神は、オオクニヌシノミコト(大国主神)。

  • 大穴牟遅神(おおあなむぢ-)・大己貴命(おおなむち-)・於褒婀娜武智(おほあなむち-)・大穴持命(おおあなもち-、『出雲国風土記』、『伊予国風土記』逸文での表記』)・大汝命(おおなむち-、『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち-)・国作大己貴命(くにつくりおおなむち-) – 誕生後の名。
  • 八千矛神(やちほこ-) – 沼河比売との歌物語での名。「多くの矛」の意。
  • 葦原色許男・葦原醜男・葦原志許乎/葦原志挙乎命(あしはらのしこを) – 根国での侮蔑を込めた呼称。「地上の現実の国にいる醜い男」の意。
  • 三諸神(みもろ の かみ)・大物主神(おおものぬし-)・八戸挂須御諸命/大物主葦原志許(やとかけすみもろ の みこと/おおものぬしあしはらのしこ、『播磨国風土記』での表記) – 『古事記』においては別の神、『日本書紀』においては国譲り後の別名。「偉大な精霊の主」の意。
  • 宇都志国玉神(うつしくにたま-)・顕国玉神 – 根国から帰ってからの名。「現実の国の神霊」の意。
  • 大国魂神(おおくにたま-) – 各地の神社で同一視される。「偉大な国の神霊」の意。
  • 伊和大神(いわ の おおかみ)・国堅大神(くにかためましし おおかみ)・占国之神(くにしめましし かみ)・大神 – 伊和神社主神 – 『播磨国風土記』での呼称。
  • 所造天下大神(あめのしたつくらしし おおかみ) – 『出雲国風土記』における尊称。「地上の国造った神」の意。
  • 地津主大己貴神(くにつぬしおおなむち の かみ)・国作大己貴神(くにつくりおおなむちのかみ) – 祝詞『大国神甲子祝詞』での呼称。
  • 幽世大神(かくりよ の おおかみ) – 祝詞『幽冥神語』での呼称。
  • 幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ) – 「幽冥界を主宰する神」の意。
  • 杵築大神(きづき の おおかみ)
ウィキペディアより

「オオナムチ」「オオモノヌシ」「オオクニタマ」「イワノオオカミ」「カクリヨノオオカミ」
などなど。

「オオクニヌシ」のように、神の名を統一して表記するのはむずかしい。
そこで、以後は「古事記」の表記、もしくは片仮名で、最も有名と思われる名を表記とする。

名前が変わった神社、「祇園社」

神社の名前が変わる場合がある。

例えば、須佐之男命(スサノオノミコト)を祀る八坂神社は、明治時代以前は「祇園社(ぎおんしゃ)」と呼ばれていた。

八坂神社で御朱印をもらうと、御朱印には「八坂神社」ではなく「祇園社」と書いてある。
つまり、八坂神社は「祇園社」としての伝統を重視していることが読み取れる。

この祇園社の西側にある京都の歓楽街が「祇園」と呼ばれるのは、この祇園社に由来する。

祇園精舎と祇園社は違うのか

そもそも祇園とは、神武天皇が建国した頃(約2600年前)、インドのコーサラ国というところの祇多太子(ぎだたいし)と言う方が所有していた林(祇樹ぎじゅ)のこと。

そして、「精舎」とはお寺のこと。
つまり、祇園精舎とは、「祇樹にあった寺」。

当然、京都の祇園社(八坂神社)の創祀の由来

京都の祇園社の創祀の由来は二つある。

祇園社創祀の由来

渡来人が神様をお祭りしたことに始まる、とする説

斉明天皇の2年(656年)に、高麗からやって来た伊利之(いりし)という人物が、新羅の牛頭山(ごずさん)に座していたスサノウのミコトを山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に祀ったことから始まる、とする説。

この場合、スサノウは新羅にいた神ということになる。

お坊さんがお堂を建立したのが始まり、とする説

貞観18年(876年)、円如(えんにょ)という南都の僧が、この地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の山麓、つまり祇園林に降り立ったことに始まる、とする説。

本家本元の祇園精舎はお寺なので、円如が建てた寺の林が祇園林ならつじつまが合う。
日本には本地垂迹思想があるから、祇園林に神が降り立っても何の不思議も無い。

個人的には、こちらの説を支持するが皆さんはいかがか。

なぜ、祇園神社ではなく祇園社といったのか

実は、明治以前は「○○神社」というより「○○社」という方が一般的だった。
つまり祇園社だけ、特別に祇園神社と言わずに祇園社と言ったわけではない。

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