神は,仏の仮の姿『神仏習合』
神仏習合と言うのは、「神道と仏教の融合」のこと。
奈良時代から、この考え方が起こり、平安時代の末ごろには定着した。
「神も仏も、本来は、同じ」
という考えが定着した。
現代人の感覚で言うと、「神は崇高な存在」で「神と仏は別物」、「当然神社と寺は別物」という感覚だ。
だが、奈良時代から江戸時代の松までは、現代人の感覚とは違っていた。
仏教では、「神も輪廻転生する」
仏教の考え方では、「神も輪廻転生(りんねてんしょう)する」と捉えていた。
さらに、神という存在は、「最終的な仏になるまでの通過点の姿」と言う。
つまり「仏が上で、神が下」という捉えだ。
仏教は、経典をもっている。
考え方、理論を練り上げている。
それに対し、神道は、そもそも経典を持たない。
「輪廻転生だとか、神は仮の姿で仏が本来行き着くべき姿」
などという理論武装では、神道より仏教の方がどうしても強い。
さらに、神道の神職より、仏教の僧侶の方が圧倒的に人数も多かった。
こうして、古代の神道に仏教が交じり、神社にさえ寺院が建てられ神仏混交するようになる。
こうして、神社の中に寺(神宮寺)があっても、違和感を感じない日本人特有の感覚が醸成されていった。
国学や復古神道による、仏教批判
奈良時代から続く、「神も仏も元は同じ」、「神よりも仏が上」という感覚は、江戸時代の檀家制度、寺請制度が確立すると、一層強まった。
江戸時代の寺請制度の下では、人々は、必ずどこかの寺院に所属し、「誕生、結婚、死亡」の人生の節目ごとに所属の寺院に届け出ることが義務付けられた。
つまり、寺院が役所の機能を果たしていたので、必然的に「坊さんが権威をもつ」ようになっていった。
中には勘違いした坊主が、民衆に対して威張り散らすような風潮も生まれる。
このような風潮に対し、江戸時代の中期になると、『国学や復古神道』が生まれた。
「国学や復古神道」、さらには「仏より神の方が上の存在だ」と主張するなども生まれ、仏教教批判の動きも高まった。
明治の神仏分離令
明治元年(1868年)、「神道国教化」を進める明治政府によって、『神仏分離令』が発せられた。
これにより、神社と寺は分離することになり、それまでの日本人の宗教観は一変する。
仏教に反感を持っていた人々により、寺や仏像を破壊する廃仏毀釈が行われ神社の様子も変わる。
これにより、明治以前の神仏習合の様子が分かりずらくなっている。
大神神社にあった二つの神宮寺
明治維新による神仏分離令の前まで、大神神社(おおみわじんじゃ)にも二つの神宮寺があった。
大御輪寺
大神神社の神宮寺のうち、一つは大御輪寺(だいごりんじ)といった。
大御輪寺は、「おおみわでら」とも呼ばれたという。
大御輪寺は、廃仏毀釈により廃寺となり、現存していない。
平等寺
もう一つの神宮寺は、平等寺(びょうどうじ)という。
こちらも、廃仏毀釈により一時廃寺となっていた。
しかし、昭和52年(1977年)に曹洞宗の寺として再建されている。
三輪神道
大神神社では、独特の神道「三輪神道」が生まれている。
提唱者は、平等寺の慶円と言われる。
大神神社の祭神は、「オオモノヌシ」だが、三輪神道では、
大神神社に祀られる『三輪明神』は、「アマテラス」と同体
とされてる。
三輪神道においては、三輪神社に祀られる「三輪明神」は、本来「大日如来」。
その大日如来様は、「天上においでの時は、『アマテラスと同体』となって現れた。
つまり、
「アマテラス」=「大日如来」=「三輪明神」
という習合が起きているという考え方が、『三輪神道』。
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