大神神社とオオモノヌシ
大神神社(おおみわじんじゃ)には拝殿はあるが、本殿がない。
「では、御神体はどこにあるのか?」
拝殿の裏の、標高467メートルの三輪山そのものが御神体。
古代の本来の神社は、おそらくこのように自然そのもの、例えば岩(磐座)であるとか、山であるとかが御神体そのものだったのだろうと思われる。
ごく初期の大神神社では、(磐座)が御神体であり、
後に、磐座のある三輪山そのものが、御神体となったようだ。
後の時代になって、御神山の前に鳥居が建てられ、拝殿が建てられた。
大神神社の祭神、「古事記」のオオモノヌシ
オオモノヌシ(大物主神)は、オオクニヌシ(大国主)と似ている。
「古事記」では、オオクニヌシの相棒のスクナヒコナが常世の国に去ってしまった後、
オオモノヌシが、
「自分を祀ってくれたら国づくりに協力する」
と言った。
約束通り、国づくりをよく手伝ったので、園褒美として、オオモノヌシは大神神社の三輪山に祀られることになった。
初代神武天皇の妻の父
オオモノヌシは、オオクニヌシの補佐なので出雲系の神なのだろうが、天孫にもかかわる神話もある。
「古事記」に、初代天皇の神武が皇后を選ぶときの物語がある。
オオモノヌシは、ミシマノミゾクイ(三島溝昨)の娘のセヤダタラヒメ(勢夜陀多良比売)が好きになった。
オオモノヌシは、我が身を赤く塗られた矢(丹塗矢(にぬりや))に変えて、姫を川で待っていた。
セヤダタラヒメが川に用を足しに来たときに、オオモノヌシは彼女のホトをついた。
驚いたセヤダタラヒメは、驚いてオオモノヌシが化けた丹塗矢を拾って自分の部屋に逃げ帰った。
姫は、その矢を自分の部屋の床に置いておくと、矢はうるわしい男にその姿を変えた。
その男とは、もちろんオオモノヌシだった。
こうしてセヤダタヒメは、オオモノヌシは恋に落ち結ばれ、やがて娘が生まれる。
この娘こそ、初代天皇、神武の后になった姫だった。
(古事記より)
また、次のような話も出てくる。
第10代崇神天皇の時代、世に疫病が蔓延した。
崇神天皇が神のお告げ(託宣)をもらうために神床に座っていると、夜にオオモノヌシが姿を現した。
オオモノヌシは、
「疫病を治め猛れば自分を祀れ」とお告げを告げた。
祀り手としては、オオタタネコ(意富多多泥古命)を指名した。
オオタタネコを探し、素性を探ったところ、オオモノヌシの子孫であることが分かる。
そこで、オオタタネコに三輪山でオオモノヌシを祀らせることになった。
(古事記より)
「日本書紀」のオオモノヌシ
崇神天皇の7年2月、国中で災害が多発した。
崇神天皇は神浅茅原(かむあさじはら)に八百万の神々を集めて占った。
そのとき、オオモノヌシが、「ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)」に神がかりし、自分を祀るように命じた。
また、このあと数名が、オオモノヌシとヤマトノオオクニタマをオオタタネコともうひとりに祀らせよという夢を見たので、その通りにしたところ国が鎮まったという。
(日本書紀より)
ヤマトノオオクニタマは、アマテラスと共に朝廷に祀られていたところ、災害を引き起こす原因となったのでアマテラスとともに、朝廷から出されたという、あの神である。
さらに「日本書紀」の崇神天皇の10年に、「古事記」の丹塗矢と似た話が載っている。
「古事記」では、神武天皇の代の話として載っていた。オオモノヌシとセヤダタラヒメとの話だった。
「日本書紀」では、崇神天皇の代の話として載っている。オオモノヌシとヤマトトトヒモモソヒメの話。
ヤマトトトヒモモソヒメは、オオモノヌシの妻となった。
だが、オオモノヌシは夜にしか姫のところにやって来ない。
姫は、「これでは、私の夫がどういう人なのか分からない。姿を見せて欲しい」と、オオモノヌシに頼んだ。
すると翌朝、オオモノヌシは小さな蛇の姿で、姫の櫛入れの箱の中に納まって現れた。
だが姫は、櫛入れの中に蛇がいたので、驚いて叫んでしまった。
オオモノヌシは、それを恥じて三輪山に登って姿を隠してしまった。
ヤマトトトヒモモソヒメは、後悔して、腰を落としたところ、折悪くそこに箸があり、ホト(陰部)を突き刺してしまった。
姫はそれが元で死んでしまう。
姫の死後、ヤマトトトヒモモソヒメが祀られたのが箸墓古墳(はしはかこふん)とされる。
なお、この古墳は卑弥呼の墓という説もある古墳だ。
(日本書紀より)
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