家光、将軍職継承
竹千代が家光と名乗ったのは、元和6年(1620)9月7日だった。
同日、弟の国松も元服し、忠長となった。
家光17歳、忠長15歳のことだった。
本来、家光はもっと早く元服するはずだった。
家康は、竹千代をもっとはやく元服させたいと考えていた。元和2年(1616)に、竹千代を元服させようと考えていたが、この年家康は病気となり、4月17日に没してしまった。
家康は、念願の竹千代元服を見ることが出来なかった。
結局、父秀忠の手により、元和6年(1620)9月7日の元服となったのだった。
家光が元服した3年後の元和9年(1623)7月27日、秀忠は将軍職を家光に譲った。徳川3大将軍家光の誕生である。
この年、秀忠は45歳、家光は20歳となっている。
秀忠はこの後、家康と同じように大御所となる。
つまり、将軍職は家光に譲るが、実権は秀忠にある。まさに父、家康と同じ道を歩んだ。
秀忠の場合、慶長10年(1605)に家康から将軍職を譲られた。家康の将軍就任後、わずが2年後のことだった。
そして、元和9年(1623)に、家光に将軍職を譲っているので、秀忠が将軍だったのは、18年間ということになる。
だが、この18年のうち、家康の死までの10年間は、大御所家康が実質的な権力を握っていたので、秀忠が自分の政治を行えたのは、わずかに8年間。
「秀忠は、たったの8年間しか、実権を握れなかったのか」と、思ってしまいがちだ。
ところが、そうではない。
秀忠の事跡を追うと、将軍職だったときよりも、将軍を退き大御所となってからの方が、特筆すべき業績が多い。
歴史学習で、年表を見るときの注意点
歴史を学ぶとき、どうしても年表を見て判断しがちになる。
この時期の為政者は、将軍だから、この時代のこの出来事はこの将軍の業績だろう、と安易に判断してしまいがちだ。
だが、この歴史的見方・考え方は、謝った理解を生むこともある点に、注意が必要だ。
家光が元和9年(1623)に将軍になったと、年表から読み取ったとしたら、その後の出来事はすべて新将軍家光の考えに沿って行われたと考えてしまう。
しかし、この場合それは錯覚。
大御所秀忠が健在なうちは、将軍家光より、大御所秀忠の方が上であり、政策決定者は秀忠なのだ。
このあたりに、幕府政治の複雑さ、理解の難しさがある。
朱印船貿易を、奉書船貿易に切り替えたのは、誰か
例を挙げる。
それまで貿易は、朱印船貿易を行っていた。この貿易の形式を家光の時代に奉書船貿易に切り替えた。
これは寛永は8年(1631年)の出来事なので、将軍は3代家光だった。
しかし、実際にこの政策を進めたのは、大御所の秀忠だったのだ。
朱印船貿易とは、奉書船貿易とは
朱印船貿易を簡単に説明すると、
戦国時代末に秀吉が定め、江戸時代初期の家光の時代の前期まで行われていた貿易形態。
日本人が東南アジア諸国に出向いて行った貿易の方法。
貿易ができるのは、為政者から「貿易を許可する貿易許可証」である朱印状をもらわなければならなかった。その朱印状にちなんで、この貿易を朱印船貿易と呼ぶ。
奉書船貿易を簡単に説明すると、
朱印状に加え、奉書を持たないとダメ、とする貿易形態。
貿易が盛んになると、キリスト教の問題が深刻になってきた。 徳川家康は当初貿易を優先し、キリスト教問題を黙認していた。
だが、西洋の諸外国での所業を考えると黙認できなくなり、1612年に禁教令を出した。(1612年に幕府直轄領に禁教令。翌1613年に全国に禁教令)。
ただし、この時点ではまだ貿易を制限することはなかった。
ところが家康が亡くなり、2代将軍となった秀忠は、果断に大なたを振るう。
元和の大殉教と呼ばれる大量処刑(1622年)のような、キリスト教に対する徹底的な弾圧を始めた。
また、ニセの朱印状を使用したり、朱印状を奪い取り、それを使って朱印船であると偽ったりする例も増えていた。
このような状況下で、貿易制度の正常化を図って秀忠政権が導入したのが奉書船の制度。
寛永8年(1631年)のことだった。
具体的には、これまでは朱印状をもっていれば、日本の公式な貿易船と認められていた。しかし、今後は朱印状に加えて老中が発行した奉書という書類をもっていないとダメということになった。
つまり、「朱印状+奉書」の2点セットが日本の正式な貿易船として認められる条件となった。
奉書船制度は、わずかな期間で終了
寛永10年(1633年)になると、奉書船以外の船は海外渡航そのものができなくなる。
また、5年以上海外に住んでいる者は日本に帰国できなくなった。
寛永12年(1635年)には日本人の海外渡航が全面的禁止。
これにより奉書船の制度は終わりを告げた。
日本は「鎖国」への道を進むことになる。
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