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本能寺の変:なぜ裏切った!光秀の後ろには黒幕がいた説

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光秀は、信長を殺す気はなかった

光秀たちは、信長を殺す気はなかった。あくまで、信長を引退させることに目的があったとする。
それを裏付ける一次資料として、筆者は光秀が乱後に細川藤孝に送った書状を挙げている。

〈史料〉
(この度(たび) の事は) 我らには不慮(ふりょ) (想定外)の事態でした。

(天正10年6月9日付け細川藤孝宛て書状)

信長が死んでしまったことは、「不慮」のことだったと言っている。
また、「我ら」とは、だれを指しているのだろう。甘露寺経元以下、談合にかかわった面々を指している。

本能寺の変を仕組んだのは、光秀単独ではなく、複数。
そして、
「信長の死は、信長追い落としを図った我らにとって、想定外の事だった」と、信長を殺す事が目的ではなかったことを示していた。

なぜ信長は、自ら火を放ち死を選んだのか

信長追い落としを図った者たちは、信長の死を目的としていなかった。
信長の幽閉を想定していたに過ぎない。では、なぜ信長は本能寺に火を放ち自死してしまったのか。

信長は病気だった

名古屋総見寺蔵:40代後半の信長 生気がない

『戦国武将のカルテ』を著した、医師の篠田達明氏は、信長の健康状態について、『本格的な発作に至る以前にしばしば見られる微少な脳梗塞』と見立てている。

信長には、天正 8年8月から同 9年正月にかけて信長最大の謎とされる信長が何をしていたのか分からない空白期間がある。

筆者たちは、信長の身に何か変事が起こったのだと見ている。
次の年の正月に、例年行われていた年賀の儀が急きょ取り止めになっていることからも、疑念が深まる。
これは、信長の健康状態が優れなかったためだと思われる。

信長の病は、軽度の脳卒中のようだ。だが、しばしば発作を繰り返し徐々に顔つきすらも変えてしまったようだ。30代の活力に満ちた顔が、40代後半の顔の描写は衰えを感じさせる。右目が垂れ下がっているように見えるのも気になる。

そして、信長は、本能寺の変の2か月前に、家督を信忠に譲ることを宣言する「天下の儀譲渡」を宣言している。
実質的な権力委譲は行わないが、名目上は信忠に家督を譲っているという点は見逃せない。

光秀たちの療養専念依頼を受け入れず 自死した

信長は、健康面で問題を抱えていた。
そこで、光秀らは本能寺で信長に「病気療養に専念してくれるよう依頼」することを試みた。前の「天下の儀譲渡」はあくまで名目で実質的な権力は信長にある。
それを、宣言通りに実質的に権力を信忠に譲り、信長自身には隠棲を促すことを試みた。(実質的な幽閉)

表面上は、「信長の健康面を考慮して隠棲することを迫る」
これなら、信忠も光秀も、大義名分が立つ。

だが、信長は隠棲要請を拒む。
交渉はうまくいかなかった。だから、明智勢は一時撤退した。

業を煮やした光秀たちは、信長を不本意ながら威嚇する。しかし、矢も鉄砲も本気で使用しなかった。
ところが、信長は奥へこもり、自ら火を放ち自死してしまう。

なぜ信長は自死してしまったのか。
『病魔に冒されている信長が、「自分の死に時は、今だ」と判断してしまったから』、と述べる。
病魔に冒され、おそらく自分の全盛は過ぎたことを自覚していたのだろう。

なぜ光秀は、「信長の強制隠棲」の首謀者の一人と見られる織田信忠を殺したのか

織田信忠

信長が、自ら死を選んだ、ということまでは、「まあ、そういうこともあるかもしれない」と思える。
だが、どうして、信長を隠棲させた後に、織田家の当主となる(主君となる)はずの信忠を殺してしまったのか。
ここが、疑問だ。
これについて、筆者は次のように説明する。

「信長隠棲計画がうまくいかず、クーデター側の意図から外れて自死してしまった」としても、信長が死んだ以上、子である信忠は、武士として、父の仇を討たなければならない立場になった。

実質的に父を死に追いやったのは、光秀だ。
光秀が、いくら「信長の死は計画外だった」と、弥助に見たままを語らせたとしても、「信長の死」の事実は、変えられない。問答無用の状態に陥った。

光秀は最初の1時間程度、信忠のいる二条御所を包囲しても、攻めていない。
信忠に自身の身の潔白を説明するために奔走していたのだろう。

だが、互いに武士である以上、説明は無駄だ。
信忠は、父の仇を討たなければ,例え信長に正式に家督を譲られていたとしても、織田家の頭領になることはできない。

やがて、交渉は決裂し光秀は、信忠を討った。
これが、本能寺の変の真相だと。

まとめ

本能寺の変の真相は、

光秀の単独犯行ではなく、家督を譲られている信忠の実質的な権力委譲を信長に迫ることを目的として、信忠を統領に据えたい光秀もはじめとする織田家家臣団、並びに甘露寺経元、勧修寺尹豊・晴右ら公家衆が共謀して起こしたクーデターであった。
だが、病魔に冒されていた信長は、家督を譲り、実施的に幽閉された状態で権力を失えば、今まで容赦ない態度で接してきた今までの家臣団にいずれ殺されるはずと考えた信長は、自死を選択してしまった。

信長の自死で、計画が狂ってしまった信忠は、同志であった光秀と争う事になる。結果、光秀は主君と仰ぐはずだった信忠も殺してしまった。

と、斎藤忠氏は主張する。

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