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本能寺の変:なぜ裏切った!光秀の後ろには黒幕がいた説

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本能寺の変の真の黒幕『明智光秀に織田信長を襲わせた黒幕は誰か』

清水寺の飲み会ならぬ「密会」が行われ、信長追放の密議がされたのなら、その密会を主催したのは誰だったのか。それは、甘露寺経元であり、勧修寺春豊であり、春豊を裏で操っていた勧修寺尹豊(ただとよ)らの公家だ。

山崎の合戦の後、勧修寺尹豊らは姿をくらます

山崎の合戦の後、勧修寺尹豊らは、捕縛を畏れて逃げている。この事実を見るだけでも、本能寺の変には、公家たち、すなわち朝廷が深く関わっていた可能性が高い。

公家の首魁 勧修寺尹豊(かんしゅうじ ただとよ)は なぜ信長の命をねらったと考えられるのか【私怨】

勧修寺尹豊は、生きている者として最高位の「従一位」の座に30年の間留まっていた。
ただし、21年目に出家しているので、名目上は従一位を返上したことにはなっている。

家格の都合上、権大納言の地位ではあったが、実質的には大臣待遇。
尹豊がいたから、足利幕府にも、三好三人衆にもひけを取らずに朝廷の地位を保つことが出来ていた。

この尹豊には、晴右(はるすけ)という息子がいた。尹豊の孫晴豊の父である。
この晴右は、信長の意に沿わない朝廷人事を行ったため、信長に蟄居を命じられてしまう。そして、鬱々とした日々の中死んでしまう。
尹豊ら勧修寺家の者たちは、晴右の死を「信長のせいだ」と、恨みを抱いた。
つまり、尹豊晴豊に取ってみれば、信長は息子の敵、父の敵であった。

公家の首魁 勧修寺尹豊(かんしゅうじ ただとよ)は なぜ信長の命をねらったと考えられるのか【公家の首魁としての立場】

信長は、もはや朝廷の臣下である必要はなくなっていた。
この頃、朝廷は4年にわたり信長に官位を与えようとしていた。だが、信長は朝廷からの「顕官推任」を拒み続けていた。

甲州武田攻めからの凱旋以来、勧修寺晴豊は信長に推任の打診を続けている。しかし、信長はあいまいな態度をとり続けてきた。

信長は4年前の春、上杉謙信の病没を期に、右大臣を辞した。
それ以来、官職に就かず無官を通していた。

いやいや、「位階を辞退していたわけではない」と、言う人も実は多い。
だが、謙信、信玄亡き後の信長は、
『位官の如(ごと) きは必要なら利用するが、もはや必要ない』
と思っていたのではないだろうか。

というのは、「朝廷の臣下としての地位は、邪魔」になっていただろうからだ。
武家の棟梁として、朝廷から離れた自由な立場にあった方が動きやすい。

現に家格上は、公家筆頭の近衛前久(さきひさ)などは、武田責めの時には信長から1800石をあてがわれ、参陣している。朝廷のトップが、実質的には信長の寄子(家来)となっていた。

逆を返すと、朝廷側は、「信長は朝廷の臣」という立場にしたかった。
そのためには、何としても信長に位を授ける必要があった。その上で、信長をどこかの山にでも、幽閉してしまえれば100点。
尹豊らは、公家としてそう考えていたのではないか、という。

信長は、太政大臣に任官されていた?

『信長は、本能寺の変の間際に太政大臣に任官されていた。』
信長の死後、信長は『贈太政大臣』となっていることはよく知られている。

だが、実は信長の死後ではなく、生前に信長は太政大臣になっていたとする説もある。
そして、任命書である位記(いき)を発行していたことは確かなようだ。

どうやら、朝廷は、信長の了解を取らずに勝手に位記を発行したようだ。だが、当然信長はそれを受けず、そのままになっているうちに、本能寺の変が起こったらしい。

もしかすると本能寺の変の序盤の交渉で『信長が位記の受領を拒んだ』ので、「これじゃあもう、信長を強制的に引退に追い込むしかない」と考えたことで、明智勢の行動がエスカレイトし、信長を自死に追い詰めることになったのかもしれない。

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